近鉄電車橿原神宮線「石見(いわみ)」駅で降りて、20分ほど東へ歩く。今回の現地説明会は、唐古池の、階層 構造を持った復元建物のすぐ側の田んぼの中である。昭和10・11年に行われた第1次発掘以来、ほぼ70年近 くに渡ってこの遺跡は調査されており、静岡の登呂遺跡とともに、弥生時代が農耕社会であるという事を広く世間 に知らしめた功績は大きい。 また銅鐸の本体そのものは発見されていないが鋳型は出土しており、弥生時代に出土するあらゆるものが出土して いると言っても過言ではない。この遺跡の集落跡は広範囲に広がっており、その周りを大規模な環濠が取り囲んで いる。人によっては「弥生都市」と呼ぶほどである。もし邪馬台国近畿説が成立するのなら、ここがその大集落だ ったのではないかと思わせるほどの規模である。 しかし、現在の定説ではこの遺跡は邪馬台国時代よりだいぶ遡ると考えられているようだが、弥生早期から古墳時 代前期に渡って栄えているので、可能性が無いことはない。
唐古・鍵遺跡は我が国を代表する弥生時代の集落遺跡である。古くから森本六爾らによって紹介され、その存在が 知られていた。1936年から、京都大学の末永雅雄を中心として行われた唐古池の調査では、様々な木製農工具 が出土し、弥生時代が農耕社会であることを明らかにした。また、出土した膨大な土器を用いた小林行雄の編年は、 弥生時代の時期区分の基準となった。 橿原考古学研究所の後を受け、継続した調査を行っている田原本町教委の成果により、前期に三つに分かれていた ムラが、中期に一つとなり、古墳時代前期まで継続すること、全期間を通じて集落を巡る濠(環濠)が幾重にも掘 られている、などが判明した。遺跡の規模は、環濠内の集落域が400m前後あり、大型建物跡、多量の絵画土器 や他地域の土器、銅製品の鋳造に関わる遺構・遺物なども見つかっている。まさに「弥生都市」といえる遺跡なの である。
弥生時代の大環濠(かんごう)集落跡、奈良県田原本町の唐古(からこ)・鍵遺跡の中心部で、弥生時代中期中ご ろ(紀元前2世紀)に建てられた大型建物の柱穴跡23個と柱の一部18本(ケヤキ)が見つかったと同町教委が 17日、発表した。出土した柱としては弥生時代で最大級。床面積82平方mの高床式建物で高さ6m前後とみら れる。時代区分的には、漢書地理志が伝える邪馬台国以前の「百余国」の候補とされており、今回の発掘で唐古・ 鍵に「百余国」時期にも大集落が存在していた事があきらかになった。環濠を巡らせた大集落が成立していたと思 われるが、今回、その時期の大型建物遺構が見つかったわけだ。 建物は高床式大型建物とみられ、柱の直径は80cmあり、武庫庄遺跡(兵庫県尼崎市:弥生時代中期の遺跡で、 直径80cmのヒノキ柱が見つかっている。)出土の柱に並び弥生で最大級である。建物遺構は、池上曽根遺跡 (大阪府和泉市・泉大津市)の祭殿とみられる大型建物跡より約100年古い。
遺構は遺跡のほぼ中心で見つかり東西6m、南北13・7m。建物の周囲だけでなく内部にも柱を立て、方眼状に 柱が並ぶ「総柱(そうばしら)構造」とみられ、3列、23カ所の柱穴が見つかっている。そのうち18カ所は柱 の下部が残っていた。東側に並んだ柱穴のうち3つは浅く、補修のために立てた添え柱と同教委は判断している。 町教委は張り出した屋根を外から支える「独立棟持ち柱」がないので、神殿建築とは異なるという。修理しながら 長期間使われたらしい。建物の柱穴跡や巨大な柱から判断して、そうとうな権力を持った首長が存在し、周辺にも っと多彩な建物があったのではないかと、新たな建物跡発見の期待も膨らむ。最も太い柱は長さ1m以上あり(他 はまだ埋まったままで未調査)、田原本町教委は「かなり高層の建物だった可能性がある」としている。近くでひ すいの勾玉なども出土しており、同町教委は「補修跡があるから神殿ではなく、首長の館など中枢施設の一つだろ う。弥生集落の核心部分を解明する重要な資料」と言う。
直径80センチ余りのこの西柱は、馬の胴体のような濃い茶色をしており、ごろりと転がった状態で見つかった。 柱が埋まっていた穴はさらに巨大で、最も大きいものは幅3・4mあった。この柱の根本付近には約20cm四方 の穴が貫通しており、柱を伐採地から現地に運ぶ際に、縄を通して引いたらしい。同町教委は「首長は大勢の人を 使い太い柱を運ばせて建物を造らせるだけの、非常に大きな権力を持っていた」と推測している。この大型建物跡 は方形の溝で区画された一段高い地形の場所にあり、首長の領域を示すのではとの見方もある。大環濠が造られた 後、同遺跡が最も栄えた時期の首長の館か、祭りや政治を執り行う場だった可能性もある。
<識者・専門家の話> ・森浩一・同志社大名誉教授(考古学) 唐古・鍵遺跡は国内で3指に入る大規模な弥生遺跡だが、知名度に見合った建物が出ていなかった。70年近い調査 の中で画期をなす成果といえるだろう。遺物だけでなく、遺構からも国内を代表する弥生遺跡であることが裏付け られた。 ・金関恕・大阪府立弥生文化博物館長(考古学) 倉庫や会議、宗教行事など、多目的に使える象徴的な建物。南側の工房エリアに対し、北側は『聖なる空間』だっ たのでは。巨大な柱材を運ぶには大変な労力が必要で、きちんとした計画があったことは明らか。 ・宮本長二郎・東北芸術工科大教授(日本建築史) 柱穴の深さが1.5メートルなら建物は6メートル前後の高層になる。直径80センチという必要以上に太い柱は 権威を象徴しようとしたのだろう。 ・寺沢薫・奈良県文化財保存課主幹(考古学) (権威を高めるため)あえて太い柱で建てることに意味をもたせたのだろう。この大型建物跡は大集落の中心部の 中でも端の方ではないか。唐古・鍵遺跡には、さらに重要な建物があっただろう。楼閣もどこかに眠っているはず。 ・石野博信・徳島文理大教授(考古学) 周囲には今回の大型建物以外の柱穴跡が多数見えている。おそらく近くに別の大型建物があるはずだ。弥生時代中 期中ごろから大型建物が100年前後、一つの区画内で場所を少しずつ変えて継続して建てられたのだろう。建物 と同時期の土器がたくさんあり、日常的に使った施設だろう。首長居宅の一部が見え始めたと言えるのでは。いよ いよ本丸に近づいてきた。 − 各社新聞記事より。−
これまで唐古・鍵遺跡は、銅鐸(どうたく)の鋳型を含む豊富な遺物や楼閣を描いた土器などから「弥生の首都」 と呼ばれながら、中枢部の様子は判然としていなかった。今回の大型建物について研究者の間では「首長の居宅」 「多目的施設」など、さまざまな見方が出ている。4年前の大型建物跡は予想もしない西のはずれで見つかったが、 今回は遺跡のどまんなかに近い。環濠の中心に近く、東側の区画溝ではヒスイの勾玉(まがたま)を入れた褐鉄鉱 (かってっこう)容器が見つかっており、地形的にだんだん少しずつ高くなっていく西側に、もっと重要な施設が 眠っている可能性がある。