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古市古墳群 郷土の文化財を訪ねる会 大阪府藤井寺市・羽曳野市 2000.7.16



	今回の「・・訪ねる会」は大阪府藤井寺市の古市古墳群である。歴史倶楽部の東江さんを誘って2人で参加。近鉄
	南大阪線の「土師の里」(はじのさと)駅に集合。駅前は狭いので、すぐ目の前にある「鍋塚古墳」の上に参集す
	る。今回の随行講師は、藤井寺市教育委員会の上田睦氏である。この地域は古墳のメッカだ。

	古市(ふるいち)古墳群は、藤井寺市から羽曳野市の一帯にかけて東西3キロ、南北4キロの範囲内に分布する大
	古墳群である。堺市の百舌鳥古墳群とともに、5世紀代の近畿に覇を唱えた「大王」達の奥津城で、100 基以上の
	古墳からなる。4世紀には奈良にあった大王墓が、なぜ南河内の古市へ移動してきたのか。河内王朝は実在したの
	か。なぜ覇権はまた奈良へ戻っていったのか。発掘できれば、これらの古墳達はその謎を明らかにしてくれるかも
	しれないが、何時になったらかなう事か。

 

 


	鍋塚古墳はすぐ側にある仲ツ山古墳(仲津姫陵)の陪塚と考えられている。小山の円墳で鬱蒼とした木々に覆われ
	ている。古市古墳群はとても一日で回れるようなものではない。今日も全体の4分の1位しか歩かない。車の入れ
	ないような道が多く、全体を見ようとしたら、後4,5回は来なければならないだろう。







市野山古墳(允恭天皇御陵)

	藤井寺市国府1丁目に所在する、全長230m、後円部経140m、前方部幅160mの前方後円墳。第19代允恭天皇の陵と
	宮内庁は認定しているが、その真偽は不明である。北に向けた前方部はやや開きぎみ、くびれ部の両側には造出
	しを持つ三段築成になっている。この墳形は、墓山古墳や大阪茨木市の太田茶臼山古墳(宮内庁は継体天皇陵に
	治定)と極めてよく似た形式を持っているが、時期はやや異なる。
	出土した埴輪は円筒埴輪の他、家、盾、ゆき、衣蓋、人物などの形象埴輪も認められる。円筒埴輪の特徴は誉田
	御廟山古墳(応神天皇陵)のものよりかなり退化が進んでおり、むしろ岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇陵)のもの
	に近いとされる。従来の古墳編年によれば5世紀末とされているが、最近5世紀中葉とする説も出てきている。
	これは倭の五王「済」の年代(443年、451年、460年、462年)と近く、「済」を允恭天皇に比定する説が有力な
	ことから、市野山古墳=允恭天皇御陵という宮内庁の考えもあながち的外れではないのでは、という考えから来
	ている。

 




 


衣縫古墳


	遠くに見えている衣縫塚古墳の説明を聞く会員達(下)。直経20m の円墳だがここも宮内庁の管轄下にあり詳
	細は不明だが、以前の発掘調査で周濠が確認され、埴輪円筒棺や馬形埴輪、人物埴輪などが出土している。こ
	の古墳の名前はこの辺り国府地区に伝わる孝女衣縫の話から来ているものと思われる。
	
	「孝女伝説」・・・・平安時代の仁明朝(834〜835)の頃、国府地区に衣縫造金継という者がいた。この者の娘
	はたいそう親孝行で、12才の時、金継が亡くなった後も墓参りを絶やさず、母親にも孝行を怠らなかった。適
	齢期になって母親は良いところへ嫁がせようとしたが、娘は「母様を残して嫁に行くぐらいなら死んだほうが
	いい」とまで言って断り続けた。母親が死んだ後も、独り身で両親の墓を守り通した。

 



衣縫廃寺


	国府遺跡の区域内で、飛鳥時代に創建されたと考えられる寺院跡が見つかっている。今は廃寺で寺社名も伝わ
	っていないことから、便宜上近辺の字名をとって「衣縫廃寺」と呼ばれている。
	塔の心柱の礎石(塔心礎)が露出しており、大阪府教育委員会の発掘調査で、金堂が西、塔が東に位置する法
	起寺式伽藍配置であることが判明した。塔心礎は、長辺3.15m、短辺2.17mの巨石で、中央に経1.05m の柱穴が
	穿たれており、その中央には蓋受けの付く舎利孔が開けられている。
	ここからは、我が国最古の古代寺院である飛鳥寺や豊浦寺と同じ鋳型で製造した「素弁八葉蓮花文軒丸瓦」が
	出土しており、蘇我氏と密接な関わりがあったことがわかる。

