Music:ライオンは寝ている


2003.11.24(月) 香川県高松市峰山町




上空から見た石清尾山古墳群と、高松市街と瀬戸内海


	四国香川県は、古くは讃岐の国と呼ばれ、古代人の用いていた石器の材料であるサヌカイトの産地として有名である。
	サヌカイトという呼び名も、サヌキから来ている。讃岐平野にもずいぶん古くから人々の痕跡は残っているが、なぜ
	だか考古学・歴史学上ではあまり話題にならない。最近まで行政側とかに、文化財の調査・発掘に携わる機関が少な
	かったせいではないかと思う。しかし最近それも徐々に充実し、このところ結構重要な発見が幾つか続いており、九
	州と近畿圏を結ぶ重要な地域として、日本海・瀬戸内海側と並び、もっと評価されていい地域だろうと思う。
	私のHPでも、時折「四国の遺跡や博物館(の紹介)がありませんね。」というご指摘を頂くことがある。そうなの
	だ。四国と東北地方の紹介が少ないのは私も自覚しているが、東北地方は例の「ねつ造事件」ですっかり意気消沈し、
	まだ訪ねていく気にならないが、四国は今後機会があればどんどん訪問したいと考えている。

	弥生時代は米作りが本格化し水田が広がるなど、それまでとは環境が大きく変わった時代である。人口も著しく増加
	し、各地に小さなムラや国が誕生した。讃岐平野でも、それまであまりハッキリしなかった当時の状況が、発掘調査
	によって次第に明らかになりつつある。弥生時代後期の下川津B類土器と呼ばれる土器は、高松市内の各遺跡で大量
	に出土しているが、同じような土器が阿波(徳島)、播磨(兵庫)等の各地の遺跡で出土することから、当時の各地
	と讃岐平野との活発な交流が判明した。今後の調査に大いに期待が持てる。

	古墳時代には、讃岐では四国で最も多い100基余りの前方後円墳が造られている。主に古墳時代前期の4世紀〜5
	世紀に造られたものと思われるが、さらに幾つかの古墳には、刳抜式石棺と呼ばれる石棺が使われているし、九州の
	岩石を用いている石棺がある事も判明しているので、この事から九州の豪族との関わりも推測できる。ある時期四国
	の、特に瀬戸内海に面した地方は、九州へ上陸した渡来人達が更に東へ進んでいく中継地点だった可能性もある。
	そんななかにあってこの地方には、讃岐古墳文化の特色とも言える、石を積んで造った古墳、いわゆる積石古墳が数
	多く造られた事も広く知られている。





	高松市街地の西端には石清尾山(いわせおやま)・稲荷山(いなりやま)・紫雲山(しうんざん)・浄願寺山(じょ
	うがんじやま)からなる石清尾山塊がそびえ、そこでは200基以上の古墳が見つかっている。なかでも主要な12
	基は国の史跡に指定されている。石清尾山古墳群には、数多くの盛土墳とともに石を積み上げた「積石塚(つみいし
	づか)」が20基以上あり、積石塚は、双方中円墳・前方後円墳・方墳・ 円墳と、いろいろな形をしていて、特に
	双方中円墳は全国的にもあまり例がない。これらの積石塚は古墳時代前期(4〜5世紀初頭)に造られ、一方、盛土
	墳は約百年後の6世紀末〜7世紀初のものと考えられる。その規模の大きさ、特異な形や出土品により、石清尾山古
	墳群は県内を代表する貴重な文化財として古くから注目されている。

