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飛鳥京第153次調査・現地説明会 −天武天皇・正殿跡− 2005.3.12(土)

現地説明会:12日午前10時〜午後3時。近鉄橿原神宮前駅中央口から随時、臨時バスが運行。















	奈良県明日香村岡の飛鳥京跡で3つの掘立柱建物と石敷広場、石組溝、池状遺構などが発見された。
	「奈良・飛鳥京跡、非対称の飛鳥の宮殿」。この発掘調査の現地説明会には昨年も参加した。天武、持統両天皇の
	飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)の正殿ではないかと騒がれたが、その見方には異論もあるようだ。しか
	し、古い段階での宮殿には変わりなく、後の時代の宮殿に至る過渡期の宮殿として注目される。
	



	「橿原神宮前」駅から臨時の「説明会行き」バスが出ていた。石舞台までは「蘇我馬子宅(島庄遺跡)跡」の説明
	会で、岡本まではこの説明会場である。どっちでも、隣の説明会場へは歩いて5,6分なので、それなら近めの岡
	本で降りた方が30円やすい。

 

田んぼのあぜ道を歩いていくと説明会場が見えてくる。昨年もここへきたのだ。そう言えば同じ場所だ。

 




	県立橿原考古学研究所が8日発表したところによれば、建物配置は非対称で、東西軸を中心にした飛鳥流とも呼べ
	る様式で、中国式との違いがくっきりしている。建物の南中央に出入り口が設けられない構造など、中国様式を採
	り入れたほぼ同時期の前期難波宮(大阪市中央区)や、後の平城宮などとは違う特異性が鮮明となり、その建築意
	図を巡ってはまた新たな謎も浮かび上がってきた。

	正殿は東西23・5メートル、南北12・4メートルと確定。飛鳥時代で最大級の規模で、柱の本数と配置から南
	北に庇(ひさし)が付く切り妻造り。北と南の各2か所に階段を設け、床下は黄土を盛って整えてあった。正殿跡
	は、内郭の主軸線上に位置し床束(ゆかつか)があるので高床建物であることがわかる。掘立柱跡が南北に回り込
	んでいないので、南と北に庇(ひさし)をもつ切妻(きりづま)建物であることもわかる。
	通常柱間の数は奇数なのに、ここでは東西8間という偶数であることは疑問として残る。南北両面の両端近くにそ
	れぞれ2カ所昇り段があり、柱間が奇数で中央に階段があるのが通常だが、わざわざ昇り段を両端近くに持ってき
	ている。昇り段の手前は溝石が低くなっているところから、石組溝に板などの橋をかけていたものと考えられる。 
	正殿跡の東側には南北2間(約6.2m)、東西2間(約6m)の渡り廊下があって別棟につながっていた。
	別棟は柱穴を2つ検出しただけだが、これまでの調査で南北4間(約 12.4m)、東西2間(約6m)以上はある建
	物であったと考えられ、柱筋が正殿跡に揃えているところから、計画的に建てられた事がわかる。

	正殿跡の西側には池状遺構と縁側のある細長い建物(南北1間、東西3間以上、柱間隔は東西は約3m、南北は約3.1
	m)があった。縁側があったことから池を眺める建物か、別の建物への渡り廊下であったと考えられる。池状遺構
	は小石を丁寧に敷き詰めた曲池で、縁側から眺めることができたらしい。

	外側四隅には、幡(ばん)(旗)を飾る柱の穴もあった。脇殿は南北12・4メートル、東西6メートルの高床式。
	渡り廊下は幅6.2メートル、長さ5・4メートル。細長い廊下状建物は長さ9メートル幅3メートルで、昨年3
	月に出土した池を北から鑑賞していたとみられる。



上の写真の盛り土の下、あそこが昨年は発掘されていた場所である。
あの下に石組広場があった。今回もその続きが出土している。



上下2枚の写真は、その盛り土の上から(南から)発掘現場全体をみたもの。



上をクリックしてもらうと、東側から見た、さらに全体の写真が見れます。


	後の藤原宮や平城宮は中国様式を取り入れて対称で、この宮殿より新しい様式を採用している。これに比べてこの
	宮殿は、「正殿」とみられる大型高床式建物跡に、東隣に渡り廊下を付けた「脇殿」、西隣に屋根付きの廊下か、
	吹き抜けとみられる建物がある非対称の構造になっている。正殿の建物を渡り廊下でつなぐ構造は、平安宮の内裏
	で天皇が政務を執った紫宸殿(ししんでん)や、生活の場だった仁寿(じじゅう)殿にもみられ、平安中期、貴族
	の邸宅形式として定着する。同研究所は、今回の建物はこれらの原点とみている。寝殿造りの原型かもしれないの
	である。








