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富山・不動堂遺跡(縄文時代) 1998.11.21(土)







	この遺跡は、北アルプス北部の山々を背景にして造られている。遙か縄文の人々も、毎日この素晴らしい山並みを見ながら
	日々の仕事に従事していたのだろう。


	<不動堂遺跡> 
		
	富山県の東端、朝日町に縄文時代の住居遺跡遺跡「不動堂遺跡」があり、復元建物を中心とした公園になっている。この遺
	跡は、朝日町不動堂地内の旧扇状地の末端に位置し、圃場整備事業に先立ち県県教育委員会が発掘調査を実施した。調査の
	結果、縄文時代中期の食糧貯蔵や加工用の深い穴、多量の土器や石器、21棟の竪穴式住居が検出して注目された。特に、
	2号住居跡は東西約17m、南北8mの日本最大級のもので、単なる個人住居でなく、集落の集会所のような公共性の建物
	と考えられ、縄文時代の集落構造や社会生活を探る上で貴重な遺跡として、昭和49年国指定史跡として保存されている。
	昭和59年遺跡内に、タイプの異なる3棟の住居跡を原寸大に復元して、縄文時代の生活の知恵を知ることができる公園と
	して整備された。

	アクセス: JR北陸本線泊駅より宇奈月方面へ車10分。北陸自動車道・朝日ICから車で5分。JR泊駅から車で10分。 
	駐車場 : なし 
	住所  : 富山県下新川郡朝日町不動堂5
	入場料 : 無料 
	TEL : 0765-83-1100 
	問合わせ: 朝日町商工観光課  朝日町教育委員会 

 


遺跡は朝日町歴史公園の中にあるが、
狭い休憩舎に、発掘された遺物の一部が展示してある。
大型建物の復元作業のビデオも見ることができる。





 







	不動堂遺跡は、出現した竪穴式住居があまりにも巨大だった事で一躍有名になった。東西17m、南北8mの小判型をした
	竪穴住居で、併出した土器から縄文時代中期前葉と判明。1973年の発掘当時は、日本一の大きさをもった住居跡だった。
	しかし、考古学における不思議さと言うのか、その1月後青森市の近野遺跡でこれを上回る19.5m、80年には秋田県
	杉沢台遺跡で31m、89年には山形県米沢市の一の坂遺跡で長さ43.5m(今のところこれが日本最長のもの)という、
	超特大の竪穴式住居が次々と発掘され、ごく最近では1994年、三内丸山遺跡から10〜31mのロングハウスと呼ばれ
	る大型建物が20戸以上発見されている。




	<第二号住宅 (現地掲示板掲載参照)>
	「この住宅は、縄文時代中期前葉(約5000年前)の竪穴式大型住居を復元したものです。住宅跡は東西17M、南北8
	Mの小判形長円形で、床面積は115平方メートルあります。縄文時代の竪穴式住居の約4〜5倍の広さで、日本で最大級
	のものです。住穴は周溝から約1.5M内側に14個東西の線上を折り目として対照的に掘られています。直径約1Mの大
	きなもので、ここに直径30cmほどの柱がたてられていたと推定されます。東西の線上には4個の石組炉が等間隔に並ん
	で作られています。
	東側の2個は長方形西側の2個は円形で、それぞれ中央寄りの炉の南側には埋甕が1個づつあります。 このように大規模
	でかつ規則正しく立てられたこの住宅は普通の住居ではなく周辺から人々が寄り集まって会合したり、いろいろな行事を行
	った公共的な建物ではないかといわれています。」

 


	現在の見解では、これらの大型建物は縄文前期の前半にまず東北地方に出現し、前期末から中期前葉にかけて北陸に波及し
	ていったと考えられている。では、これらの大型建物は一体何に用いられていたのだろう? 以下の写真数枚をご覧いただ
	けばわかるが、第2号棟の居住跡は他の一般の居住型の4〜5倍もある大きさで、内部に4個の石組炉があって、2室に区
	切られている構造を持っている。今も見られる2所帯住居という線もなくは無いが、共同の集会或いは作業場という説が有
	力である。

	1973年当時は、「今までの縄文時代のイメージを変える大発見」「日本最大の竪穴住居跡」などと評価され、翌74年
	には国指定史跡となった。この住居の用途については様々な議論がある。不動堂遺跡の発掘に携わった金沢美術工芸大の小
	島俊彰教授は、「今ははっきりしたことは言えなくなったが、当初はヒスイの工房だと思った」と言う。ヒスイが波に打ち
	寄せられる宮崎海岸が不動堂遺跡近くにあるためだ。一方、富山市教委生涯学習課の藤田富士夫主幹は「集会所だったので
	はないか」と推測する。藤田主幹によると、縄文時代の集落は、優秀な遺伝子を残すためか、2つの集団から成り立つケー
	スが多かったのだという。不動堂遺跡の大型住居跡ではそのことを示すように、東側2つの炉が方系(四角)、西側2つが
	円系(円形)だった。藤田主幹は「共同作業場だったならば、わざわざ違った形の炉にする必要などないはず。2つの集団
	が儀礼などについて同時に集会を開き、その後、それぞれのリーダーがすり合わせをしたのではないか」と話している。

 

 


	上右の写真は発掘された当時の大型竪穴住居の跡だが、その巨大さがわかる。それまでの竪穴式住居に比べると殆ど倍以上
	である。復元作業自体も機械やクレーンを用いて数十名の人手を要したくらいだから、縄文人が如何にしてこの大きさの建
	物を建てたか、又人手はどうしたのか、そのエネルギーとパワーには全く驚かされる。復元のために集められた材料は、1
	束直径15cm、長さ1mから1.5mのカヤ1万束を始め、ナラやカシ、栗などの柱材 その他、縄代割りのマンサクやフ
	ジづるなどの補足材など、ざっと43立方mにもなり、1年がかりで集められた。石器時代の道具もない当時に、多大な労
	力を費やしたことは想像にかたくない。



 

 


	あいにくの小雨まじりの天気だった。公園の入り口にある管理事務所で、(この建物も江戸時代の豪商の旧家を移築したも
	の)管理人(?)のおばちゃんからブクブク茶なるものをごちそうになる。例によって、「ヘェー大阪から。」と感心され
	たりあきれられたり。隣接して「百河豚(いっぷく)美術館」「歴史公園」、「なないろKAN」等があって、楽しめる。





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