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上淀廃寺 −鳥取県・淀江町−
1999・8・28(土)



法隆寺金堂と並ぶ、我が国最古・第一級の仏教寺院壁画
鳥取県淀江町に上淀廃寺(かみよどはいじ)と呼ばれる白鳳時代の寺院跡がある。西暦600年代に建立されたと推定され、建立から300年後の10世紀中頃(平安時代中期)、火災により焼失したと考えられている。以来1,000年に渡ってこの伽藍は地中に埋もれていた。
幾世代もの年月を経て寺院跡は水田となり、人々の記憶からもこの寺院の事はすっかり消え失せてしまっていたが、水田から出土する夥しい瓦類がここが寺域であった可能性を示唆していた。近年、淀江町中央公民館の歴史研究グループの調査で礎石が発見され、本格的な 発掘調査の手が入る事になった。平成3年2月に開始された発掘作業では、金堂や塔と思われる建物跡や礎石を次々に掘り当て、ここが並の寺院跡ではない予感を周囲に感じさせていたが、4月11日手のひら程の小さな土のかたまりに残った壁画の破片が発見された事により、この廃寺遺跡は一躍全国的に知られる事となった。ぞくぞくと発掘される壁画の破片は、どれもが卓越した絵師の手になる表現を備えていた。古墳時代の装飾壁画などと違い、10色近い色を用い、神将・飛天・天蓋・菩薩などを描いた本格的な仏教絵画の出現は、歴史界、美術界、仏教界などを巻き込んだ一大社会問題に発展する。それまでこれに類する寺院壁画の存在は、唯一法隆寺の金堂が知られていただけである。しかも法隆寺壁画は国家の一大事業として制作されたというのが史界の常識であったため、この寺の出現は各方面に大きな衝撃をもたらした。
山陰のひなびた寒村とも言える場所に、かって法隆寺に匹敵する壁画を備えた大寺院が存在し、もしかすると大陸と直接のルートをもって交流していたかも知れないのだ。この事実はとりもなおさず、今後まだまだ各地に埋もれている第二第三の「上淀廃寺」が存在する可能性をも露呈したと言える。この地が古代において文化的な先進都市だったという可能性は、しかし考えてみればそうそう意外な事でもないのだ。弥生時代の出現はまず北九州、そして山口、島根、鳥取、福井と環日本海地方に発展したというのは私の持論であるが、現在発掘されている「妻木晩田遺跡」に象徴されるように、弥生の昔からこの地方では大陸文化を先進的に取得してきたのである。今の所「妻木晩田」は日本最大の弥生集落であるが、同じような集落がまだまだ日本海地方に埋もれているに違いない。これらの人々はやがて出雲王朝や伯耆王朝を出現させていたに違いないのだ。そしてその末裔達が大陸と独自のルートを持ち、大和とは別個に或いは平行して同じ文化を享受していた可能性は非常に高い。古代にあっては、環日本海地方が「表日本」だったのである。大和朝廷の出現とその日本統一は、やがてこの国全体を都を中心とする中央集権国家に変えて行くが、幾つかの地方ではまだまだ独自に大陸との交流ルートを持っていたとも考えられる。
ちなみに「上淀廃寺」というのは便宜上のネーミングである。実際の所この寺が何と呼ばれていたのかを知る人はもう誰もいない。





 






	平成11年8月28日、歴史倶楽部の面々で「妻木晩田遺跡」の最後の説明会(9月に入っていったん埋め戻されるため、今回
	がおそらく今年最後となる)に参加した後、この遺跡を訪れた。夏休みという事で何組かの見学者が居た。現地は埋め戻さ
	れ、朽ちた看板が偉大な遺跡の概要を説明しているが、その重要度と比べるとあまりにもみすぼらしい。この近くには「向
	山古墳群」や「岩屋古墳」、本州で唯一の石馬が出土した「石馬谷古墳」など多くの古代遺跡が残っているので、何とか一
	大文化ゾーンとして整備できないものだろうか。

