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現地説明会

奈良県御所市極楽寺 2005.2.26(土)





御所市内を見下ろす高台にこの館は建っていた。晴れたら奈良の若草山が見渡せるそうだ。









葛城円の居館址か? 極楽寺ヒビキ遺跡



	
	「御所で葛城氏の館跡発見さる!」「雄略天皇に焼き討ちを掛けられて滅ぼされた、葛城円(つぶら)の館跡か?」
	という末尾の新聞記事を見て、こりゃ行かずばなるまいと歴史倶楽部の皆さんに声を掛けた。葛城王朝の権化とも言うべ
	き鳥越憲三郎氏を叔父さんにもつ河内さんは当然として、橋本さん、小川さんが乗ってきたが、小川さんは体調が悪くて
	当日欠席。説明会途中から猛吹雪となったので、風邪気味では欠席して正解だったかもしれない。


	近鉄阿倍野駅で河内さんと待ち合わせて忍海(おしみ)駅へ向かう。尺土(しゃくど)駅で御所(ごせ)線に乗り換えて、
	5,6分だ。着くと橋本さんが待っていた。案内していた係員に聞くと、午前中は結構見学者が多かったが、今はちょっ
	とすいてきたとの事で、よしよし。遺跡からの出土品は、すぐ近くの「葛城市歴史博物館」に展示してあるとの事だった
	が、とりあえず遺跡を見てから帰りに寄ることにした。


	駅前に立つ周辺案内。すぐ側に「角刺の宮」「飯豊天皇陵」がある。皇統府には飯豊天皇の名はない。

	雄略天皇は、天皇位を手にする為、自分の兄弟も継承権を持つ親族をも殺しまくった人物である。しかし、因果が報いた
	のか子宝には恵まれず男女一人ずつで、(日本書紀の方には数人いる。)白髪武広国押稚日本根子(清寧天皇)は、即位
	して間もなく崩御する。後継者選びに困り果てた臣、連周辺は、雄略に滅ばされた市邊押磐皇子(いちのべのおしはわけ
	のおうじ)の子達を探し出したが、皇太子億計(おけ)皇子と弘計(おけ)皇子とは互いに位を譲り合い、長く皇位につ
	かなかった。このため両皇子の姉の飯豊青皇女(いいとよのあおのおうじょ)が、忍海の角刺宮で、自ら忍海飯豊青尊
	(おしぬみいいとよのあおのみこと)と名乗り、暫時王位に就いた、とされる。飯豊天皇はこの故事に基づいている。

	日本書紀には、億計(顕宗天皇)・弘計(仁賢天皇)の姉として、「忍海角刺宮(おしぬみのつぬさしのみや)に於て臨朝
	乗政(みかどまつりごと)したまふ」と書かれ、古事記には、市邊押磐皇子の妹として「葛城の忍海の高木の角刺の宮にま
	しましき」と記されている。
	飯豊(いいとよ)は歴代の天皇には含まれていない。古事記の記述では、何年間か治世があった様に書かれているが、天
	皇家がまだ男系を重視していた時代では番外の扱いだったのか、本格的な日本最初の女帝は、推古天皇の登場まで現われ
	ない。忍海飯豊青尊は崩御して、葛城の埴口丘陵(奈良県北葛城郡新庄町北花内)に葬られた。その御陵がここにある。






	以前「葛城の道をゆく」で歩いた道の、集落の高台でバスを降りた。遺跡まではズーツと降っていったが、周辺の民家で
	は、見学客を相手にして附近の特産物を販売していた。猪の肉も「シシニク」として売っていた。奈良新聞は、遺跡発見
	のニュースが載った新聞を、一部300円で販売していた。高い!








	廻りの木が無ければ相当見晴らしのいい高台に建っている。聞けば、晴れれば奈良の若草山が見えるらしい。しかし平地
	からすれば相当な高台である。こんな所へ逃げてくるのもなんだが、取り囲んで火を掛けるのも大仕事だったろう。