	高松市中心街の南西に位置する石清尾山の山頂部は、北にくぼむ摺鉢谷(すりばちだに)と呼ぶ浸食谷の周辺部が、
	標高200b前後のU字形の平坦な尾根(おね)となっており、この尾根上に北大塚、石船塚、小塚、姫塚などの前
	方後円墳と猫塚、鏡塚の双方中円墳、および鶴尾神社4号墳(前方後円墳)、石清尾山2号墳(円墳)などがある。
	この古墳群は「石清尾山古墳群」と総称されるが、前期古墳のほとんどが積石塚古墳で、通常の盛り土で築造した古
	墳と違い、石を積み上げて造った古墳であり、全国的にも非常に珍しい古墳である。我が国では四国北部と信州地方
	(長野県)のみに見られる(全国の積石塚は約1500基ほど)そうだが、多くが、縦横穴式石室を持った、4世紀
	初頭〜5世紀初頭の古墳時代前期の築造と考えられ、その後、古墳時代後期になると、この古墳群でも横穴式石室を
	持った多数の盛土円墳が出現・分布するようになる。4世紀〜5世紀にかけての前方後円墳は8基あり、そのうちの
	石船塚古墳には刳抜式石棺が納められている。猫塚は、この古墳群中最大で、全長95b、高さ5bで出土品も豊富
	である。出土品の一部は、高松市歴史博物館にも展示されているが、多くは上野の東京博物館にある。



	【国指定史蹟】
	・2基の双方中円墳「猫塚古墳・鏡塚古墳」
	・7基の前方後円墳「鶴尾神社4号墳・姫塚古墳・小塚古墳・石船塚古墳・北大塚古墳・北大塚西古墳・石清尾9号墳」
	・1基の方墳「北大塚東古墳」 (以上は積石塚古墳)
	・1基の円墳「石清尾山2号墳(横穴式石室墳)」	(他に2基の盛土墳)





上は模型であるが、こんなに墳丘全体を石で築造した古墳は確かに見たことがない。











石清尾山2号墳

	【石清尾山2号墳】 古墳時代後期(6世紀末〜7世紀初)
	峰山公園の周りを巡る道路沿いにある。芝生の広場を左へ曲がりしばらくいくと、右側に10mほど入った民家の庭先
	に横穴式石室が開口している。こんな軒先にとびっくりする。民家の敷地内だ。円墳で盛土墳。直径約10m、高さは
	約2mほどである。内部は全長6.6mの横穴式石室で、床には敷石があり幾つかは今でも残っている。1300年も
	ここに置いてあるのかと思うと、不思議な気がする。石室の壁には大きな一枚岩が使われ、天井石も巨石である。
	出土品は、須恵器、金環1個、ガラス小玉1個で、石室の形や出土遺物から考えて6世紀後半頃の築造と考えられてい
	る。 



 

 

上右が出土した金環。東京国立博物館蔵。

 

石清尾山2号墳等の横穴式石室





猫塚古墳

	【猫塚古墳】 古墳時代前期(4世紀前半) 
	石清尾山2号墳を抜け、道を大きく左に曲がって300mほどのところで、畑の脇に右へ入る小道がある。この小道を
	さらに300m歩いていくと、すぐ眼の前に高い積石塚がそびえている。これが、石清尾山古墳群の中で最大規模を誇
	る猫塚古墳である。

 

 


	石清尾山は,標高200m余りの小高い山である。地質学的には、花崗岩の上に,凝灰岩,そして最も上に安山岩がの
	っている地層らしく、山頂一帯に多い安山岩で古墳の墳丘を築いている。この山塊は、峰山と呼ばれる地域を中心に、
	東側の紫雲山、南側の浄願寺山の三地域にわけられ、これらの山は,約1千万年前の火山活動によってできたとされ、
	その後の長期にわたる隆起や浸食作用等により造山された。古墳への通り道の側に建つ家の石垣を構築している岩石も、
	よく見るとサヌカイトであり、この辺りに火山活動の影響があった事を表わしている。






	猫塚古墳は、全国でも非常に珍しい双方中円墳の積石塚で、全長約96m、高さは約5mを測る。この古墳は、明治4
	3年(1910)年に、鉱山試掘を装った計画的な大盗掘に会い、中央が大きく変形してしまっている。中円部にいくつか
	の竪穴式石室があったと思われるが、この大盗掘のために、現在正確な数・位置は不明だという。が、伝聞では中央に
	1基の竪穴式石室を持ち、その周りに8基の小さな石室があったとされており、昭和6年(1931)年に行われた京都帝国
	大学の調査報告書にも、その伝聞が記述されている。しかし、竪穴式石室のわずかな窪みは残っていたそうで、現在は
	保存のために埋め戻されている。






