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日本最古の「大規模環濠集落跡」





	平塚川添遺跡は、弥生時代中期から後期にかけて(一部古墳時代のはじめにかけて)形成された、全国的にも極めて貴重な
	多重環濠集落の跡である。佐賀県の吉野ヶ里遺跡に比べると広さは若干狭いが、低湿地帯に築かれた環濠集落としては九州
	唯一の遺跡である。西日本新聞によれば( 98年1月?だったか。)、壱岐の「原の辻遺跡」と佐賀の「吉野ヶ里遺跡」それ
	にここ甘木市「平塚川添遺跡」の3遺跡が、九州における3大環濠集落の遺跡という事で、それぞれの教育委員会、行政が
	連携をとって、言わば文化財姉妹都市のような協力関係を結ぶ、と報道されていた。

	遺跡発見の事例に漏れず、この遺跡も工業団地造成中に発見された。甘木市は福岡市から車で1時間弱、久留米の北東、筑
	豊の南にあり、筑紫平野の北東のはずれに位置している。筑後川の中流からやや上流という場所である。今話題の古代は置
	くとして、中世から江戸時代にかけては結構栄えた土地であった。博多から日田・大分への中継地でもあり、宮崎県の高鍋
	へ流される前の秋月氏の領地は、甘木・朝倉のみならず、筑豊から三井郡、浮羽郡にまで及んでいたため、現在の福岡県の
	ほぼ中央部を一手に掌握していた。
	江戸時代になってからは、福岡黒田家の支藩として秋月五万石を擁し、甘木は甘長寺(あんちょうじ)の門前町として栄え
	た。しかし、明治の世になってからは、敗れ去った秋月の乱に象徴されるように衰退し、現在では典型的な田園都市と化し
	ている。その為現在では、他の田園都市と同様に積極的な企業誘致を繰り返し、多くの企業がここ甘木に工場、配送センタ
	ーを構えている。この遺跡も、まさにそうした企業団地の建設中に発見されたのである。本格的な調査は平成4年に実施さ
	れ、平成6年には国の史跡に指定された。

	ちなみに、この場所に配送センターを構築しようとしていたのはある大手の飲料水メーカーである。このメーカーは、最初
	神埼工業団地にセンターを構築する予定だった。それが吉野ヶ里の発見により移転を余儀なくされ、次に建設を始めた平塚
	工業団地でも遺跡にぶち当たった。しかも同じ環濠遺跡にである。
	このメーカーにとっては不運というか幸運というか、歴史ファンからすればありがたい会社である。


	これまでの発掘調査で、約300の竪穴式住居跡と、約150の掘立柱建物跡が中央に集中してあった事が確認されており、多重
	に巡らされた環濠と五重の柵列がそれらを取り囲んでいた。又集落には、「楼閣」「高殿」などの大型建築物の跡も確認さ
	れた。集落は南北約220m、東西約120mの楕円形で、面積は約2ヘクタール、標高20〜21mのなだらかな傾斜を持つ低地である。
	中央集落には、弥生後期から古墳時代始めまでの竪穴式住居跡が約 200確認されているが、大きなものでは6.5mx6m、床
	面積約45u。弥生時代終末期のものは約30だが、これらは中央部に空間を造りそれを囲むように建てられていた。つまり
	「広場」が形成されているのである。この広場には、大型の掘立柱建物が4棟、整然と並んだ状態で建てられていた。


 



上記写真資料は「甘木歴史資料館」内の掲示写真より。




以下の資料は、新人物往来社発行の「歴史読本」1993年3月号に載った「平塚川添遺跡」の発掘当時の資料である。





 




平成10年(1998).8月


	現在、遺跡のど真ん中を産業道路が通っているが、その片側は埋め戻され小さな史跡公園として整備されている。もう片側
	に、やがて大々的に復元された建物や展示物が整備され、吉野ヶ里のような一大史跡公園が出現する予定である。(一つ下
	の遺跡復元図で、上部に横切っているのが道路。この上側が公園で、下の広大な地域がこれから整備される部分。)

 

 


	上右と下の写真は、甘木歴史資料館から。上右図の中央部の広場に、大型の高床式建物が4棟並んで建っているのが見える。
	これらの建物は、1棟が約2.54mx9.31m、面積約51.6uの広さを持ち、4棟の建物群全体で約280uにもなり、他の建物群
	とは比べものにならない大きさを有している。
	4棟は、あらかじめ計画されて建物群の中央に建てられたもので、住居群はこれらを取り囲むようにして建てられていた事
	が判明している。
	この事から、この遺跡は平塚川添の周辺部落をも含めた一大センター的都市であったと推定され、4棟の大型掘立建物は、
	祭祀儀式に用いられた「高殿」であった可能性が高い。
	又、その並びに一際大きな建物がある。いずれこの図のように復元されれば一目瞭然なのだが、この遺跡中最大の大きさ
	(6.94mx8.34m、面積107.6u)を持つ大型掘立建物で、4面に回廊を巡らした立派なものである。他の建物を圧倒する大
	きさと華美さを備えたこの建物は、当然この集落を統治する権力者、即ち首長の住居であろうと推測される。
	あるいは、現在まだ我が国では確認されていない「神殿」であった可能性もある。

 



下の広場が、これからの整備を待っている遺跡跡。ここに大環濠集落がひしめいて居たのである。















この遺跡からの出土品は、現在大半が甘木歴史資料館にあり一部公開展示されている。









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