しかし、「全面的に焼けた跡が見られる」というのは、上から見た限りではよくわからなかった。変色部分がそうなのかな。





上から遺跡を見る河内さん。白いあご髭みたいに写っているのが、今にして思えば雪だったのだ。



	柱の廻りにある二重目の線は庇(ひさし)だそうである。ちょっと、どういう感じで立っていたのかわからなかった。5
	世紀前半の遺跡だそうだが、5世紀前半では雄略期には早いような気もする。今のところ、調査地でわずかに見つかった
	土器からわかる年代で5世紀前半という事になっているが、463年ごろとされる焼き打ち事件とややずれがあり、真相
	解明にはさらなる資料が必要だろう。説明が始まった頃から雪が本格的に降り出した。現地説明会にもだいぶ行ったけれ
	ど、雪の中の説明会は初めてで、これはこれでオツなもんだった。






	
	安康3年(475?)、天皇が眉輪王に暗殺されるという事件が発生する。すかさず安康天皇の実弟である大泊瀬皇子(雄略)
	は、異母兄の二皇子を疑い、眉輪王・円大臣及びその協力者たちを攻め、更に履中天皇の第一皇子であった政敵の「市邊
	押磐皇子」らを滅ぼし、丁酉年11月13日、泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや)で自ら即位する。


	
	安康横死を知ってからの大泊瀬皇子の動きは迅速である。まず、異母兄の八釣白彦(やつりしろひこ)皇子を責め、問い詰
	める。「眉輪王が大王を殺した。そそのかして殺させたのは、お前だろう。」八釣白彦皇子はまだその知らせも聞いても
	いず、当然否定したが、大泊瀬は聞き入れず殺してしまう。続いてもう一人の異母兄、坂合黒彦(さかいのくろひこ)皇
	子を責めた。皇子は逃げ出し、眉輪王も共に逃げ、葛城氏の当主・葛城円(かつらぎのつぶら)に助けを求めた。円は大
	臣(おおおみ)で、当時の最高執政官である。円は彼らをかくまった。
	しかし大泊瀬は手をゆるめなかった。円邸を大軍で取り囲み、激しく攻撃した。ついに円は降伏し、娘の韓媛(からひめ)
	と領地7箇所を献上すると助命を申し出たが、雄略は「娘と領地はもらってやる。しかしお前たちは死ね。」と、円邸に
	火をかけた。火は瞬く間に燃え広がり、眉輪王・坂合黒彦皇子・葛城円らは全員焼き殺された。この後、大泊瀬皇子は市
	邊押磐皇子(いちべのおしはのおうじ)・御馬(みま)皇子兄弟もだまして殺害、泊瀬朝倉宮にて、雄略天皇として即位す
	るのである。


	
	これが日本書紀に言う雄略天皇(大泊瀬皇子)の即位譚である。大伴・物部を中心とした伴造系氏族の武力を背景とし、
	葛城系と見なされる眉輪王らの「葛城系勢力」を排除しての即位であった。それはその後、「大伴・物部系」の平群真鳥
	が大臣、大伴室屋・物部目が大連に任命されている事から、当時の二大勢力に後押しされての大王就任だった事がわかる。
	想像をたくましくすれば、安康天皇殺害を仕組んだのは雄略自身かもしれないのである。
 	日本書紀によれば雄略天皇は、残虐非道な暴君として記録されている。市邊押磐皇子を殺した時のやり方は残虐で、体を
	切り刻み、馬の飼い葉桶に入れて土中に埋めたと伝えられる。雄略2年、妃に望んだ百済の池津姫(いけつひめ)が石川
	楯(いしかわのたて)と密通していることが露呈した。天皇は激怒して大伴室屋(おおとものむろや)大連に命じて来目
	部(くめべ)を派遣して二人を磔にしたあげく焼き殺した。
	また吉野宮に行幸した際、狩りの獲物の事で部下の言動に怒り、御者を斬り殺した。天皇はまもなく還幸したが群衆は恐
	れおののいた。心を痛めた皇后等は、宍人部(ししひとべ)を設けることを提案して天皇を諫め、天皇もこれに従った。
	しかしその後も独断専行の残虐ぶりは続き、多くの人々を殺害したため「はなはだ悪しくまします天皇なり」という評価
	を後世に残す。