	山頂部へ登ると西方向に、これまたこの地方のサヌカイトの産地として名高い五色台方面が見える。(上左、台形状の
	山の付近)。下2枚の写真は、山頂部の石室を埋め戻した窪みの部分。下の写真に写る人物はタクシーの運ちゃん。
	「古墳なんか生まれて初めて見た。」と言っていた。









ここが石清尾山の測量上の「山頂」らしい(下左)。下右は猫塚古墳全体の航空写真。
現地に立っても、とてもここが96mもある古墳だとは分からない。まして双方中円墳とも。




	盗掘の際に、中央の石室から鏡5面(中国製4面,日本製1面)、小銅剣20本前後、石釧1、筒形銅器3、銅鏃9、
	鉄斧1、鉄剣4、鉄刀1、鉄鑿1、鉄やりがんな1、鉄鏃4、土師器2、等々が見つかっている。多数の遺物のなかで
	も,内行花文精白鏡と呼ばれる鏡は,中国の前漢時代(西暦紀元前202〜紀元後8年)に作られた鏡で,北九州地方
	の弥生時代墳墓から多く出土するが、古墳からの出土はこの猫塚古墳だけである。この事からも、猫塚古墳は北九州の
	弥生時代人の習慣を受け継いだ人物の墓ではないかととりざたされた。また小銅剣も、他に一例しか出土例のない珍し
	いもので、中央石室の周囲に多くの石室がみられたという伝聞などから、猫塚古墳が一般的な古墳と比べて特異な存在
	であるということを示している。



下は高松市歴史資料館にある展示品(勿論レプリカ)。本物は上野の国立博物館にある。下右は銅鏃。

 





姫塚古墳

	【姫塚古墳】 古墳時代前期(4世紀前半) 
	峰山公園第4駐車場入口の真向かいにある古墳。北側にのびる尾根には小塚古墳、石船塚古墳、鏡塚古墳と続き、南
	東に向かって尾根筋を下ると鶴尾神社4号墳、西には猫塚古墳があって三方にのびる尾根の中心にあたっている。首
	長の娘の墓であるという近在の伝承から「姫塚」と呼ばれている。積石塚の前方後円墳で、全長約43m,高さは約
	3.6mを測る。後円部は二段、前方部は三段に築かれている。内部には竪穴式石室があると思われるが詳細は不明
	である。石室から鏡1面,刀片,土器1個が出土したとされるらしいが、これも不明。積石の間から、土器片、円筒
	埴輪片がわずかながら見つかっている。
 
 
上空からの姫塚古墳。



駐車場側から古墳全景を見る(上)。







この古墳だけ柵で保護してある。或いは登ったら危険なのかもしれない。現在「鶴尾神社4号墳」などは見学禁止になっている。







小塚古墳

	【小塚古墳】 古墳時代前期(4世紀初〜5世紀初)
	石船塚古墳と姫塚古墳のほぼ中間のやや高くなったところにある。他のものに比べて小規模だが、一応前方後円墳で
	ある。同じく積石塚の古墳で、全長は約17m,高さ約1mを測る。内部の詳細は不明。出土品も今まで見つかって
	いない。








	下の測量概略図を見ると前方後円墳であるのがよくわかるが、上の写真を見てもそうとはわからない。が、確かに積
	石塚の古墳である。こんな岩ごつごつの古墳山頂などは、見ようと思ってもなかなか見れない。



 





