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斑鳩の里 −法隆寺・藤ノ木古墳− −難波宮を守る会 主催 − 歴史倶楽部 第39会例会 2000.9.24 



	例によって、どこからか情報を仕入れてくる名人の東江さんが、「難波宮を守る会というところの主催で斑鳩めぐり
	があるで。」と話を持ってきたので、服部さん、河内さんを誘って参加した。他にも2,3人声をかけたのだが
	"BUSY"との返事だった。「難波宮を守る会」というのは、もともと大阪の「難波宮」を守る活動をする為に結成され
	た会らしいが、啓蒙と資金集めにこういう催しを企画しているようだ。そう言えば参加費を700円取られた。「法
	隆寺駅」北口集合。読売新聞に今日の案内が載ったとかで、参加者は50名ほどだった。

	「斑鳩(いかるが)」という名の由来は、一説によると、この地に斑鳩(鵤)という鳥が群をなしていたためだと言
	われている。この鳥は通常イカルという名で鳥類図鑑には出ている。頭に黒い帯を着けたインコのような嘴をもった
	鳥で、インコほど嘴が湾曲していない。注意して見るとどこにでもいる。主に秋に小高い幹のてっぺんで鳴いている。
	大阪の万博公園には沢山いる。






	斑鳩(いかるが)の里は奈良県北西部に位置し、大和川が奈良盆地から大阪平野へと流れ出る所に位置する。推古天
	皇の甥で、摂政であった聖徳太子が、当時政治の中心地であった飛鳥の地を離れ、601年この地に斑鳩宮(現在の
	法隆寺東院)を造営したことで発展した。
	はるか大陸の彼方からの文化が、シルクロードを通って行き着いた終着点が奈良であった。その文化の反映は、法隆
	寺を中心とする仏教伝来の頃の数々の史跡に残されている。
	聖徳太子は「十七条憲法」・「冠位十二階」を制定し、日本の律令政治の基礎を築いた。遣隋使を派遣して、大陸の
	文化を日本へ広く移入した事でも知られる。同時に、仏教の布教に努め、自らも三経義しょう(勝鬘、維摩、法華の
	三経典の解説書)を説いた。仏教を政治の中心に据えたのである。この斑鳩の地は、仏教を礎にして日本の政治と文
	化の中心となった。現在いかるがの里には、のどかな田園風景の中に太子ゆかりの古刹をはじめ、数多くの史跡が点
	在しているが、近年豪華な副葬品を伴った未盗掘の「藤ノ木古墳」が発見され、古代史の謎解きの上でも大きくクロ
	ーズアップされた。

 


	「斑鳩大塚古墳」と名付けられた古墳について随行の「難波宮を守る会」の人が説明してくれる。
	考古学にずいぶん詳しいのでそっち方面の関係者なのだろう。(詳細は聞くのを忘れた。)
	「でも私の説では、・・・」と言っていたから、どっかの研究者なのかもしれない。

 

 


	法隆寺前に、「法隆寺iセンター」という情報センターがある。「ここを訪れる人々に「歴史街道情報」を 提供する
	とともに、ゆたかな歴史・文化に触れ合い、交流できる拠点として、また、休憩等の利便を提供する施設として整備
	されました。」と説明にある。資料を2,3購入。



 

 

 

 








藤ノ木古墳


	法隆寺の南西350m程のところにある。6世紀のものとみられるこの古墳は1985年(昭和60年)に発掘調査
	され、石室内から家形石棺他、多量の馬具類や装飾品が発見された。被葬者は崇峻天皇であるという説もあるが不明
	である。大和川ぞいにある高さ約8メートル、直径約45メートルの円墳。両袖式横穴石室の内部に家形石棺が密封
	のまま安置されている。 

	1985年に橿原考古学研究所が行った調査の結果、石棺の周囲には各種の須恵器、金銅製鞍金具などの副葬品が埋
	葬当時のままで発見された。朝鮮半島か中国製と推測される精巧な鞍は東南アジア随一ともいわれる。88年からの
	同研究所によるファイバー・スコープを使用した未盗掘の石棺内部の調査では男性2体の人骨が確認され、棺内の副
	葬品には太刀、広帯式冠帯などが見つかった。それらは現在、橿原考古学研究所の附属博物館に収納されており、華
	やかな装飾を施した金銅太刀や金靴などのレプリカも展示されている。
	1995年11月、考古学ファンの中学生によって家形石棺の前面のふたの中央部が金づちと大型くぎで半月状に削
	り取られる事件があったが、現在は修復されている。