葛城円(つぶら)の死をもって、ここに葛城本宗家は滅亡、以後二度と大臣に就任する者は現れていない。



雪は本格的に吹雪となり、一時はもう案内板も見えなくなるほどだった。ここで下へ降りてもっと間近に見てみる。



焼土は柱の跡に残っているらしい。後の新聞記事によれば確かに黒く焦げた跡があるが、ここからではあまりよくわからない。



	
	標高240bの丘陵。そこの水田を10aほど掘って大きな柱穴が出現した。眼下には奈良盆地が広がり、30`以上離
	れた奈良市の市街地も見通すことができる。県立橿原考古学研究所の調査員らも、出現した「葛城氏の遺構」には興奮し
	たらしい。新聞記事によれば、「葛城氏の遺構があるかもしれないと予想はしていたが、これほど大規模とは」とある。


	
	ヤマト王権の中心は奈良盆地にあった。その南部を治めた葛城氏は、大王家の外戚として勢力を誇った。金剛山(1125m)
	の麓の一帯に様々な遺跡・遺構が点在しているのがそれを裏付ける。水の祭りの場とされる導水施設、神殿らしい大型建
	物、工房、倉庫群、いくつもの居住区域等。それらを見下ろす位置に巨大な建物跡があった。「都市」の中心にふさわし
	い場所ともいえる。2階建て以上とみられるこの建物は、広場や物見やぐらを伴い、一部は二重の塀が囲う。石を張った
	堤を持つ堀には、数カ所に大きな石を据えた庭のような部分もあった。土器の出土は少なく、生活臭がない。


	
	発掘を担当した県立橿原考古学研究所の西藤清秀・調査第2課長は「各施設を見渡した行政の中枢だった」とみる。奈良
	芸術短大の前園実知雄教授(考古学)は、「軍事的な施設の可能性も考えたい」という。谷に面し、敵が侵入しやすい山
	側に堀がある。防御に適した特徴から、都市を守る監視施設にも見える。
	つい先日、高取町の文化財講演会で講演を聴いた、和田萃(あつむ)京都教育大教授(古代史)は、「建物跡は、失火で
	はあのように激しく焼けないだろう。大臣らが焼かれた館と考えていいのでは」と言っている。



	
	ほんとにここは、葛城氏「王宮」跡で、古代史の興亡舞台だったのだろうか。もしそうであるならば、下界を見下ろす丘
	陵に立ち、堀をめぐらせた堅固なつくりは、大王(おおきみ:天皇)家を支えながらそれに匹敵する力を蓄えた葛城氏の
	姿をいまに伝える。一方で激しい焼け跡は、雄略天皇の怒りに触れて火を放たれ、衰亡した事件の「証拠」となる。確か
	に、建物や塀の柱穴が真っ赤な焼け土に埋もれており、炭化した柱もあったそうなので、全体が大火で焼損した可能性が
	高く、後は建て直されることなく、そのままうち捨てられたらしい。









	
	神武天皇の子「綏靖天皇」から「開化天皇」までは欠史八代と呼ばれ、実在していないというのが史学界の定説だった
	が、我が歴史倶楽部の河内さんの叔父さんである、大阪市教育大学の名誉教授「鳥越憲三郎」氏は、この間、崇神帝の
	前までを「葛城王朝」だったという説を唱えた。葛城山麓にこれら天皇たちの伝承が多く残っているのを見ると、あな
	がちトンデモ説でもなさそうだ。葛城山麓は、古来より権勢の地であった可能性が強い。

	葛城氏はその名の通り葛城地方の豪族で、祖は葛城襲津彦(そつびこ)とされる。娘の磐之姫(いわれひめ、いわよの
	ひめ)が仁徳天皇に嫁いだ。嫉妬深い磐之姫は、仁徳の浮気の度に、「ああ、葛城に帰りたい。」と嘆く。
	襲津彦は、神功皇后・応神天皇・仁徳天皇三代に仕え、後に蘇我氏もうらやんだという権勢を朝廷内で振るっていた。

	日本書紀によれば襲津彦は、
	「神功紀五年」 新羅へ人質を返しに行ってだまされ、腹いせに新羅から捕虜を連れ帰る。
	「同紀六二年・百済記引用文」 新羅征討を命じられたが、新羅から美女二人を贈られて、翻って加羅王を討って百済
			へ追いやり、神功皇后の怒りを買っている。
	「応神紀十四・十六年」 加羅から弓月の民(秦氏に近い渡来民)を連れてくる。
	「仁徳紀四一年」 無礼があった百済王族を連行してくる。
	というように朝鮮半島での活躍が多い。