石船塚古墳

	【石船塚古墳】 古墳時代前期(4世紀後半) 
	小塚古墳から尾根伝いに北へ登っていくと高い古墳が見えてくる。石船塚古墳である。さらに北には「鏡塚古墳」、
	東側に「稲荷山姫塚古墳」のある稲荷山・紫雲山に通じる遊歩道がのびている。積石塚の前方後円墳で、全長約57
	m、高さは約5.5m。後円部は3段、前方部は2段に築かれている。後円部に刳抜式石棺1基と小竪穴式石室1基、
	前方部に竪穴式石室1基がある。石棺は後円部の中心にあり、現在身と蓋が地表に露出している。もともと身と蓋は
	重なっていたものである。棺身の一方には石枕が造り付けられているという。小竪穴式石室は石棺の南西4mのとこ
	ろで発見され,石室は板石を積み上げ,内部には朱が塗られている。
	後円部の小竪穴式石室から鏡1面が出土し、積み石の間からは土師器や円筒埴輪の破片が採集されている。



 

上空から見た石船塚古墳(上左)。

 

刳抜式石棺の蓋と身。残念ながら水がたまっていて石枕は見れなかった。








	石清尾山古墳群中の「鶴尾神社4号墳(西春日町)」は、讃岐で最も古い古墳、もしくは古墳直前の墓として知られ
	ている。前方後円墳は、遅くとも3世紀末に、近畿地方、瀬戸内海沿岸、北九州地方で発生したと考えられており、
	それをもって古墳時代の始まりとする意見もある。鶴尾神社4号墳はそれよりも少し古く、前方後円墳の祖形となっ
	た墓ではないかという説がある。前方後円墳の起源を明らかにする遺跡ではないかとして注目された。

	猫塚古墳や鶴尾神社4号墳は築造が古く、4世紀前後には既に出現していたと考えられる。その後順次築かれ続け、
	5世紀頃には積石塚の築造が終焉している。後は盛り土の古墳となる。積石塚古墳は、百年余りの期間に集中して築
	かれたことになり、当時の讃岐平野には大きな勢力が存在していたのである。おそらくは、瀬戸内海を西から来た民
	族だったのだろう。その後、彼らはさらに東をめざし、近畿圏に盛り土の古墳を作り出すのではないか。

	石清尾山古墳群は、積石塚による前期の古墳群としては香川県下はもとより全国でも類例を見ない規模と内容を持っ
	ている。後世には横穴式石室墳も数多く所在するが、積石塚古墳は、讃岐だけでなく同時期のものが徳島県にも見ら
	れる。また、長野県には6世紀〜7世紀頃の積石塚古墳が、極めて多く存在する。想像をたくましくすると、讃岐か
	ら東へ渡った連中が、既に近畿にいた別の渡来人集団との闘いに敗れて、近畿圏に根付けず信州へ渡ったとかいう可
	能性はないだろうか?
	石清尾山では、5世紀の終わり頃から積石塚古墳は造られなくなり、6世紀後半から7世紀の初頭になると横穴式石
	室墳が多く見られるようになる。石清尾山2号墳等、石清尾山の古墳の大部分はこの種の古墳で、浄願寺山頂には5
	0基余りの横穴式石室墳が存在している。

	積石塚は、日本固有のものではない。朝鮮半島にあった古代国家「高句麗」の首都「扶余(現在,中華人民共和国東
	北地方集安県)」には多くの積石塚が存在している。また中央アジアにも存在しており、これらの地方では積石塚は
	特別珍しいものではなかったのかもしれない。積石塚は遊牧民の墓とする説もある。しかし石清尾山古墳群には、中
	央アジアはもちろん、朝鮮半島の直接的な影響は認められないという。しかし最近扶余周辺で、前方後円形の積石塚
	が発見されたという報道もあって、朝鮮半島の古墳と日本の古墳との関係が改めて問題となっている。


	このホームページの解説は、香川県立博物館、高松市立歴史資料館の「常設展示品目解説書」および、館内の解説資
	料、案内パンフレットを参考にしました。記して謝意を表明します。




邪馬台国大研究・ホームページ  遺跡めぐり / chikuzen@inoues.net