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	金隈遺跡は福岡平野の東部、御笠川に沿って南北に伸びている月隈(つきぐま)丘陵のほぼ真ん中あたりに位置
	している。近くには、日本でも最古の水田跡の一つと言われる板付遺跡や、すこし南下した春日市には、奴国の
	中心地ではないかと推測される須久岡本(すくおかもと)遺跡などがあり、この一帯はまさしく弥生時代の遺跡
	の宝庫である。昭和43年、桃畑の開墾作業中にこの遺跡は発見された。福岡市教育委員会の発掘調査の結果、弥
	生時代の大規模な共同墓地の跡として、学問的にも非常に価値の高い遺跡であることが判明し、昭和47年には国
	指定の史跡となり長く保存されることとなった。

	金隈遺跡は墳墓である。つまり墓であるが、紀元前2世紀頃(弥生時代前期の中頃)から西暦2世紀頃(弥生後
	期前半)まで、約400年に渡って使用された弥生人達の共同墓地の跡なのだ。しかも、副葬品や埋蔵物に、鏡など
	の権力者が保有していたと見られるものが全くないことから、一般弥生人、つまり庶民達の墓地であることが確
	認された。



住宅街の中の狭い道を登っていくと遺跡に着く。駐車場、トイレを備えた広場に遺跡の案内板がある。



駐車場から石段を登り坂道を上っていくと、2,3分で甕棺展示館に着く。



この建物は、外壁一面に朝倉郡夜須町の峯遺跡出土の前漢鏡のレプリカが埋め込まれたデザインになっている。





 




	この遺跡からは、348基の甕棺墓(素焼きの甕や壺をお棺に使用するもの)と、119基の土こう墓(土を長方形に
	掘って遺体を葬り板をかぶせるものと、木を組み合わせたもの(組み合わせ式木棺墓)の2通りの様式がある。)、
	及び2基の石棺墓(石を長方形に組み合わせ、その中に葬るもの)が発掘されている。

	時代的には、土こう墓、甕棺墓、石棺墓と変遷していったようである。甕棺墓が最も多く作られていることから、
	この地方で甕棺をつくる技術が発達していたものと思われる。



	山口県土井が浜遺跡も弥生時代の集団墳墓であるが、あちらは砂地に直接遺体を埋葬している。カルシウムを多
	く含んだ砂地だったため遺骨が残ったが、この金隈も石灰岩の台地だったため多くの人骨が残っている。土井が
	浜の骨は現在全てレプリカだったが、ここでは防腐処理を施した本物の人骨である。2000年前の弥生人の遺骨そ
	のものを見ていると思うと、妙な感慨にとらわれる。どれか一体が、私のじいさんかもしれないではないか。
	はるか幾世代か前にしても、この中の一人から今の私があるのかもしれないと思うと、DNAの不思議さに感動
	する。今日は、2000年後の墓参りかもしれない。






	出土人骨から割り出された平均身長は、男性162.7cm、女性151.3cmで、縄文人と比較すると顔も面長になり、身
	長も急に高くなっている。下右端の写真は、展示館の壁に貼られた弥生人の実寸大平均身長である。私の父(岳
	父)が並んだが、全く弥生人の平均身長そのままであった。日本人の平均身長は、この後第二次大世界戦前まで、
	一貫してこの弥生人達のものが一番高い。戦後は勿論急速に伸びていく平均身長だが、それまでの我が国では、
	弥生人が一番高い身長を持っていた。これが一体何を意味するのか、非常に興味深いテーマである。





	種子島からオーストラリアまでの海中にしか棲んでいないとされるゴホウラ貝の腕輪が、ここ金隈でも出土して
	いる。山口県の土井が浜でもこの腕輪をした人骨は多数あった。南方との交流が行われていたことを物語る。

	金隈からは、貝輪のほかには石剣、石鏃、首飾り用の玉などが出土しているが、青銅器などの出土が無いことか
	ら、王や貴族は居ず、貝輪をつけた人骨もムラ、クニの長程度だろうとされている。








	金隈遺跡からは、甕棺墓が最も多く発掘されている。上の表左側を参照されたい。弥生時代中期に甕棺墓制が集
	中して行われたことがわかる。又小児用と成人用の甕棺の数を比較すると、圧倒的に小児用が多く、小児の死亡
	率が高かったことが見てとれる。また右の表を参照して頂くと、男女の死亡年齢の差がわかる。遺跡からの出土
	人骨は136体(甕棺に人骨が残っていないものも多い。)で、これらの人骨の調査結果から、死亡時年齢のピーク
	は、未成年で1〜6歳、成人で40歳位となっている。60歳以上まで生きた者は、不明を除けば全て女性であって、
	古代から女性の方が長生きだったことが分かる。







99.3.20 歴史倶楽部例会「北九州弥生の旅」にて再訪。



弥生時代(B.C.300〜A.D.300)の人骨は、北九州(福岡・佐賀、一部熊本県)、長崎県西部、鹿児島県南部・種子島、の九州地方と、山口県西部(土井が浜・中の浜・吉母浜)から大量に出土したものの、その他の地方からは殆ど出土例がない。 これは、日本の土壌はおおむね酸性なので、砂浜や容器に入れて周りの土と触れないようにするか、或いは保存に適した条件がたまたま満たされた場合に限られるからである。土井が浜では砂浜が、金隈では甕棺が人骨を保存したのだ。
出土したこれらの弥生人骨は、大きく3つのタイプに分類されている。
第一のタイプは、<北部九州・山口タイプ>の弥生人で、顔の高さが高く(長い)、身長も高く、顔の彫りが浅いのが特徴である。土井が浜、金隈もこれに属する。
第二のタイプは、<西北九州>の弥生人で、顔の高さは低く横幅が広い(広顔)、低身長、鼻が高く、彫りが深いという特徴を持っている。長崎県、熊本県、及び佐賀県の砂丘につくられた土こうや石棺から出土する。
第三は、<南九州・離島タイプ>とでも呼ぶべきタイプで、「西北九州」タイプ以上に「低・広顔」の傾向が強く、頭を上から見た形が円に近い短頭形で、著しく低い身長を持つ。鹿児島県南部の「成川遺跡」、種子島の「広田遺跡」、及びその間にある離島の「椎ノ木遺跡」などから出土している。3つのタイプの内、第二、第三のタイプの弥生人に見られる特徴は、じつはその地域の縄文時代人の特徴なのである。つまりこれらの弥生人は縄文人の子孫と考えられる。これに反して第一のタイプの弥生人は、全く縄文人の特徴を残していない。では、一体彼らは何者で何処からきたのか?
弥生人骨の研究者だった金関丈博士(土井が浜、佐賀県の三津永田遺跡を調査)は、稲作・養蚕・造船等の弥生文化を日本に伝えた大陸からの渡来人か、或はその子孫であろうという仮説を唱えたが、この説は、今日では学会でも支持されて主流となっている。このタイプを「渡来系弥生人」と呼ぶものもいる。
大きく3つに分けられる弥生人であるが、これらは「渡来系」と「縄文系」とに別れ、さらに「縄文系」は地域により差があることも判明した。またこれは私の考えだが「渡来系」についても、甕棺を用いた金隈と、全く用いない土井が浜では、「渡来元」(ORIGIN PLACE)が違うと思われ、西日本には大陸の各地から多くの渡来人が移住したと考えられる。これら「渡来弥生人」達は、それぞれ弥生ムラを形成して現地の縄文人を支配し、あるいは融合して混血をつくり、今日の日本人の原型となったのだろう。



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