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滋賀・大中の湖南遺跡

2003.5.4(月)


	JR東海道線安土駅からタクシーで10分程の所に、「大中の湖南遺跡」(だいなかのこなんいせき)と呼ばれる、弥生時
	代の農耕集落跡がある。「大中の湖干拓事業」の工事中に発見された遺跡で、弥生時代中期の農耕集団の生活跡である。
	発掘当時は、静岡県の登呂遺跡で発見された木製出土品をはるかに上まわる木製農具や狩猟具が出土し、奈良県の唐古遺跡
	(弥生前期)と並んで、近畿圏における大規模な農耕集団の遺跡として話題を呼んだ。昭和48年4月に国史蹟の指定を受
	け歴史公園として整備されたが、今は石碑と、3枚の説明版、そして復元された竪穴式住居が残るだけで、廻りは雑草に覆
	われている。しかし歴史的には現在でも遺跡としての資料価値は高い。遺跡のすぐ裏手に、滋賀県の農業大学・農業試験場
	があり、遺跡を知らない運ちゃんには ここを指定すればいい。


(この辺り一帯が大中湖南遺跡)


	大中の湖南遺跡は、琵琶湖最大の内湖「中の湖」の干拓事業の最中に発見された遺跡であり、遺跡の範囲は 東西1300m、南
	北200mに及んでいる。東端に縄文時代、その西に弥生時代、さらにその西に古墳時代から平安時代の遺跡と続き、平安時代
	末期で終わっている。遺跡は大きく3つの部分に分かれており、それは、縄文時代末期、弥生時代中期、平安時代末期とな
	る。これは、この時代に琵琶湖の水位が大きく変動したからで、それに伴って集落を移動していったもののようである。

	大中の湖南遺跡から発掘された遺構は、砂州と砂州との間の低い低湿地を利用した水田跡、排水のための溝、境界と見られ
	る柵列跡、数基の方形周溝墓、2ケ所の貝塚など、弥生時代中期前半の遺構だけで、他の時代の遺構は検出されていない。
	遺物は、縄文時代から平安時代末までの土器や木器が多量に出土しているが、なかでも未製品を含む弥生時代の木製農具は、
	その質・量ともに我が国最大のものである。遺物は現在安土城考古博物館に収蔵され、一部は常設展示されている。




	琵琶湖周辺は、何千年も前から人類が定住していた場所で、琵琶湖を取り巻く湖西の比良の山々、湖北の美濃の山々、そし
	て湖東から湖南にかけての鈴鹿の山々など、周囲の山地からの肥沃な大地と水が、人類に住みやすい環境を提供していたも
	のと考えられる。石器時代、縄文・弥生から安土桃山時代に至るまでの多くの遺跡があり、現在でも各地で発掘作業が行わ
	れている。

	この辺り一帯は、かって「大中湖」(だいなかこ)と呼ばれる直径4kmの琵琶湖最大の内湖であった。ここを干拓化する
	計画が持ち上がり、昭和32年からの干拓事業で大中湖は徐々に水深を浅くしていった。昭和39年6月に湖畔めぐりの湖
	底が陸化し、7月には湖心部の排水が完了して湖底が露出し、同時に地図の上から「大中湖」は姿を消した。新しく出現し
	た干潟や造成された新稲田での潮干狩や田植えが行われる中、附近の子供達が南湖畔から多くの土器や石器を見つけていた。






	昭和40年、41年と行われた本格的な発掘調査の結果、多量の木製農具や土器、木偶、狩猟具、水田跡・住居跡などが発
	見され、弥生中期の大規模な農耕集団が定住していたことが明らかになった。また遺跡は縄文時代のものから平安時代にま
	で及び、この一帯が長期にわたって人々の集落として栄えていた様子が明らかにされた。同時に、琵琶湖の水位がごく最近
	までもっと浅かったことも実証したのである。


(上の写真は、すぐ前の写真の道路を挟んだ右側である。)


