2004年3月9日付けの各社新聞に「飛鳥京跡で正殿跡見つかる!」という記事が載った。各記事の見出しだけを取りだ
しても、「天武天皇の住居跡?・書紀の「皇親政治」裏付け」(産経)、「古代の宮廷 宴の跡」(毎日)、「律令
国家築いた正殿・政務の要 池では宴」(読売)、「天武天皇の正殿跡出土・石敷き国造りの意志」(朝日)と、歴
史に詳しい人なら、この見出しだけで大体記事の内容が想像できるようなタイトルがズラリと並ぶ。説明会が3月13
日とあったので、行こうかどうしようか迷っていたら、歴史倶楽部の飲み会で西本さんが「行きましょう」というの
で、有志を募って行くことになった。しかし、実際の参加者は橋本さんと小川さんと私の3人だけだった。松田さん
は京都から連絡をくれたらしいが携帯がマナーモードになっていて連絡取れず。新開さんは奥さんと二人で行くとか
で別行動。肝心の西本さんは家の用事が出来たとかで欠席。全くもう!
しかしこの日はいい陽気で、そのせいか見学者も多かった。朝の内に並んだせいで1時間で見学できた。今まで行っ
た説明会で一番並んだのは第5次藤ノ木古墳説明会、第5次今城塚古墳説明会、鏡33面が出土した直後の黒塚古墳
説明会だ。いずれも2時間以上並び、黒塚古墳の時は雨の中だった。しかも我々が見終わった直後に、あまりの雨の
ため見学会は中止になった。
今日は、同じ明日香村の3ケ所で同時に説明会が開催された。この「正殿跡」と、すぐ側の木簡が出土した「排水溝
遺構」、それに蘇我馬子の住居跡とされる「島庄遺跡」である。排水遺構跡はパスしたが、「島庄遺跡」を見た後、
「酒船石遺跡」も見に行った。斉明天皇の「狂い心」の土木工事とされる「亀石形建造物」(通称亀ちゃん)もきれ
いに復元されていて、本物が、出土した位置に鎮座していた。
この日の係員による説明は、ほぼ新聞記事の内容と同じものだったので、このHPは遺跡写真とそれらの新聞記事で
構成する事にした。記事の要約は専門家にまかせたほうがよい。各新聞社と記事を書いた記者の皆さんに謝意を表わ
したいが、読者の皆さんにとっては、各新聞記事の書き方の比較をするいいチャンスではないかと思う。
例によって新聞各社のヘリが上空を雲霞のごとく飛び回っていた。確か5機ほど飛んでいた。その写真は巻末に。
飛鳥の説明会となると全く見学者が多い。しかし今日は、1時間くらい並んで見れた。ここはオジン・オバンばかり
でなく若い男女やカップルも多い。飛鳥という場所は、何かその名前だけで人々を引きつけるようだ。勿論遺跡も盛
りだくさんで、未だにこういう遺跡が出てくるから楽しいのだけれど、ここが「天下茶屋(てんがちゃや)」とか
「立売堀(いたちぼり)」とかいうような名前だったらこれだけ人々が集まるかどうか。全く、名前で相当得をして
いる。
カウボーイのようなオッサンが盛り土の上に立って、入場させる人数を制限したり、人並みの流れを指示していた。
上左の部分が三重の塀の跡。
産経新聞
毎日新聞
建物の部分に土の色が変わっているところがある。これが柱の跡である。これで建物が建っていたという事がわかる。
読売新聞
手前の広い一画が池だった所。建物は池の一部にせり出して建っていたらしい。
朝日新聞
去っていく見学者を見送る橿研の係員。「あぁ、また次同じ事を喋るんか。はよ終わらんかなぁ。」ご苦労様です。
飛鳥京跡第151次調査 −内郭中枢の調査− 現地説明会資料
2004年3月13日
奈良県立橿原考古学研究所
はじめに
飛鳥京跡は明日香村岡に位置する宮殿遺跡です。1959年からはじまった発掘調査により、大まかに3時期の遺構が
重なつて存在していることがわかりました。下層から T期・U期・V期遺構と呼んでいます。そして、出土した土
器や木簡の年代などからV期は斉明・天智の後飛鳥岡宮(656〜)と天武・持統の飛鳥浄御原宮(672〜694)である
ことがほぼ確定し、T期が舒明の飛鳥岡本宮( 630〜)、U期が皇極の飛鳥板蓋宮(643〜)である可能性がいわれ
ています。
今回の発掘調査は、V期( 後飛鳥岡本宮・飛鳥浄御原宮)の宮中枢の建物配置の解明、ならびに、その下層にある
U期(飛鳥板蓋宮)、T期の構造解明を目的に、平成15年11月から実施しています。調査対象面積は約600uです。
ところで、V期は内郭とエビノコ郭とから構成されます。内郭だけの段階が後飛鳥岡本宮、内郭に エビノコ郭が付
加され外郭が整備されたのが 飛鳥浄御原宮と考えられます。大まかにみて、内郭は内裏、エビノコ郭は大極殿に相
