Music: Across the Universe


− Ancient Ruins Tour Special Version −
飛鳥に古代の息吹を求めて
 
奈良県高市郡明日香村 99.9.26 歴史倶楽部第24回例会






	近年飛鳥を訪ねる人は多い。マスコミと地元がタイアップした一大キャンペ−ンで、「飛鳥はこころのふるさと」とか「万
	葉のふるさと、飛鳥を訪ねる旅」、「歴史のロマン」「まほろばの国へ!」といったコピーを目にするようになってもうず
	いぶんになる。歴史ファンのみならず一般観光客も年々増え続け、今や多くの人々がここ飛鳥を訪れている。ここに一体ど
	んなロマンがひそんでいるのだろう。
	京都のような華やかさがあるわけではない。散策路にうまいものを食べさせる料亭・割烹の類があるわけでもない。むしろ
	そういう類は殆ど無い。弁当を持ってこなければ、昼飯を調達するのにも苦労する。大寺院や金襴絢華な建造物は一つもな
	く、ただ苔むした礎石や石造物が点在しているのみである。それなのに、なぜ人々は飛鳥を目指して都会からやってくるの
	か?








高松塚古墳


	飛鳥を一躍有名にし、今日の古代史ブームのきっかけをつくったとも言えるのがこの高松塚古墳だ。地元の人が作物貯蔵用
	にと掘った穴が壁画発掘の端緒となった。穴に凝灰岩の切石が発見され、昭和47年3月から橿原考古学研究所の手によっ
	て調査が開始され、我が国屈指の壁画をもつ横穴式古墳である事が確認された。四神(青龍(東)、白虎(西)、朱雀(南)、
	玄武(北))、日像、月像、男子群像、女子群像などが描かれた石室内部の壁画は、どの像も筆致で細部まで細かく描写さ
	れていた。男子群像、女子群像に描かれた衣装、装具などは当時の生活・風俗を表したものとして資料価値も高く、その後
	壁画は国宝の指定を受けた。後にキトラ古墳で有名になる星宿図(星座)も天井に描かれていた。






 

壁画は原寸・原色で再現され、前田青邨、平山郁夫、守屋多々志等、30名余の画家や科学者達が2年半を費やして完成した。



発見当時の石槨を忠実に復元してある。当時の盗掘穴から内壁の壁画状況を眺める事が出来る。

 












	石槨内から出土したものは、海獣葡萄鏡、太刀の外装具、玉・ガラス類、棺留め具等、いずれも美術工芸上貴重な資料であ
	る。太刀が金具のみなのは、おそらく盗掘にあって刀は持ち去られたものと考えられる。出土品は、国立奈良文化財研究所
	の飛鳥資料館に展示されており、ここにはレプリカが置いてある。資料館は、ここから歩いて30分ほどの明日香村北東部に
	ある。







亀石

 







橘寺



橘寺は、聖徳太子の産まれた所とされている。当時ここには「橘の宮」という欽明天皇の別宮があり、 太子は、欽明天皇の第四子、橘豊日命(たちばなのとよひのみこと:後31代用明天皇)と、 穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのみめみこ)との間に産まれ、572年にこの地で生をうけた。 「和」を以て貴しとなす、とか「十七条の憲法」とか、その活躍ぶりにより、聖徳太子を巡る話題は 豊富にある。本当はそんな立派な人ではなく権謀術策の人であったとか、実在を疑う説まである。









人の心の善悪二相を表したと言われる二面石。太子殿左方にある。

 

往生院の華天井の絵画(下左)。著名な画家達の手によるもの。境内一面に咲き誇る芙蓉の花(下右)。
東江氏との会話。「ここの芙蓉は咲き誇っとるけど、もう一方の芙蓉はなぁ。」「ほんまにねぇ。」

 







石舞台古墳

 

 

ここの石は全くでかい。まさしく巨石である。今更ながらに「一体どうやって」と思ってしまう。

 


	古墳の編年研究によれば、日本で古墳が築造されたのは4世紀頃から7世紀頃までの300〜400年に及ぶ期間のようである。
	これだけの期間があれば、古墳自体もその製造目的や築造方法、埋葬品など、初期と終末期とではずいぶんと違ったものに
	なっていった違いない。
	事実、木棺や石棺を直接地中に埋葬し盛り土するような方法から、縦穴式石棺墓、横穴式石室、横口式石槨という墓自体の
	形式の変移や、埋葬品の内容などが初期と終末期では異なっている。一般に古墳時代と呼ばれる時代を、どう区分するかに
	ついては学者間で統一されていない。前期と後期、に分ける人もいれば、前期・中期・後期とする人、さらには発生期・前
	期・中期・後期・終末期というように分ける人など千差万別である。他にも7時期、8時期に分ける説もあり、こうなると
	単なるアマチュアである我々古代史ファンには、古墳の編年研究などあまり関わりたくない分野のようにも思えてくる。
	ともあれ、この石舞台古墳は、その使用されている巨石の大きさ、石室の大きさにおいて日本屈指の古墳である事は間違い
	ない。大体6世紀頃の築造ではないかという意見が多く、一般には「蘇我馬子の墓」として流布されているようである。
	しかし既に副葬品もなく、表土も洗い流されて残っておらず、実の所誰の墓だったのかは永遠の謎である。

 

新会員、清(せい)さん。変わった苗字だ。若い女性で歴史に興味があるとは嬉しい。
(歴史好きは)「友達にもあまりいません。」との事。ともあれ Welcome !