	幡竿遺構。
	建物の四隅には直径約60cmの幡竿遺構が発見された。平城宮の大極殿前には旗を掲げた柱があったことがわかっ
	ており、幡(ばん:旗)を飾ったと考えられる。続日本紀には藤原京で玄武や白虎などの「四神旗」を立てた記述
	があり、「元日朝賀の儀」というような宮廷儀式が既に始まっていたのかもしれない。或いは、何か他の目的の為
	に開けられた坑かも知れない可能性も残る。



 







発掘現場は、昨年掘った所にぴったり隣接した区域で、
昨年の石組み遺構の残りの部分が見えているし、池状遺構も続いている。






	飛鳥浄御原宮(672〜694年)の中心施設の全容がわかり、完成に至る過渡期の宮殿の姿が初めて明らかとな
	った。東西8間(約23.5m)、南北4間(12.4m)の大型の掘立柱建物は内郭の主軸線上に位置することや、その
	南に広がる大規模な石敷広場を考えると飛鳥浄御原宮の正殿跡の可能性が強いとされるが、一方、ここを「正殿」
	とする見方には異論もあり、今後、論議を呼びそうだ。




	天武、持統両天皇は中国の制度や文化を盛んに採り入れ、律令国家体制を整えた。八色(やくさ)の姓(かばね)
	の制定、豪族所有民の廃止、地方の国境の確定、日本初の鋳造貨幣の発行など。当然、宮殿と都の建設いも傾注し
	たはずである。だが、宮殿として異例の非対称構造について専門家達の意見は、さまざまだ。各新聞記事からそれ
	らの意見を拾ってみると、




	井上満郎・京都産業大教授(日本古代史)の話:
	「廊下でつなぐ構造は平城宮などには見られず、意外な発見。平安宮までの過程で、試行錯誤していたことをうか
	がわせる貴重な資料だ」

	木下正史・東京学芸大教授(考古学):
	「切り妻造りは神社建築も想像させる。天皇が伝統的な神事を行った建物で、中国的な左右対称を意識しなかった
	のではないか」

	正殿南側には9本の柱が等間隔に立ち、中国様式にみられる天皇のための中央の出入り口がなかった。さらに、南
	側は、昨年3月に出土した広大な石敷き広場で、その外側の三重の板塀にも正殿に至る正門が設けられておらず、
	この特異性について、

	小沢毅・奈良文化財研究所主任研究官:
	「南中央に出入り口がない建物を正殿とするには抵抗を感じる」

	と首をひねる。考えられるのは、東西からの出入り。同じ7世紀、飛鳥浄御原宮の前に、大阪湾岸に営まれた前期
	難波宮や平城宮、平安宮がいずれも南北を軸にした中国式の宮殿。これに対し、今回の正殿は、東西方向の太陽の
	運行など、伝統的な思想に基づいて設計された可能性をうかがわせる。切り妻造りについても、

	網干善教・関西大名誉教授(考古学)は、
	「正殿といえば、復元中の平城宮大極殿のように東西南北の4面に庇(ひさし)が伸びる重厚な建物を思い浮かべ
	るが……」 と疑問を投げかける。

	こうした構造について、飛鳥浄御原宮が、斉明天皇の後飛鳥岡本宮(7世紀中ごろ)を増改築したとされることか
	ら、伝統的な建物様式が残ったとの見方もある。

	県立橿原考古学研究所の林部均・主任研究員は、
	「今回の正殿は、残されていた後飛鳥岡本宮の再利用では」と推測する。	
	



	壬申の乱(672年)に勝利した、大海人皇子(おおあまのみこ)は「神にしませば」と謡われ、絶対的な権力を
	手にいれた。翌年、皇子は飛鳥浄御原宮で即位し、現人神「天武天皇」となって、あらゆる権力を皇室に集中させ
	る。兄天智天皇がやろうとした大王(おおきみ)政治の実現に邁進するのである。

	【日本書紀・天武十年(681)の春正月の条】
	・・・丁丑(ひのとのうしのひ)(7日)に、天皇、向小殿(むかひのこあんどの)に御(おはしま)して宴(と
	よのあかり)したまふ。是の日に、親王(みこたち)・諸王(まへつきみたち)を内安殿(うちのあんどの)に引
	入(めしい)る。諸臣(まへつきみたち)、皆外安殿(とのあんどの)に侍(はべ)り。共に置酒(おほみきをめ)
	して樂(うたまひ)を賜(たま)ふ。 



