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	福岡市板付台地は、東西に伸びる長さ650b、幅200bほどの狭い独立台地である。東には御笠川、西に諸岡川が流れており、
	福岡空港の近くにある。現在周りにはビルや住宅が建ち並び、この遺跡だけがポツンと大都会の真ん中に弥生の空気を漂わ
	せている。ここが学会に紹介されたのは大正5年(1916)。九州大学の中山平次郎氏が、板付田端の甕棺から銅剣・銅矛が
	出土したのを「考古学雑誌」に発表したのが最初である。記事としては、板付台地にある通津寺(つうしんじ)の過去帳に、
	慶応3年(1867)、寺の境内から銅鉾5本が出土し郡役所に届けでたとある。しかしこの遺跡が、学術的に意義深い遺跡であ
	る事を最初に発見したのは町の考古学マニアであった。
	中原志外顕(しげあき)氏は、早くから考古学に興味を持ち、近所の発掘現場などに足を運んでは研究者達と意見交換した
	り、自分の拾い集めた遺物を見せたりしていた。昭和23年、板付にあった防空壕のなかで、弥生前期と思われる地層から黒
	曜石や土器片を見つけてからは板付遺跡に通い詰めていた。昭和25年1月通津寺近くの畑から「夜臼式土器」(当時は柏崎
	式土器と呼ばれていた。)の破片を見つけた。縄文時代晩期の土器である。
	興奮した氏は、翌朝考古学の師である福岡中央高校の岡崎敬先生(後九州大学教授)の家へ走りこれを見せた。岡崎氏もそ
	の重大さに驚き、にわか調査団を召集して昼過ぎには試掘が開始された。
	当時静岡で発見された「登呂遺跡」がきっかけとなって、「日本考古学協会」は、弥生の起源を調査する目的で全国の弥生
	遺跡の発掘を行っていた。福岡県でも、粕屋郡新宮町で「夜臼遺跡」が発掘中であったが、同協会の「弥生式土器文化総合
	研究特別委員会」(代表:杉原荘介明治大学教授(明治大学考古学博物館:参照))は、この発掘をうち切って翌26年板付
	に乗り込んできた。以後4年にわたる調査で、弧状溝や弦状溝さらにジャポニカ種の炭化米などが発掘された。

	以来数次に渡って発掘調査が重ねられたが、昭和53年(1978)に福岡市教育委員会が行った調査で、縄文地層から水田の跡が
	発見された。水田の中には指の跡まではっきりとわかる足跡も沢山残っていた。取排水口、水路、井堰を備えた本格的な稲
	作の跡が出現したのである。当時「縄文水田」として有名になったが、学会ではそう呼ばず、「弥生早期」と言う呼び方を
	された。
	この遺跡は、日本で最も早く米作りを始めた場所として、また弥生時代最古の環濠集落としても有名になった。現在では、
	佐賀県唐津の「菜畑遺跡」から縄文晩期後半(2500〜2600年前)のものと見られる水田跡や農機具が発見されたのを皮切り
	に、各地で縄文晩期の稲作遺跡が発見されるようになり、再び「縄文」「弥生」の時代区分も含めて「稲作」の起源が大き
	な問題となっている。



我が国稲作の起源を考え直すきっかけになった遺跡である。


 

 


	板付遺跡は昭和 51年(1976)に国指定の史跡となり、福岡市では昭和63年から平成5年に渡って遺跡の環境整備を進め、こ
	こに見られるような環濠集落、竪穴式住居、水田等を復元した。現在環濠集落のあるところは、昭和23年中原氏が弥生前期
	の土器片を発見した場所である。

 

 


	下の写真、最初見たときは、竪穴式住居の骨組みを理解し易いようにむき出しに展示してあるのだとばかり思っていたら、
	不審火で焼けたのだそうだ。今までたくさんの遺跡を見て廻ったが、焼けた遺跡などにはついぞお目にかかった事が無かっ
	たので驚いてしまった。聞けば、この近くの遺跡(西区の野方遺跡等)でも同様の失火による消失が二、三あったそうであ
	る。放火と断定はできないそうだが、煙草の火による失火だとしても何とも心もとない人がいるものだ。

 

 

 


	ムラは楕円形の二重の環濠に取り囲まれている。環濠の外にも住居跡が発見されているが、共同墓地や小児用の甕棺墓は環
	濠外にあり、食物の貯蔵穴と見られる遺構は環濠内にある。下左の写真で、左の方にある竪穴式建物の下に貯蔵穴を掘って
	食料を保存していたと考えられている。周りを環濠が取り囲んでいる。環濠からは小銅鐸も発見されており、内部に舌(ぜ
	つ)も備えていた。銅鐸が元々は小さな鐘だった事を示している。溝は、幅約 6m、深さ3〜3.5mの逆三角形になっており、
	落ち込んだら簡単には登れないようになっていた。復元されたこの遺跡では危険防止のため浅くしてある。

 

 

 


昭和53年頃の発掘現場。弥生人(縄文晩期人?)の足跡(上)。


我が国最古の水田の排水路(柵)。上部は弥生初期の水田面。弥生人の足跡が点在している。(下)。






板付遺跡弥生館


	遺跡のすぐ脇に、広い駐車場を完備した弥生館がある。復元した水田も敷地内にあり、近所の小学生達による田植え、刈り
	取りが行われている。弥生館は、板付遺跡から出土した遺物を中心に、弥生時代全般を学習できるような構成になっている。
	復元された農機具などは、今でも田舎に行けば使われているものと同じである。

 






	発掘された水田は現代のものと比べても技術的に何ら遜色のないものだったが、道具類も材質こそ違うが形は現代のものと
	全く同じである。クワ、スキ、スコップなど、取っ手の形まで一緒なのには驚く。発掘された農耕具は殆どがカシの木で作
	られていた。稲穂を切った石包丁や、石臼、杵も発見されており、稲作技術体系に水準の高さが窺える。














	板付のムラができて 100年も経つと、ムラを取り囲んでいた溝は殆ど埋まってしまう。ムラ人の生活は環濠の外へ展開して
	行ったようである。時期的には、福岡平野が「奴国」と呼ばれるクニを中心に統一された頃に相当し、争いごとが無くなっ
	て各地にクニグニが出現したものと思われる。「奴国王」の金印を授かるのもちょうどこの前後になるのだろう。逆に発想
	すれば、環濠のある遺跡は所謂「倭国大乱」の時期まっただ中にあったムラと言えるのかもしれない。




99.3.20 歴史倶楽部例会「北九州弥生の旅」にて再訪。









環濠が集落の廻りを取り囲んでいる様子がよくわかる、発掘当時の写真。




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邪馬台国大研究・ホームページ/ INOUES.NET/ 板付遺跡