岡寺

 

 





「飛鳥京跡苑池遺構」発掘現場のその後




	このHPでも紹介した「飛鳥京跡苑池遺構」跡が今は草ぼうぼうだ。8月の説明会時、埋め戻すとは言っていたが、こんな
	にものの見事に草だらけとは。今度我々の前に出現するのは一体いつになるのだろう。考えてみれば、全国あちこちでこう
	やって発掘された遺跡が埋め戻されているのである。発掘は現在1年間に1万件を越えるそうだからとても全部を見て廻る
	訳にはいかないが、出来る限りこの目でみておきたいものだ。




飛鳥寺

 



 

下左が、蘇我入鹿の首塚と伝えられる石塔。









伝飛鳥浄御原宮跡




	飛鳥時代をいつからいつまでと決める事は非常に難しい問題である。仮に「飛鳥地方に都があった時代」と規定しても、そ
	の都の跡はまだはっきりと確定していない。板蓋(いたぶき)の宮にしても浄御原宮(きよみがはらぐう)跡にしても現状
	では全て「伝」である。つまり伝承なのだ。そうだろうと想定しているだけなのである。藤原宮(ふじわらぐう)はようや
	く全貌が明らかになって、想像以上に大きな都だった事が明らかになったが、ここも言ってしまえば飛鳥地方である。
	ともあれ、およそ6世紀後半から7世紀の終わり頃までの約100年間を飛鳥時代と呼んでいるようである。(学者によっ
	ては異論もある。)

	秦(はた)氏と並ぶ勢力で歴史の古い渡来一族は東漢(やまとのあや)氏である。百済や高句麗から渡来したと考えられ、
	本拠地をこの飛鳥の地(現奈良県高市郡明日香村)に定めている。「続日本紀」によれば、8世紀の高市郡の人口の実に8
	〜9割が漢氏一族だと記されている。
	ちなみに帰化人の最大勢力であった秦氏は、4世紀末〜5世紀の頃、新羅や加羅から渡来したとされ、政治権力がまだ飛鳥
	にあったころ早くも京都盆地の開拓に乗り出し、京都から近江一帯に勢力圏を広げた。京都映画村で有名な「太秦」(うず
	まさ)などは典型的な秦氏の居所である。「日本書紀」によれば、欽明天皇の時代全国の秦氏が召し集められたところ、
	「秦人(はたびと)の戸の数、総(す)べて七千五十三戸」だった。
	さらに言えば、奈良盆地から大和川沿いに西へ下ると河内平野にいたるが、ここも又古くからの渡来人の土地である。中心
	勢力は文氏(ふみうじ)で、朝鮮半島からの渡来であることは確かだが出自は定かでない。一族は、南河内の古市郡あたり
	を拠点にしていた。
	又、白村江(はくすきえ)の戦いで倭が唐・新羅の連合軍に大敗した後、百済からの大量の亡命者達が近江の神前(かんざ
	き)郡や蒲生(がもう)郡に集団で入植した。「日本書紀」には人数まで記録されている。ここらが、縄文、弥生から千年
	以上に渡って行われてきた「渡来」のピークだろうと思われる。

	早い時期、北九州や山陰に渡ってきた渡来者たちは、都を近畿に定めてからは同胞や末裔をどんどん近畿に呼び寄せた。
	そして、たちまちにしてこの国の一大勢力となり、やがて他の渡来族或いは縄文人と融和した他の弥生人を征服し大和朝廷
	を樹立した。そして、飛鳥宮、藤原宮、難波宮、平城京、長岡京、平安京と遷都しながら今日に至っている。




酒船石

 



 





鬼のまないた・雪隠

 

 










近鉄特急で Return to Osaka



	急行で帰る予定の所、誰かが「特急で帰ろうや」と言い出して特急券をかうはめになった。1,000円もしない運賃に500円の
	特急券! おじさん達はRichだこと。関西の私鉄で特急券が必要なのは近鉄と南海のリピート(関西空港行きの特急)だけ。
	まぁ、楽と言えば楽だけど。


邪馬台国大研究・ホームページ /遺跡巡り特別VERSION/ 明日香村を訪ねて