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葉山尻支石墓群 (はやまじりしせきぼぐん)
2003.12.18 雨 佐賀県唐津市半田 




		縄文時代晩期から弥生時代初頭にかけて、新たな大陸文化の波が北部九州に渡来した。それまでも渡来は
		漸次行われてきたと思われるが、大規模な水耕稲作を伴った文化は、それまでの倭人の生活内容を大きく
		変えた。
		唐津市菜畑遺跡・女山遺跡では籾痕のある縄文晩期土器が発見されている。菜畑遺跡では我が国でも最も
		初期の水田遺構が確認されている。そして稲作技術の伝来に伴って支石墓という墓制も伝来されたと思わ
		れる。丸山遺跡(佐賀市)では「もみがら」のついた土器も支石墓の副葬品として見つかっている。佐賀
		平野全体では、支石墓が10数カ所見つかっていて、日本列島でも集中してみられる地域である。
		唐津平野の葉山尻支石墓はこの時代の墓制である。結果的に支石墓は、稲作文化という一つの文化体系の
		中の新しい埋葬の仕方として渡来してきたものと考えられる。




		【唐津市・葉山尻支石墓群 】(国指定史跡/昭和41年12月19日指定)
		飯盛山から北に延びる標高約30メートルの丘陵北端に立地する。縄文時代晩期末から弥生時代中期の支
		石墓・甕棺墓を主体とする遺跡で、昭和26年発見され昭和27・28年に県教育委員会が発掘調査を行
		った。調査により、支石墓6基・甕棺墓26基・古墳1基が確認されている。支石墓は、上石がいずれも
		花崗岩で、6〜8個の支石で支える構造である。支石墓の内部は土壙墓やカメ棺墓からなり、1号支石墓
		は弥生中期のカメ棺6基を内蔵していた。甕棺墓には管玉が副葬されていた。この遺跡は、支石墓として
		は我が国で最初に学術調査が行われたもので、弥生時代墓制と朝鮮半島墓制のつながりを研究する上で重
		要な遺跡である。支石墓は米作技術と一緒に朝鮮から人も渡ってきた証とされ、当時の北部九州における
		国際交流の様子を示している。



上の説明板と石碑の間を畑の方へ登っていく。畑の中を20mばかり登った丘の頂上に、支石墓が横たわっている。

 

 




		支石墓(しせきぼ:ドルメン)
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		ドルメンとは、もともとケルト語で石卓の意味である。新石器・青銅器の巨石文化の名残で、西ヨーロッ
		パから、北アフリカ、アジアまで広く分布している。2−4個の石を支柱にして、その上に平たい大きな
		石を乗せてテーブルのようにした事からこう呼ばれるようになった。それらの石で囲んだ中に死者を葬る
		のである。
		

		アジアでは中国、朝鮮半島に広くこの墓制は普及し、我が国では縄文の終末期から紀元前後にかけて、主
		に西北九州(長崎・佐賀・西福岡)の、いわゆる魏志倭人伝に登場する国々(對馬国、一大国、末廬国、
		伊都国、奴国)で多く発見されている。現在の長崎・佐賀・福岡西部を中心に分布しており、同じ形態が
		朝鮮南部にも見られ、この墓制が朝鮮半島から渡来したものであることがわかる。支石墓は多くが箱式石
		棺で、その長さはほぼ1m以内で、縄文時代の特徴である屈葬の形で埋葬したようだ。朝鮮半島の文化と
		縄文文化が融合したという見方もある。糸島半島の新町遺跡では、その支石墓の下から、縄文人的な形態
		と抜歯風習をもった弥生前期初頭の人骨が出土した。いわば渡来系の墓に土着系の人が埋葬されていたわ
		けである。

 

 

我が国で初めて調査された支石墓群というだけあって、当時佐賀県が大々的に顕彰したようだ。






		大韓民国全羅北道高敞郡・全羅南道和順郡・京畿道江華郡の支石墓群は規模も大きく、特に高敞支石墓群
		は全羅北道高敞郡竹林里と道山里一帯を中心に分布する大規模な支石墓群である。分布は東西1700m
		余りの範囲に密集して築かれており、その総数は442基を数える。韓国に於いて最も大きな支石墓群集
		地域を形成している。使用されている石材には10トン未満のものから300トンを越すものまで見られ、
		多様な大きさの支石墓が確認できる。テーブル式、碁板式、地上石槨形等各種の支石墓が共存している。
		これらは現在世界遺産として登録されている。
		朝鮮半島で支石墓が多く建設されたのは、紀元前1000年から紀元前100年くらいまで続いた無文土
		器時代という時代にあたり、日本でいえばちょど縄文が終わり弥生が幕を開けた頃にあたる。
		支石墓は、数基から数百基が群をなして一つの墓域を形成し、それが朝鮮半島全体で2000ケ所くらい
		が発見されている。特にその半数が朝鮮半島南部の全羅南道、慶尚南道に集中しており、密度の地域差が
		大きい。