	弥生時代の滋賀県の遺跡としては他にも、大津市雄琴苗鹿町の高峰遺跡、大津市山上町の部屋ケ谷遺跡、彦根市の福満遺跡
	・入江遺跡、長浜市の大辰巳遺跡などがあるが、大中の湖南遺跡は安土町と能登川町にまたがる地域で、弥生時代の水田跡
	・住居跡としては、静岡県の登呂よりかなり古いと推測されている。琵琶湖湖岸遺跡は多くが水中に没していると考えられ、
	滋賀県では最新の技術を駆使した「水中考古学」が発達している。縄文時代の大規模淡水貝塚として有名な「粟津貝塚」遺
	跡の発掘の様子は、この遺跡の近くにある「びわこ博物館」で、ジオラマやVIDEOで詳しく見ることができる。


(これ:上 が道路の左側。左の隅の方に、下の竪穴式住居の復元がある。)


(右手の木立の後ろが、滋賀県農業大学・農業試験場である。)














	今は干拓されてしまってかってここが湖の底だった面影はみじんもないが、大中湖南遺跡からの出土品は、これもここから
	すぐ近くにある「県立安土城考古博物館」に収蔵・展示されている。多くの弥生時代の農耕社会の出土品から、土師器かま
	ど等まであり、縄文時代より平安時代に及ぶ各時期の遺物が散布していたことがわかる。この博物館には、発掘された出土
	品以外にも、考古学の研究や作業を窓越しに眺めることができたり、当時の土器や貝塚から出たシジミなどを実際に手で触
	って確かめることもできる。






	大中の湖南遺跡においては、遺跡後背の山丘から平地にかけてカシなどの照葉樹、ナラなどの落葉広葉樹を混じえたスギを
	中心とした森林が広がり、湖岸に近い低地にはヤナギやハンノキの林が広がり、湖岸の住居跡のあった乾燥した土地にはヨ
	モギやマメ科の植物が生え、水辺ではガマ、オモダカ、ミズアオイなどの水生植物が、湖の中にはヒシが浮かび、サンショ
	ウモやクンショウモが浮水し、フサモ、クモロなどが水底に見られる、という植生景観を復元できる。






	遺跡から出土している木製品は、鋤(すき)や鍬(くわ)などの農具、網枠や丸木舟などの漁具、弓などの狩猟具、石斧の
	柄などの木工具、鉢などの容器、木偶などの祭祀用具など、実に多種多様にわたっている。これは、静岡県の登呂遺跡を初
	めとする全国の大規模な弥生遺跡で出土する木工製品とほぼ共通しており、まるで弥生時代に木工製品の標準化が行われて
	いたような気すらしてくる。スコップや鍬などは、現代のものと形状はほぼ変わらず、横浜の三殿台遺跡、登呂遺跡、福岡
	の平塚川添遺跡、佐賀の吉野ヶ里などで全く同形状のものが出土しているのである。稲作の伝播の速度は速いが、同時に農
	耕技術、用具も同様の早さで各地に伝わって行ったものと思われる。






明治の頃の地形と大中南遺跡。右の山が「安土山」。






	大中の湖南遺跡には16軒程度の家の存在が想定されている。出土した稲田跡(総面積約16,363坪)から推測される収穫高
	は、奈良時代の等級の低い田からの平均収穫高である、坪当たり1合6勺9撮を設定すれば、村全体で27石6斗5升3合
	4勺と算定され、米だけを主食とした場合、22.1人を養える勘定になる。16軒の家に平均 5人が住んでいたとすれば
	村全体で80人の集落という事になり、米だけで村が生活できていたわけではない事がわかる。アワやヒエ等の今で言う雑
	穀類や、ドングリ、椎などの木の実、魚・動物の肉、さらには畑作による野菜類などを総合的に摂取していたのである。