上は昨年発掘時の石組広場の写真。びっしりとこぶし大の石が敷き詰められている。



下の写真は、クリックして貰うと上空から見た発掘現場全体が見れます。






1年後・・・2006年03月07日

	
	飛鳥京跡に新たな大型建物跡 もう一つの正殿か 2006年03月07日23時20分 asahi.com

			
	新たに見つかった「北の正殿」とされる大型建物跡(上が北)。区画の上下にある白っぽい部分が石敷きで、石敷
	きの間にあるくぼんだ部分が柱穴=奈良県明日香村で、本社ヘリから


	 奈良県明日香村の飛鳥京跡で、天武天皇の宮殿「飛鳥浄御原宮(きよみはらのみや)」(672〜694年)の
	正殿(せいでん)とみられる飛鳥時代最大級の建物跡の北隣から、同規模の建物跡が新たに見つかった。県立橿原
	考古学研究所が7日、発表した。同研究所は今回の建物を「北の正殿」と呼び、天皇の私的空間だったとみている。
	正殿が二つ並ぶ珍しい形式と判明し、これで日本書紀が伝える浄御原宮の主な建物跡をすべて確認。初めて天皇と
	称されたという天武天皇の皇居の全容が明らかになった。


	 
	     飛鳥浄御原宮の建物配置図         飛鳥京跡の地図



	 内郭(ないかく)と呼ばれる宮の中枢(南北197メートル、東西158メートル)のうち約700平方メート
	ルを調査したところ、柱穴26本(最大で直径約1.5メートル)や石敷きなどが見つかり、掘っ立て柱建物跡の
	一部と判断。04年度調査で全容が判明した南側27メートルにある正殿(南の正殿)と並行に同じ構造で建てら
	れているため、北の正殿も南北約12メートル、東西約24メートルで、東西に渡り廊下でつながった小規模な別
	棟があったとみている。 
	 南の正殿と同様に、柱の太さや位置から屋根は切り妻造りと推定。建物の四隅に旗を掲げたとみられる柱の跡
	(直径約60センチ)も、北西と南西の角で見つかった。二つの正殿の間は石敷き広場だったとみられる。日本書
	紀は「天皇が皇子らを内安殿(うちのあんどの)に招いた。臣下は外安殿(とのあんどの)で酒を振る舞われ舞楽
	を楽しんだ」(681年)、「大極殿(だいごくでん)の前で宴を催した」(683年)、「天皇は大安殿(おお
	あんどの)におでましになり」(686年)と、主な建物について伝えている。 
	 同研究所の林部均(はやしべひとし)・主任研究員は、北の正殿が「内安殿」(天皇の住居)▽南の正殿が「大
	安殿」(公的施設)▽79年度調査で見つかった前殿(ぜんでん)が「外安殿」(儀式の施設)にあたると推定。
	77年度調査では内郭の南東約200メートルで、大安殿の機能を移した「大極殿」とみられる建物跡が見つかっ
	ている。 

	 現地説明会は11日午前10時〜午後3時(雨天決行)。明日香村役場の北約120メートル。 


	
	並び立つ巨大建物跡発見-飛鳥浄御原宮 (2006.3.8 奈良新聞) 

	
	新たに見つかった正殿とみられる大型建物跡=7日、明日香村岡

	 明日香村岡で確認された飛鳥浄御原宮(きよみはらのみや)の正殿とみられる大型建物跡(7世紀後半)の北側
	で、規模や構造が全く同じ建物跡が新たに見つかり、県立橿原考古学研究所が7日、発表した。建造時期も同じと
	みられる。天武天皇のプライベート空間とされる正殿は南北で対になるよう配置されていたことになり、同研究所
	は「都の中枢部の建物配置がこれでほぼ確定した」と評価。古代宮都の研究や律令国家の形成過程などを考える上
	で貴重な資料となる。

	 新たな建物跡は、昨年確認された 3棟からなる左右対称の大型建物跡の北側約22メートルで見つかった。西側半
	分で柱跡(直径約 80センチ)の列や石組み溝を確認。中軸線で折り返すと東西24メートル(八間)、南北12.2メ
	ートル(四間)となり、南北にひさしが張り出す切り妻造りに復元できる。
	 また、建物跡の隅( 2カ所)には抜き取り穴が見つかった。権威を示す旗を立てた幢幡(どうばん)施設があっ
	たとみられる。南側では、南北の塀跡約8メートル分が見つかった。


	
	飛鳥京跡:二つ目の正殿跡見つかる
	 奈良・明日香 毎日新聞 2006年3月7日 20時06分 (最終更新時間 3月7日 20時21分)

