私はこの街で学生生活をおくった。クラブのトレーニングで、大濠公園や西公園や、ここ平和台でもイヤと言うほどランニ ングした記憶がある。だがこの城趾を訪ねた記憶がない。なにしろ30年前である。一度くらい来たことはありそうなものだ と思うが、今私の記憶には全くないのだ。 忘れてしまっているのか、それともほんとに来た事がないのか皆目わからない。今もそうだから、当時でもおそらくアベッ クの巣だったはずだ。つまるところ、山登りとランニングに明け暮れて、女の子には縁のない学生生活を送っていた事の証 明なのかな。
福岡は、関ヶ原の戦いで家康に付いた黒田長政がその武功として貰った街である。父の如水(官兵衛)は秀吉の片腕であっ たが、関ヶ原では息子の長政を東軍に遣わし、自らは西国の守りと言って大分を動かなかった。石田三成方からも再三にわ たる西軍参加の要請が来たが、如水はなにやかやと理由を付けて中津からでようとはしなかった。軍備を整え、あわよくば 自らが天下をとろうとしていたふしがある。しかし意に反して関ヶ原の戦いはたった一日で終わってしまい、如水の夢は潰 (つい)えてしまう。家康との会見に臨んで武功を称えられた長政が、中津へ凱旋し父如水にその報告をした時、如水は家 康が握ってきたのはどちらの手かと尋ね、長政が「右手でございます。」と答えた時、如水は「その時お前の左手は何をし とったんだ!」と叱り飛ばしたというのは有名な話である。長政は57万石を拝領したが、三男に秋月5万石を与えたため、 福岡藩としては52万石という事になった。播磨の目薬屋から52万石の大名にまでなった如水とその息子長政。「福岡」 の地名は、彼ら黒田一族の発祥の地、播磨(今の岡山県)の「福岡」からきている。
天守台の上からは、福岡市の南西方面が一望できる。北側は海で東はビル群に遮られている。青春時代を過ごした街は夕闇 に包まれ、やがて30年前の思い出を包んで全てを漆黒の闇の中へ運んでいく。