 


	ここを見学した後、今夜の宿である名水「天の真名井」の側にある民宿「真名井」に向かった。ニジマスと山菜づくしの料
	理で腹一杯になったが、女将さんといろいろ話していると、この「上淀廃寺」の発掘が行われている時、俳優の草刈正夫が、
	島根だか鳥取だかのロケを抜け出してわざわざここまで発掘現場を見に来たそうである。そうだったのか。彼も古代史ファ
	ンだったのか。泊まった部屋には芸能人の色紙がやたら並べてあった。田圃の中の、ほんとに田舎の一軒屋なのだが、信じ
	られないような人達が訪れている。





発掘時の上淀廃寺(平成3年)

 



 

 

 

 


	平成4年の調査で「癸未年」(みずのとひつじ)とヘラで書かれた瓦が見つかった。(下右)これによりこの寺が天武12
	年( 683年)に建てられたものである可能性が高まった。古代寺院の瓦に千支年の刻まれた例は大阪の野中寺、滋賀県の穴
	太廃寺など極めてまれである。

 

 


淀江町立歴史民俗資料館

 

  

  

  

 

 

  

 

 

 



 

 

 

 

 



3.伝統と開華

	
	上淀廃寺の成立を問う時、最も重要なキーワードは「淀江潟」。この淀江潟のもつ意義は佐々木謙、森浩一氏によって説か
	れて以来久しい。上淀廃寺の北西1kmほどのかっての「淀江潟」が大きな窪地の地形をのこしたまま水田化されている。
	日本海に面した内海−潟湖の面影をよく伝える景観である。この潟湖に面した淀江町稲吉角田遺跡からは、潟湖が息づいた
	時代を髣髴とさせる弥生時代中期の絵画土器が発見されている。大型壺型土器の肩部にヘラ書きで、右側に水手をのせた舟、
	中央に高い社祠か望楼と見られる建物と吊櫃穀倉、左側に樹木ないしは一種の登り木を描いている。潟畔の景観描写であり、
	港津として淀江潟が息づいた日を偲ばせる資料であり、、船舶の出入りと船遊び、望楼・祠社、倉庫群と言った諸施設を介
	してこの潟湖の賑わいを察することができよう。
	こうした賑わいは古墳時代にも続く。福岡県八女市の岩戸山古墳は石馬・石人など多数の石製樹物を持つ古墳として宣伝さ
	れ、筑紫君磐井の墳墓かとされている。この古墳と共通する石馬・石人などが上淀廃寺に近接した石馬谷(いしうまだに)
	古墳に見られるのである。本州唯一の石馬・石人というのにとどまらず、九州との交流・交渉を語る重要な遺跡・遺物と言
	えるのである。

	こうした文物の背景にはダイナミックな日本海航路の存在と、航路網に組み込まれ、高く港津として評価されていた「淀江
	潟」の存在が指摘できるであろう。
	それだけではない。この淀江潟に面し、上淀廃寺とも指呼の位置にある向山丘陵上には日本海沿岸でも屈指の古墳が裾を連
	ねて並ぶのである。金銅製冠や三輪玉(玉纒太刀:たままきのたち)など大和の藤ノ木古墳とも通ずる優秀な副葬品を出し
	た長者原(ちょうじゃがなる)古墳や、すばらしい切石造りの石棺式石室を設け別区に多数の形象埴輪−人物、水鳥埴輪を
	配した岩屋古墳などがひしめく。その際だって優れた古墳の属性はとりも直さず、この淀江潟に関わったこの地の人々の実
	体を伝えるものと言えるであろう。

(以下省略)

(株)吉川弘文館平成4年9月20日発行「上淀廃寺と彩色壁画概報」 水野正好(奈良大学教授:当時)「Y.上淀廃寺の語るもの」より抜粋。



邪馬台国大研究・ホームページ  古代遺跡めぐり / 上淀廃寺跡