	
	北側から見た正殿跡。柱跡の周囲は石敷きで、石組みの溝も確認された
	=奈良県明日香村の飛鳥京跡で、田中雅之写す

	飛鳥時代の宮殿遺構が重なる奈良県明日香村の飛鳥京跡で、斉明朝から天武・持統朝(7世紀後半)にかけての内
	裏に相当する区画(内郭)から、二つ目の正殿跡が見つかった。7日、発表した県立橿原考古学研究所によると、
	約23メートル南で昨年確認された正殿跡とほぼ同規模・同構造で、より天皇の私的な施設としての性格が強いと
	みられるという。律令国家が完成する直前の宮が、二つの正殿が並立する構造だったことが明らかになり、古代天
	皇制の成立とからめて論議を呼びそうだ。

	 昨年11月から、内郭中枢部のうち約700平方メートルを学術調査したところ、南の正殿と同様、直径約80
	センチの太い柱の建物跡が2棟分見つかった。
	 南北方向の奥行きがともに南の正殿と同じく12.2メートルで、柱の間隔も同じ。廊下状の柱跡もあり、全体
	では、東西方向の長さが約24メートルの建物の両側に渡り廊下で別棟がつながる南の正殿と同じ構造、大きさと
	わかった。中央の建物の南北両側にひさしが付き、その下に石組みの溝を設けていることや、周囲に人頭大の石を
	敷き詰め、角に当たる部分に、旗を立てたとみられる柱穴があることも南の正殿と同じだった。一方、南の正殿に
	あった階段の取り付け跡や建物の土台となる基壇状の高まりはなく、地盤そのものも北の正殿の方がやや低かった。
	 二つの正殿の間では、閉鎖空間の役割を果たしたとみられる南北方向の塀が約8メートル分確認された。
	 同研究所は、二つの正殿跡は、柱の並びがそろうことなどから、ともに斉明天皇の後飛鳥岡本宮(656〜67)
	として同時期に建設され、天武・持統天皇の飛鳥浄御原(きよみはらの)宮(672〜94)で再利用された後、
	藤原宮遷都で廃絶したとみている。
	 日本書紀には天武天皇が宴を催した「大安殿(おおあんどの)」や「内安殿(うちのあんどの)」などの記述が
	ある。また、南側の下層から、掘っ立て柱建物跡1棟(東西9メートル以上、南北9メートル以上)が見つかった。
	焼け跡があり、日本書紀に焼失の記録がある舒明天皇の飛鳥岡本宮(630〜36)の遺構とみられる。現地説明
	会は11日午前10時〜午後3時。駐車場はない。【林由紀子、大森顕浩】


	
	天武天皇の正殿もう1棟 「内安殿」か  (03/07 18:41) Sankei web

	
	飛鳥京跡で見つかった大型建物跡(上部)。手前は雨落ち溝がある石敷き=奈良県明日香村  


	 奈良県明日香村の飛鳥京跡で、天武天皇(在位673―686年)が造営した飛鳥浄御原宮(あすかきよみはら
	のみや)の「正殿」とみられる遺構の北で、同規模の大型建物跡が見つかり、奈良県立橿原考古学研究所が7日、
	発表した。南北に2つの正殿が並んだとみられ、同研究所は「南側は儀式などを行う公的な建物。北は日常生活に
	使った私的な場で、日本書紀に出てくる『内安殿』の可能性が高い」としている。

	 周辺は発掘をほぼ終了。後世の内裏に当たる「内郭(ないかく)」は、2つの正殿とやや小ぶりな建物が南北に
	並び、南東の「エビノコ郭」にあった建物を合わせた宮殿構成が確定。同研究所は、書紀で儀式や宴会をしたとす
	る「内安殿」「大安殿」「外安殿」が内郭に北から並び、エビノコ郭の建物が叙位任官を行う大極殿と推定してい
	る。歴代天皇が宮殿を築いた6―7世紀の飛鳥で、主要配置がはっきりしたのは初めて。

	 見つかった建物跡は柱を約3メートル間隔で立てた掘っ立て柱式。西半分の東西12メートル、南北12.2メ
	ートルを確認した。南北にひさしが張り出す高床式で、脇殿と廊下でつながる構造は南の正殿と同じだが基壇や階
	段はなく、やや低かったとみられる。
	 建物隅の外に柱を抜き取った穴があり、南の正殿同様、四隅に「幡(ばん)」と呼ぶ旗を立てたらしい。
	 2つの正殿の間は23メートルで、西端近くに塀の跡があった。同研究所は「塀で遮断し、入る人を限定した石
	敷き広場だったようだ」としている。
	 飛鳥京跡は飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)など3時期の宮殿跡が重なる。上層が斉明天皇の後飛鳥岡本宮
	(のちのあすかおかもとのみや)とそれを部分改築した天武天皇の宮殿とみられ、2004年度までの調査で大安
	殿の可能性がある遺構の全体を確認した。現地説明会は11日午前10時から。




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