	この遺跡で発見された貝塚からセタシジミ・カワニナ・コイなどが出土し、潜水して漁獲にあたっていた事を示す鹿角製の
	銛、網を使っていた事を示す石錘、土錘なども出土している。現在でも使われる梁(やな)やウケなどの原型も出土してい
	て、これらは既に弥生時代に漁法として定着していた事が窺える。
	弓や石鏃、銅鏃や石槍なども出土しているが、これらは戦闘用ではなく狩猟用である事は明白で、イノシシ、ニホンジカの
	他に、ウサギ、キツネ、タヌキ、ニホンザルなどの骨も出土しており、あらゆる獣類を食料にしていた事がわかる。スッポ
	ンは既に縄文時代から食料にされていたようである。
	木の実は、トチ、コナラ、オニグルミ、ミズキ、クリ、ヒシ、オニバス、ヒョウタンなどが縄文時代から食料にされており、
	他にもオオムギ、コムギ、ヒエなどの穀物類やブドウ、カキ、モモ、ゴボウ、ウリ、アズキなどを栽培していた可能性が推
	測されているが、その実態がハッキリしているのはイネのみである。




	日本における最大の湖、琵琶湖。ここには現在80ケ所ぐらいの湖底遺跡が確認されており、その時代区分も約1万年くら
	い前の縄文時代早期から、約400年前の安土・桃山時代にまで及んでいる。琵琶湖の湖底から遺物が出現(水の中だから
	出土という表現はなんかおかしいので。)することは、湖岸の漁師は早くから知っていたし、江戸時代の文献にも記録され
	ている。


− 滋賀県における縄文・弥生・古墳時代の遺跡 −
時 代
西 暦
出 来 事
縄文時代 早期 BC6500頃 山貝塚(大津市)、粟津(あわづ)湖底遺跡(大津市)、赤野井湾(あかのいわん)遺跡(守山市)、葛籠尾(つづらお)湖底遺跡(湖北町)などで押型文字器を使用し、貝塚などを残す。
     中期 BC2500頃 醍醐(だいご)遺跡(浅井町)などで住居跡などを残す。
     後期 BC1400頃 穴太(あのう)遺跡(大津市)など各地に大集落をいとなみ、元水茎(もとすいけい)遺跡(近江八幡市)の丸木舟などで琵琶湖を自由に横断。
     晩期 BC800頃 北仰西海道(きとげにしかいどう)遺跡(今津町)や滋賀里遺跡(大津市)などに大集団墓地をいとなみ、長命寺(ちょうめいじ)湖底遺跡(近江八幡市)の丸木舟も活躍。
弥生時代 早期 BC3世紀頃 川崎(かわさき)遺跡(長浜市)など湖岸や低湿地に稲作を主体とした農耕集落が出現。
     中期 1世紀頃 近江でも木製農耕具を多用する農耕集落がいとなまれ、大中ノ湖南遺跡(安土町)などでは環濠集落が成立。
     晩期 3世紀前半頃 下鈎(しもまがり)遺跡(栗東町)、針江川北遺跡(新旭町)などでは、地域首長の居館が出現し、彼らを葬る前方後円型・前方後方型周溝墓が五村(ごむら)遺跡(虎姫町)や鴨田(かもた)遺跡(長浜市)、法勝寺遺跡(近江町)などでいとなまれる。野洲町の大岩山遺跡からは24個の銅鐸が発見される。
古墳時代 前期 4世紀頃 新秩序による古墳社会が始まり、県下最古といわれる皇子山(おうじやま)古墳(大津市)や瓢箪山(ひょうたんやま)古墳(安土町)などが築かれる。
     中期 5世紀頃 鉄の需要が飛躍的に増大し、地域首長もその保有力を強めた。鉄製武具・武器を大量に埋葬する新開(しんかい)古墳(栗東町)などが築かれた。
     後期 5世紀末頃〜 大津北郊に渡来系集団による横穴式石室の造墓がはじまり、大群集墳を形成。滋賀里百穴石室(大津市)などが有名。平野部には渡来人集落もいとなまれる。鴨稲荷山(かもいなりやま)古墳(高島町)など大型石室や石棺を伴う首長墓が目立つ。
(滋賀県ホームページより)



ここに掲げたデジカメ以外の写真・資料は、滋賀県立安土城考古博物館発行の「常設展示解説 平成7年3月31日 第3刷発行」から転載した。


邪馬台国大研究・ホームページ/ 遺跡めぐり / 大中南遺跡