 

		支石墓は大きく3通りに分類される。1.石棺式支石墓、2.卓子式支石墓、3.碁盤式支石墓である。
		石棺式支石墓は石棺を地中に埋葬し、石棺の周りは積石で満たし、石棺の蓋の代わりに大きな上石をかぶ
		せるもので、朝鮮半島全域から中国東北部に多い。
		卓子式支石墓は平安南北道、黄海南北道に多く集中するタイプで、二枚の板石の大きな平たい石を置いて
		テーブルのようにする支石墓である。江華の支石墓はこのタイプ。
		碁盤式支石墓は別名南方式支石墓ともいい、高敞に代表されるような全羅南道、慶尚南道のものはほとん
		どこのタイプ。碁盤のような厚い上石を数個の支石で支え、上石の下に積石を設け、そこに埋葬する。朝
		鮮では、支石墓は鉄器の流入によって衰退し、それはやがて囲石木棺墓に変遷していく。



 
		
		この遺跡も荒れ果てていて、かってどのような墓群の姿だったのかはよくわからないが、箱式石棺の残骸
		などに、2000年前の葬送の面影をかすかに偲ぶ事は出来る。説明板に、復元想像図でもあればイメー
		ジが沸くのだが。しかし、死者を、小高い集落を見下ろせる位置に葬るという発想は、朝鮮南部や対馬の
		葬送と似通っている。
 


		我が国では支石墓は、縄文晩期の西北九州に出現した墓制であるが、その起源は朝鮮半島南部に分布する
		いわゆる「碁盤式支石墓」に由来している。ただし朝鮮の支石墓との違いとして、西北九州のそれは屈葬
		の採用や縄文の系譜を引く遺物の出土などがあげられる。支石墓は、地上に露出する上部石組構造と、地
		中の埋葬主体から構成されており、上部構造は基本的に、楕円形の巨石を数個の支石が支えている石組み
		をとり、まれに支石を持たないものもある。上部構造が良好に保存されていることは少ないので、その分
		類には不明な部分が多い。
		我が国における支石墓の埋葬主体は細かく分類されており、大別すると箱式石棺・土壙・甕棺が主なもの
		であるが、各地域それぞれ特徴がある。支石墓は、海岸に近い小規模な平野に面した、舌状の丘陵や微高
		地上に立地することが多く、石墓の埋葬主体は、玄界灘沿岸では土壙、長崎県では箱式石棺、佐賀平野で
		は石蓋を持つ土壙というように、同時期ではあるが、地域によって異なる種類が使われている。我が国で
		も、支石墓は単独では存在せず、10基前後が最小単位となって墓地を形成している。家族的な小集団が支
		石墓の被埋葬者だったことが推測される。


唐津のシンボル「鏡山」のトイ面にこの支石墓群はある。

		支石墓は、北西九州の夜臼式土器の間に盛行した墓制である。そして、夜臼式の後半になると、新たに弥
		生式土器(板付T式土器)が誕生して、集落内で両者が共存する。しかし、支石墓からは夜臼式土器しか
		出ず、板付T式が出土するのは、新たに発生した土壙(木棺)墓であり、墓制は共存しなかったようであ
		る。支石墓は、夜臼式土器が終焉するのと同時に消滅するが、若干の、例外的に交流の跡を示す例を除き、
		とうとう最後まで他の種類の墓制と共存することはなかった。支石墓は、その大部分が北部九州の限定的
		地域内に収まるのだが、弥生前期後半〜中期にかけて、支石墓は消滅の一途をたどる一方各地に拡散し、
		五島列島や熊本・鹿児島県まで支石墓の例が若干存在する事がしられている。



		以前JRの筑肥線だった路線に、福岡市の地下鉄が乗り入れしている。一本で福岡空港まで行けるのはあ
		りがたいが、前原から唐津の間は、通勤通学時間帯を除けば1時間に2本しか電車がない。時刻表を調べ
		て遺跡巡りをしないとホームで延々と待たされることになる。ここから空港までは各駅停車(しかない)
		で1時間半はかかる。



		前夜、部下達と福岡のお客さんで忘年会をして、二次会は部下達にまかせて早々とホテルに戻り、今朝5
		時半に起きてこの遺跡へやってきた。朝からどしゃ降りで、こりゃやめとこかな、と思ったが、そうそう
		来る機会はないので思い切って出掛けてきた。昼頃の便で大阪へ戻るので大急ぎで唐津の遺跡をめぐった。
		「遺跡?」というタクシーの運ちゃんと、雨の中をあちこちとめぐって飛行機に乗ると、雲の上は快晴で、
		大阪はいい天気だった。(上の写真は伊丹空港周辺の昆陽池付近。)


邪馬台国大研究ホームページ / 遺跡めぐり /chikuzen@inoues.net