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平城宮再訪/遺構館・東院庭園 1999.5.29 with Wife


	近所の公民館の事務を手伝っていた嫁半が仕事を変わった。今度は市民病院の事務だそうだ。それまでは土日も勤務
	していたのが、完全週休3日で土日は休み。どっか行こうというので、平城宮を案内してやる事にした。ついでに前
	回見逃した遺構館や東院庭園、それに前日新聞に載った「橋の遺構出土」の現場も見れるに違いない。







平城宮の保存には市井の人達が大勢尽力しているが、その中でも棚田嘉十郎(たなだかじゅうろう)の努力は大変なものだった。万延元年(1860)奈良市にうまれた嘉十郎は長じたある日、観光客に平城宮のありかを尋ねられ、荒れ放題の平城宮跡を見て愕然とし保存の必要性を強く感じる。地元で保存の必要性を説き、 自費で上京しては篤志家を募った。知事の協力を得て御下賜金300円を引き出し保存運動を盛り上げるが、推挙した篤志家の裏切り行為を恥じ、大正10年(1921)割腹して61歳の生涯を閉じた。遺跡は嘉十郎死去の翌年国指定の史跡となり、銅像が支持者達の手により平城宮跡地に建てられた。復元された朱雀門のすぐ側に、 今も佇んで平城宮を見守っている。










大極殿跡・築地回廊跡













平城宮遺構館

 

 

 

 





東院庭園







もっとじっくり遺構館を見たかったが、「東院庭園が閉まりますよ。」と言われてあわてて東院に向かった。広大な平城宮跡を10分ほどあるいてギリギリ閉門(午後4時半)に間に合った。発掘された橋の跡に関する説明会は午後1時からでもう終わっていた。奈良時代後半の称徳天皇の時代、折に触れ儀式や宴会が催された『東院』。その一角平城宮の東南隅に営まれた『東院庭園』は石を敷き詰めた池や石組みのある築山、趣向をこらした建物や橋などからなり、当時の宮廷行事あるいは宮廷生活の優雅さがうかがえる。上はその『東院庭園』の復元模型。以下は実際に復元された「東院庭園」。

















平城宮跡に橋の遺構 日本庭園の美意識で造る?


	国の特別史跡である奈良市の平城宮跡の東院南門前から、溝に架けられた、大がかりな橋の遺構が出土したと27日、
	奈良国立文化財研究所が発表した。奈良時代後半( 8世紀後半)、東院には「東院玉殿」や「揚梅宮」が建てられ
	て天皇や皇太子が住み、重要な儀式や宴会が催されたことが文献に記されており、これらの建物と合わせて門の前
	が整備されたらしいという。
	出土した溝は幅3b、深さ20-40a。東院南面の築地塀(大垣)と平行に東西にのびていた。これまでの発掘をもと
	に復元された東院南門の真ん前の位置で橋が架けられていた=図。橋は幅約12b、長さ約.3b。橋脚跡は14個あり、
	橋脚に使われた約20a四方の柱の根も残っていた。橋の幅は門の扉の両端にピタリとそろえられていた。橋は路面
	より高く、2,3段の階段がつけられていたらしい。溝には人頭大の石が東西 23bにわたって敷かれ、門の基壇の両
	端とほぼ一致した。
	東院は平城宮の東側にあり、称徳天皇や光仁天皇が離宮を整えた。庭に石を敷き詰めた、日本庭園のルーツといわ
	れる園池が復元されている。橋も、庭園と共通した美意識でつくられたとも考えられるという。
	現地説明会は29日午後1時半から。近鉄大和西大寺駅北口からJR奈良駅行きバスで平城宮跡下車、徒歩約15分。
	【1999.5.28朝日新聞記事から転載(原文のまま)】

	『その後6月に入って橿原考古学研究所が、飛鳥宮跡で「日本最古の庭園の跡」を発見したと発表。「学ぶ邪馬台
	国」のコーナーにその説明会の模様をレポートしてある。』










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