 

 



 







	【藤ノ木古墳】
	
	奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺西2丁目。直径約 40m、高さ約8mの円墳。横穴式石室の玄室に家型石棺を用いている。出
	土品は多量で、馬具は特に完成度も高く、美術品としての価値も高い優良品である。鉄鏃 809点を初めとする武器、
	桂甲などの武具、鉄製ミニチュア農機具、滑石製臼玉などの副葬品とともに、馬具は3つのセットになって出土した。
	1のセットは金銅製で、心葉形鏡板付轡1点、円形飾金具1点、前輪・後輪の鞍金具、障泥2点、鐙2点、棘葉形杏
	葉17点、歩揺付尻繋飾金具46点、龍文飾金具8点、心葉形飾金具4点、帯先金具10点、革帯飾金具21点、金銅製ホ具
	10点から構成されている。2,3のセットは鉄製であるが、数量的にはやや1番目のセットに劣るものの、内容はほ
	ぼ変わらぬ馬具類を備えている。しかし特に第一のセットは、その装飾から見てシルクロードを彷彿とさせるものが
	あり、仕上がりも緻密で当時の最先端の技術を駆使して製作されたと推定され、芸術的ですらある。








【このコーナーは、「学ぶ邪馬台国」の「古墳時代を駆けた馬」の「藤ノ木古墳」部分と重複しています。】




 

 


	古墳と道路を挟んだ向かいの田圃の隅に石棺が復元してある。石室にあった状態を忠実に復元したそうで、石室の前
	後に敷かれた石の玉砂利も同じように復元したそうだ。それにしても屋根部分の出っ張りは一体何のためについてい
	るのだろうか。説明では、初期の家型石棺の取っ手(出っ張り)はもっと下の方に付いていて、縄を引っかける運搬
	用の出っ張りらしいが、この古墳の時代(6世紀後半)になると、単なる飾りとなってしまったとの事。なんか解せ
	ない。

 

 

 






法隆寺

法隆寺で昼食の後、夢殿まで説明を聞きながら歩く。途中ザーッと夕立(?)が降ってきた。すぐ止んだ。

 

 







中宮時跡


	下は中宮寺跡。
	中宮寺は、聖徳太子が母・穴穂部間人(あなほべのはしひと)のために建立したという寺。現在の中宮時は、室町時
	代にここから西方約500mの法隆寺東院横へ移されている。本尊の樟彫りの弥勒菩薩(飛鳥時代・国宝)は寺伝で
	は如意輪観音と伝えられる。その微笑をたたえた表情と優美な姿で名高い。また、太子の没後、妃の橘の大郎女(た
	ちばなのおおいらつめ)が作らせた天寿国繍帳(飛鳥時代・国宝:太子の浄土での様子を刺繍したものといわれる。)
	が残されている。現在は、その復元されたものが本堂に展示されている。
	その中宮寺がもともとあった場所がここである。竹林の中に柱の礎石や石積みの跡が発見されている。竹藪の前に説
	明板が立っているが、藪の中は荒れ放題である。

 

 





黒駒古墳

 

倒産したガソリン・スタンドの裏手に黒駒古墳はある。こんな伝承が残るほど、
この付近では聖徳太子が愛されていたという事だろうか。

 





上宮遺跡公園



 

 

 

 

「次回は古市古墳群を歩きますので是非また参加して下さい。」と「難波宮を守る会」の人。色んな会が色んな活動をしている。













2010.2.14 バレンタインデ−


	奈良に行った帰り、もう薄暗くなっていたが、藤ノ木古墳が綺麗に整備されたという話を聞いていたので寄ってみることにした。
	薄暗く暮れていく斑鳩の里に、古墳がライトアップされて静かに佇んでいた。千数百年の時を経て、築造当時の形に整えて貰って、
	被葬者もさぞ嬉しいことだろう。







案内板も真新しく、古墳周囲に全部で4つもあった。



















ちょっと上方から写したらまるでUFOだ。



















石室は鍵が掛かっていて中へは入れないが、人が近づくと下のようにライトが点灯するようになっている。











上二枚を合わせた写真です。夕暮れの濃さを冒頭の写真と比べてみて下さい。




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