 



国府遺跡


	約20,000年前の旧石器時代から、縄文墓群、弥生集落、古代寺院、国府跡、その後も連綿と人々の生活痕が
	確認できる複合遺跡。この遺跡からは、縄文から弥生にかけての人骨が80体以上出土している。下右で説明
	している上田さんも人骨を掘り当てたそうだ。国府という名前は、いにしへの河内国府を連想させるが、志
	紀郡内には他にも国府跡を思わせる地名が幾つかあり、確定していない。

 



志貴県主神社







	藤井寺市惣社に所在する延喜式内社。志貴県主は雄略朝に当時天皇だけに許されていた鰹木を家に用いてと
	がめられた話がある。神武天皇の皇子、神八井耳命を祭神としているが、「新撰姓氏録」によると、もとも
	と古代の豪族である志紀県主の祖先神を祭神としていたようである。

 



伴林氏神社


	伴林氏神社(ともばやしのうじのじんじゃ)が鎮座する藤井寺市とその周辺は、河内平野のほぼ中央、大和
	川の流域に当たり、古くから開けてきた地で、推古天皇が日本最初の官道と定められたといわれる竹内街道
	に沿って、天皇陵や古墳群が数多く集中し、古代文化の宝庫として今にその歴史を伝えている。




由緒のあらまし

	
	創建は古く、三代実録によれば、清和天皇の貞観9年2月26日(867年)、志紀郡 林氏神は既に官社と記され、
	同15年12月20日には祭神・天押日命(あめのおしひのかみ)に従五位が授けられている。しかし延喜式神名
	帳の記載にも伴林氏神社名が登場することから、それよりはるか以前から道臣命の子孫がこの地に住み、大
	和朝廷時代の名門として祖先を祀ってきたものと思われる。その子孫達は代々、守護の責任者として朝廷に
	仕え、、7代目の武持は景行天皇から大伴宿禰姓を賜り、金村は平群(へぐり)氏を撃ち、長徳は蘇我氏を
	滅ぼして右大臣になっている。
	時代はさらに降って壬申の乱には、吹負(ふけひ)が天武天皇に従って武功をたて、旅人もまた九州を平定
	して従二位大納言まで昇進した。特に家持(やかもち)は歌人としても優れた才能を持ち、万葉集を編集す
	るなど、日本和歌史上不朽の活躍をした事で広く知られる。国道の時、淳和天皇の贈り名が大伴であったた
	め、大伴宿禰を伴宿禰に改めたが、その子の大納言善男が王天門の変(866年)に破れ伊豆に流されてからは、
	一族の力は急速に衰えていった。
	戦国時代、神社は信長の兵火にあい焼失、それまで神社の維持管理をしていた伴氏も絶え、その後はわずか
	に地元民らが産土神(うぶすながみ)として小さな社殿を再建して伝え、明治の初め、村社となった。
	昭和7年ごろ、道臣命を祀る全国唯一の神社として注目を浴びるようになり、戦時中の同15年には「西の靖
	国神社」として整備充実が進み、府社に昇格したが、戦後は宗教法人として自立。伊勢神宮を本宗とする神
	社本庁の包括となり今日に至っている。「伴林氏神社」案内パンフレットより。


	
	ここで昼食。東江氏と近所のスーパーにBeerを買いに行き、大きな楠の下で愛妻弁当を食べる。東江さんは、
	自分で握ってきたという、海苔をぐるぐる巻いて真っ黒になったでかいおにぎりを食っていた。少し可哀想
	だったので卵焼きをあげた。(笑)

 



誉田御廟山古墳(応神天皇陵)

	応神陵古墳は墳丘長425m、前方部幅300m、後円部経250m、前方部高さ36m、後円部高さ35mの規模を持つ前方
	後円墳である。堺市の大仙古墳(仁徳天皇陵)に次ぐ規模を持った古墳であるが、体積としては日本最大の
	古墳と言われている。現在は調査不可能であるが、伝えられる所によれば、竪穴式石室や長持型石棺が一時
	露出していて、円筒埴輪や形象埴輪(馬形、家型、水鳥形・盾形・他等)土師器壺・魚形土製品等々が出土
	している。





 

「訪ねる回」の次回は9月で、住吉大社から帝塚山古墳を訪ねるそうである。東江さんも行くと言う。だから会員になれとあれほど誘ったのに。







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