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房総風土記の丘(竜角寺古墳群) 2001.2.24 千葉県印旛郡栄町・成田市


	東京出張の折、帰りに「房総風土記の丘」を見に行った。JR成田線で東京駅から2時間弱。「安食(あじき)駅」で降り
	てタクシーで10分ほどだ。 Meetingが終わって、吉祥寺に入院中の同僚を見舞い、それから大慌てで駆けつけたので、資料
	館が閉まる30分ほど前に風土記の丘に着いた。おかげで有名な「岩屋古墳」や「 101号墳」や「龍角寺古代寺院跡」も見学
	できなかった。しかし、成田発伊丹行きの便を予約しておいて助かった。何とかギリギリ離陸に間に合った。こんどはもっ
	と余裕を持って訪問する事にしよう。




下左の道をタクシーは入ってきて資料館の前で止まる。下右のさらに右手に資料館が建っている。




	■竜角寺古墳群と龍角寺寺院跡

	竜角寺古墳群と龍角寺寺院跡は、印旛沼と利根川に挟まれた海抜約 30mの台地上につくられており、その所在地は千葉県印
	旛郡栄町と成田市に属している。両者ともに江戸時代から知られていたが、昭和の初めに、龍角寺本尊の薬師如来座像が白
	鳳仏であることがわかり、龍角寺が関東でも最古の古代寺院であることが判明した。それ以来、竜角寺古墳群、特に全国屈
	指の大方墳で龍角寺寺院跡とほぼ同時期に作られたと思われる岩屋古墳との関係が注目を浴びることになった。
	近畿を中心に西日本の古墳を多く見てきた者としては、どうしてこの房総の地にこのような古代の息吹が多く残っているの
	か、理解に苦しむ。夥しい数はまさしく古墳群である。

 

 


	竜角寺古墳群と龍角寺寺院跡については多くの謎がある。

	@.古墳群形成開始〜展開〜終焉〜寺院成立、の経緯と年代は?
	A.畿内の古墳をもしのぐ大方墳を構築し、関東でもごく早い時期に寺院を建立できた豪族とは、いかなる集団であったのか?
	B.北総のこの地に、こういう勢力がなぜ出現したのか? また、近隣古墳群とはどのような関係にあったのか?
	C.こうした古墳や寺院を作るために動員された人々はどこに住み、どんな暮らしをしていたのか?

 

 


	これらの問題解決のため、その後各大学による発掘調査や、昭和51年の風土記の丘開館後には分布調査や測量調査、発掘調
	査が実施されたが、いずれも基礎的な調査が主体であったので、十分な成果を得るには至らなかった。ところが近年、風土
	記の丘周辺の開発が著しく、ニュータウン、道路、ゴルフ場等の造成にともなって埋蔵文化財の発掘調査も幾つかおこなわ
	れ、この地域の古代役所跡と思われる遺跡も発見され、古墳の後に続いて作られた火葬墓や、集落の跡、生産遺跡などが見
	つかった。また、新たに横穴墓なども発見され、今後の研究にあらたな謎を投げかけている。これらは、この地方の古代文
	化を解明する上で大きな手がかりとなるものであるが、その研究は今まさに、緒に着いたばかりであると言えよう。(ほん
	とに緒に着いているのだろうか?)

 








	■竜角寺古墳群


	竜角寺古墳群では、岩屋古墳や龍角寺寺院跡などから「古墳から古代寺院へ」の変遷が観察できる。また千葉県内有数の大
	規模古墳群で、しかも全国的に見ても大変保存状態が良好なのが特徴である。




	成田の方角を見たら既にきれいな夕焼けが迫ってきていた。古代房総人たちもここからこうして沈む夕日を眺めたことだろ
	う。一体どこから来た人々がここに葬られているのだろうか? 近畿を追われてここにたどり着いた渡来人の一群なのか。
	それとも、近畿とは全く一戦を交えなかった異なる渡来人達が、新天地を求めてこの房総を定住の地としたのか。やがて国
	分寺となるほどの古代寺院を建設した技術を持った人々の、出生の地はどこなのだろうか?

	資料館の前から龍角寺寺院跡へ続く道は「白鳳道」と名付けられていて、さわやかな小道が続いている。小道の両側には勿
	論多くの古墳がある。

 




	■古墳群の規模と分布状況

	竜角寺古墳群の分布調査は過去数回行われたが、昭和54〜56年度にかけて風土記の丘によって古墳群全体の測量調査が実施
	され、古墳の規模・形状・位置関係が明確になり、各古墳に一連番号も付与された。この測量による古墳の総数は 111基だ
	ったが、その後の開発に伴う発掘で新たに2基発見され、113基となった。
	竜角寺古墳群は全体としては良好に保存されているが、幾つかは既に崩壊しているものもあるようだ。このような古墳は周
	構しか残っておらず、発掘しないと発見できないので、今後古墳の総数は増えていく可能性がある。
	113基の古墳を形状で分類すると、前方後円墳 37、円墳70、方墳6となる。このうち6基の方墳が東の端に集まって分布して
	いるのが特徴である。またこれらの古墳は、まとまり具合だとか方向とかによって幾つかのグループに区分でき、異なる別
	々の集団がまとまって埋葬されたもののようである。





 



	■調査された古墳

	総数113基の古墳のうち、何らかの調査が行われたのは16基で、さらにこのうち古墳全体に及ぶ調査が行われたのは6基にす
	ぎない。このことは、古墳群全体の研究にとっては大きな支障となっている。また更に、調査された古墳のうち、2号、108
	号、112号、113号の4基は、調査後既に消滅している。113基のうち、風土記の丘が管理しているのは岩屋古墳も含めて78基
	となっている。

竜角寺古墳群調査の歴史(平成10年現在)


 

 



	■古墳群の年代

	竜角寺古墳群がつくられた時期は、一般には古墳時代後期(5世紀末〜7世紀)と考えられているが、前述の通り発掘された
	古墳が少ないため正確なところは不明である。発掘済の古墳で、副葬品などからその年代がわかっているものは次のとおり。

	24号(前方後円墳)・・・・・6世紀末〜7世紀初め   65号(円墳)・・・・・6世紀後半
	101号(前方後円墳)・・・・・6世紀前半       108号(方墳)・・・・・7世紀

	下は、白鳳道を抜けてバス停へ行く道の、車道の際にあった75号憤。こんもりとした土饅頭で、あぁ掘ってみたいなぁと思
	った。

 


	帰りは下の道標側のバス停からバスに乗った。安食駅まで15分ほどだ。1時間に2,3便くらいしかない。資料館で時間を聞い
	てから行った方が良い。白鳳道を5分ほど歩く。

 

下左の道を歩いていくと、龍角寺寺院跡へ行く。残念だったがここも次回につないで、房総半島よさようならだ。

 




	下左は今回時間がなくて見に行けなかった、復元された 101号憤である。風土記の丘の一番外れの北側にある。訪問は又の
	機会だ。今回は成田から伊丹へANAに乗った。ここから国内線に乗るのは初めてだが、昔ながらにバスで運ばれてタラッ
	プを登ったのには驚いた。

 


	このHPにおける解説は、千葉県立房総風土記の丘資料館発行の「房総風土記の丘ガイドブック」(平成10年8月31日発行)
	に依った。記して感謝の意を表したい。




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