	5,6世紀の、高市郡(明日香村・高取町)から御所市に掛けては、渡来人達の居住地である。葛城氏も渡来人で、襲
	津彦は、葛城から故郷の地へ攻め入っていたのかも知れない。その軍事的統率力の故に、仁徳朝期に重用された可能性
	もある。実際、平民の娘が正妃となるのは、崇神天皇以降ではこの葛城氏が初めてである。当時の朝廷における大将軍
	のような地位にいたのかも知れない。葛城氏は仁徳朝以降数代にわたり、皇后の家となり「大臣」ともなる。外戚とな
	った葛城氏の権勢が、やがては、天皇家と対等の氏族と成っていったことは想像に難くない。そしてその権勢故に、そ
	れをうらやんだ他の豪族達によって、やがては滅ぼされる運命にあったとも言える。この館跡は、円(つぶら)ではな
	く、襲津彦の館跡だった可能性もある。襲津彦の墓と伝えられる宮山古墳もこの近くにあり、そこは昨年歴史倶楽部の
	例会で訪れた。

	歴史倶楽部の例会記、「葛城の道」にも書いたが、雄略天皇は葛城山で、天皇一行とそっくりな一言主の神(ひとこと
	ぬしのかみ)と出会う。そして劣勢のまま「あな恐ろしや」と嘆くのである。これが、天皇現人神と葛城氏の神との対
	峙であり、時の葛城氏の威勢を物語るものだとすれば、「一言主神」と天皇族とは対等であり、天皇家同様の「王族」
	であったという見方もできる。反葛城氏の勢力が、雄略と結びついて葛城氏を滅ぼす遠因が、この「一言主神」との出
	会いにあったとも考えられる。雄略朝で、葛城氏は没落するが、やがて大伴・物部系豪族も滅び、周知の如く蘇我氏も
	大化の改新で滅亡する。太古より、大王(天皇)家と結びついて権勢を誇った豪族達も、やがては対抗してくる新興豪
	族と天皇とによって滅ぼされてゆくのである。
	日本史上、唯一の例外が藤原家であり、この家は天皇家唯一の臣下として現在も生き延びている。(近衛文麿も昭和天
	皇皇后も藤原家である。)



金剛山、葛城山も雪にかすんで見えなくなった。夕方御所を後にする頃には、両山とも真っ白に雪化粧していた。





この発掘現場から竹藪を通って、今日同時に行われた、ここから200m程のところの「二光寺廃寺」の説明会場へ向かう。














	
	5世紀の大豪族・葛城氏の「王宮」か 奈良で巨大建物跡  2005.2.21 asahi.com
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	丘陵から大型建物跡が出土した極楽寺ヒビキ遺跡。遠方に奈良盆地が見える=奈良県御所市で(左端)。
	大型建物を囲った石張り。手前の堀の中には庭園を思わせるような大きめの石が置かれていた=奈良県御所市極楽寺で(左中)。
	丘の上の大型建物跡と北方に広がる奈良盆地=奈良県御所市で(右中)。
	焼土が残る極楽寺ヒビキ遺跡の柱の跡=奈良県御所市で(右端)。

	
	奈良盆地南部の奈良県御所(ごせ)市で、石張りの堀に囲まれた5世紀前半(古墳時代中期)の巨大な建物跡が出土した
	と21日県立橿原考古学研究所が発表した。古墳時代としては最大級の規模で、極楽寺ヒビキ遺跡と命名した。盆地を見
	下ろす標高約240メートルの丘陵にあり、大王(おおきみ)家の外戚(がいせき)として勢力を誇った大豪族葛城(か
	つらぎ)氏の「王宮」のような施設だったらしい。火災で全焼した痕跡があり、葛城氏が雄略天皇に焼き打ちされた日本
	書紀の記述を裏付ける可能性もある。 
	農地整備に伴い調査した。敷地面積は約1500平方メートルで、北と東が谷に面し、南と西の二方に堀(幅約13メー
	トル、深さ約2メートル)があった。西側に主要な掘っ立て柱建物跡(約15メートル四方)があり、東側は約500平
	方メートルの広場。塀の跡や、物見台らしい小規模の建物跡も見つかった。 
	主要な建物の中心部分の柱は直径約45センチで、太さや並び方などから2階建てと推測される。ひさしを支えた柱もあ
	り、西面と南面には縁側があったらしい。1階部分の床面積約225平方メートルは、古代の代表的な豪族居館跡とされ
	る群馬県群馬町の三ツ寺1遺跡の大型建物(約170平方メートル)を上回る。 
	建物や塀などすべての柱跡からは、焼けた土や灰が見つかった。大王(天皇)と姻戚(いんせき)関係にあった葛城氏は、
	皇位継承をめぐる争いから雄略天皇に攻められたとされ、当時の権力闘争を知る手がかりになりそうだ。 
	遺跡からは祭祀(さいし)儀礼で使う高坏(たかつき)が見つかったが、日常生活で使う土器などは出土しなかった。
	同研究所は「居住場所ではなく、祭祀や政務を執り行った行政管理センター的な施設だった」とみている。