当する 施設と考えられます。研究所では1979〜80年に内郭南門と内郭前殿の調査をしています。今回の調査区はそ
のすぐ北にあたります。
発掘調査の成果
今回の調査では建物と石組溝、石敷広場、池状遺構、塀を検出しました。すべてV期に伴うものと考えられます。
建物は調査区の北東で検出しました。今回の調査では建物の南西部分1/4だけを調査しました。東西4間以上、南
北2間以上の非常に大きな建物です。南には庇をもち、建物の周囲を石敷がめぐります。西に床が張り出していた
形跡(縁)があります。
建物のすぐ南をとおる東西方向の石組溝を雨落溝としています。また、建物の西妻から2間目に階段を取り付けた
痕跡が確認できました。建物は階段の張り出しから推定すると、床の高さが2m前後の高床の建物とすることがで
きます。建物の南正面には、南北約 12mの岩敷広揚がひろがっています。わずかに石が抜き取られたところがある
ほかは、ほぼ完全なかたちで石敷が残っていました。石敷は基本的に人頭大の石を敷きつめたものですが、よくみ
ると、石の目地の通るところや小振りの石を方形に敷きつめたところ、小振りの石を部分的に敷いているところな
どがあります。それぞれ石を敷いたときの単位、改修痕跡である可能性があります。
建物の西では、砂利を丁寧に敷いた池状遺構がみつかりました。南辺を東西の石組溝、東辺を南北の石組溝によっ
て区画されたもので、北西や西に蛇行状にのびる窪みに洲浜のように砂利が敷かれています。また、各所に人頭大
の石を配しています。さらに、北西や西にのびていく可能性があります。建物にみられた西への床の張り出しは、
この池状遺構との関係で理解できるのではないでしょうか。池状遺構は建物とほぼ同時につくられ、建物よりは早
く埋めたてられています。
石敷広場の南辺で、東西方向の塀を3条検出しました。内郭前殿のある南区画を分ける施設とみてよいと思いま
す。北にある建物をより厳重に護るための施設と考えられます。しかし、今回の調査では南区画と北区画をつなぐ
門のような施設は確認することはできませんでした。
今回の調査では、V期(飛鳥板蓋宮)、T期の構造解明も一つの目的でしたが、V期の石敷の残りが良好であっ
たため、十分な調査をすることはできませんでした。しかし、石敷の石が抜かれているところでT期の柱穴を検出
しています。
まとめ
今回の調査では、V期(後飛鳥岡本宮・飛鳥浄御原宮)にあたる巨大な建物とその南にひろがる石敷広場を検出
することができました。建物は南西部分1/4だけを確認したにとどまりますが、仮に内郭の南北の中心軸で折り
返すと、東西8間(約 24m)という巨大な建物となります。すぐ南でみつかっている内郭前殿は東西7間ですから、
それよりも大きいということになります。
建物の正確な南北規模は、来年度の調査を待たねばなりませんが、3間ないしは4間とみるのが妥当です。また、
南に庇をもつことからも、今回検出した建物を内郭北区画にある正殿級の建物とみてほぼまちがいはありません。
また、石敷広場は南北約12mと内郭前殿の前の広場とほぼ同じ規模です。内郭前殿と今回みつかった区画が、計
画的につくられていることがわかります。
石敷広場の南辺では塀を3条検出しました。これも、今回の調査でみつかった建物と石敷広場を厳重に区画するた
めと考えることができます。こういったことから、建物は内郭北区画のなかでも、きわめて神聖かつ重要なもの、
すなわち、天皇(大王)にかかわる正殿である可能性が高いと考えられます。さらに、建物の西から砂利を敷いた
池状遺構がみつかりました。このような池状遺構は吉野離宮といわれている宮滝遺跡でみつかっていますが、宮の
正殿級の建物に隣接してみつかるのははじめてです。
州浜状に砂利を敷いているなど、これまでの飛鳥時代の庭園としては類例のないものです。それが、また、天皇
(大王)の私的空間の正殿に隣接してみつかったことから、天皇(大王)の私的空間の形態や当時の王権の形態を
考えるうえでも重要な問題を提起するものと思われます。
今回の調査は、建物の規模の確定や池状遺構の性格の究明などになお課題が残りましたが、今後の調査の進展に
大きな期待がもてる調査となりました。なお、この調査は、飛鳥正宮の学術調査事業にもとづいて実施したもので
す。
(林部均・南部裕樹・北中恭裕)
上記をクリックして頂ければ、当日の現地説明会資料−写真−が見れます。
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