	極楽寺ヒビキ遺跡の北東約400メートルにある南郷安田遺跡では95年、17メートル四方の建物跡が見つかり、葛城
	氏の祭祀施設とされた。今回の建物跡はやや小さいが、同遺跡を見下ろす高台にあることから、別の機能を持つ一帯の中
	心施設とみられる。 

    	 ◇ 

	現地説明会は26日午前8時半〜午後4時。奈良交通(0742・20・3100)が近鉄忍海(おしみ)駅から専用バ
	ス(有料)を運行する。遺物展示は同日午前9時〜午後5時、同駅下車徒歩4分の葛城市歴史博物館(0745・64・
	1414)で。 

	<葛城氏> 朝鮮半島に出兵した将軍襲津彦(そつひこ)(4世紀末から5世紀前半ごろ)が始祖。当時の日本は、讃、
	珍、済、興、武の「倭の五王」が中国に盛んに使者を送って国際的地位を高めようとしていた。日本書紀によると、襲津
	彦の娘磐之媛(いわのひめ)が仁徳天皇の皇后になって履中(りちゅう)、反正(はんぜい)、允恭(いんぎょう)の3
	天皇を産むなど、仁徳から仁賢まで9代の天皇のうち8人が葛城氏出身者を妃や母としている。
	天皇(大王)家との深い結びつきで政治基盤を固めていったが、五王のうち「武」とされる雄略天皇が登場すると、天皇
	の政敵と目された皇子らとともに攻められ、勢力を失ったという。	(02/21 21:24) 







	サンケイ新聞に上のような記事が載ったものだから、これを見て相当押しかけるのではないかと心配だったが、さほど多
	くは無かった。4千人なら、まぁまぁだ。







	2遺跡説明会に4千人の考古学ファン 極楽寺ヒビキ遺跡 二光寺廃寺 2005.2.27奈良新聞 
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	御所市南部で見つかった重要な二つの遺跡を見ようと、26日に同時開催された現地説明会と遺物展示会は大勢の考古学
	ファンでにぎわった。小雪が降り続く中での説明会は、午後4時までに約4千人が訪れた。2遺跡は、5世紀前半(古墳
	時代中期)の巨大な建物跡が出土した極楽寺ヒビキ遺跡(同市極楽寺)と、7世紀末の寺院金堂跡で仏像の土製レリーフ
	せん仏(ぶつ))片が大量に見つかった二光寺廃寺(同市西北窪)。

	現場では、遺跡の写真や解説を載せた県立橿原考古学研究所のカラーパンフレットが無料で配られた。見学者は、まず極
	楽寺ヒビキ遺跡まで歩き、柱穴がいくつも並ぶ大型建物跡の様子などを見学した。夜行バスで駆けつけた東京都板橋区の
	会社員白鳥三保子さん(57)は「建物跡が思った以上に大きい。驚きです。大豪族の資金力を感じますね」と話してい
	た。
	見学者はその後、竹やぶや田畑を通って約200メートル西南にある二光寺廃寺に移動。整然と並んだ基壇の礎石を見な
	がら、研究所員の説明にうなずいていた。

		 
		極楽寺ヒビキ遺跡の現地説明会には多くの人が訪れた=御所市極楽寺で(左)。
		二光寺廃寺に方形三尊せん仏などに見入る人ら=葛城市歴史博物館で(右)。

	二光寺廃寺から見つかったせん仏や瓦は葛城市歴史博物館に展示された。訪れた人らは、くっきりとした表現の阿弥陀如
	来像などに「お顔がきれいやね」などと見入っていた。














邪馬台国大研究・ホームページ / 遺跡めぐり / 葛城氏館跡?