1999年 6月15日の朝日新聞は、奈良県明日香村で発掘された、飛鳥宮の付随施設としての苑池(日本庭園)遺構の記事を第一面に 載せている。聞けば他の新聞も大きな扱いでこの記事を掲載していたそうだ。 奈良県立橿原考古学研究所が14日に発表した内容として、天武天皇(在位 673〜686年)が即位した飛鳥京(飛鳥浄御原宮:あすか きよみはらのみや)の宮廷庭園である可能性が極めて高いと報じている。 橿原考古学研究所では、19日(土)20日(日)の2日間、現地で説明会を開催した。19日は関西地方は雨だったため、また(黒塚 古墳のときのように)説明会は中止だろうと思い行かなかったが、夕方のTVのニュースによれば、説明会は雨の中を行われ、約 2600人の熱心な歴史ファンが参加したという事であった。これは、翌日20日の日曜日に行われた説明会の模様を伝えるレポートで ある。翌日の新聞によればこの日は10,000人が参加した、とあった。
【同日朝日新聞の記事から一部を抜粋:原文のまま】 園地跡は飛鳥京跡の北西約 100bの空き地で見つかり、天武朝時代の土器片が出土した。発掘された分の池の広さは約千平方b。 人の頭大の石を三段に積んだ高さ80aの石垣で護岸され、水深は推定約60a。池の底の大部分には、こぶし大の平石が敷き詰めら れていた。 北端は池へU字形に張り出していた。護岸の石の積み方がほかと異なることなどから、中島の一部の可能性が高い。池の中央部分 には、南北約 6b、東西約11b、高さ約60aのだ円形に石を積み上げた小島も見つかった。南西端では、岸に沿った柱穴跡(直径 21a)が約2.5b間隔で6つあった。柱の上に板をわたした涼み床が池へ突きだしていたとみられる。池の南岸から約5bの池の中 では、高さ約1.5b、下部の幅約 70a、上部の幅約1bの石が出土した。直径約9aの穴が3方向に開いており、流水装置と見られる。 近くの飛鳥川の水を引いていったんためた水槽らしい石も見つかった。(後略)
説明は、現在発掘された遺跡が池全体の一部と思われる事、船を浮かべて遊んでいたらしいこと、など新聞に書いてあるような事 しか話してくれなかった。5,6分で終わり「・・・以上簡単ではありますが、説明を終わります。」と説明員が述べた後、どこかのお っさんは「なんや、ほんまに簡単やな。」とボヤいていた。説明会と言うからには、ほんと、もっと説明してほしかった。
今回発掘されたこの池の跡は池全体の一部と推定され、全体は相当な広がりを持っていると思われる。新聞記事によれば、橿原考 古学研究所は「全体を発掘した上で、史跡公園のような形で整備したい。」とのことで、今月中にもこの発掘現場はすべて埋め戻 される予定である。
飛鳥京跡苑池遺構 −飛鳥京跡第140次調査− 現地説明会資料 (1999年6月) -------------------------------------------------------------------------------- T はじめに 調査地は、岡集落の北西の水田中にあり、飛鳥川右岸の低位段丘面に立地しています。飛鳥京跡上層遺構の内郭の外側で、北西コ ーナーから100m北西に離れています。大正5年(1916)、この地から耕作中に2個の石造物が掘りだされました。石の表面に穿 たれた溝と窪みによって水を受けて流す仕組みになっており、岡所在の酒船石との関連性が指摘されている興味深い石造物です。 今回の調査は、この石造物が発見された場所を中心に、その出土状態の確認と遺構の性格の解明を目的として、平成11年1月1 8日より約1,000uを調査しています。 U 調査の概要 調査の結果、飛鳥時代の苑池遺構の一部を検出しました。ただし全体の規模と形態は未確認です。苑池は底に平らな石を敷き詰め、 周囲に石積みの護岸を巡らせたものです。調査区南辺では、大正5年に石造物を掘りだした際の抜き取り坑を確認し、元の位置を確 定することができました。さらにその周辺で別の石造物を2個検出し、これらの石造物が一連に組み合わされて南方からの流水施 設となることがわかりました。池底には厚さ1mの有機質層が堆積しており、最下層の石敷き上には10世紀代の土器、最上層に は13世紀代の瓦器が包含されていました。このことから苑池は平安時代までは滞水しており、鎌倉時代中期にかけて湿地状態で 埋没していったことがわかりました。以下、遺構ごとにその概略を記します。 ・護岸石垣 苑池西辺の長さ35m分を検出しました。調査区内は直線ですが、南端では緩やかに東に曲がり込んでいます。直線部分は北に対 し西へ21度の振れがあります。石垣は現状で高さ80cm、1〜4段が遺存しており、斜めに積まれています。 ・石敷き 池底にはベース土の青灰色砂礫土上に10〜30cm大の石を平らな面を生かして敷き詰められています。本来は全面に敷かれて いたものですが、抜けている部分もあります。調査区北東部は残りが良く、南北方向の目地が3条認められます。石敷き面の高さ は極めて水平ですが、護岸石垣際は4mの幅で上面に更に1層の石敷きが施されています。また護岸石垣に接して柱が1本と、柱 を抜き取ったとみられる坑が5箇所確認されました。 ・島状石積み 石敷き上に6×11mの範囲で、敷石よりもやや大きめの石を高さ60cmで積み上げたものです。平面形は不整楕円形で、2箇 所に小さな張り出しがありますが、明確に輪郭をなす石は置いていません。上面は2×5mの範囲で平らですが、面を揃えて敷き 詰めていません。 ・石造物 大正5年の抜き取り坑の先端から1.5m間隔を空いた地点で石造物NO.1を、抜き取り坑の東に接して調査区の南壁際で石造 物NO.2検出しました。石造物NO.1は原位置で樹立した状態で出土しました。花崗岩の石塊を成形し、上部には横方向に孔 を貫通させています。現高140cm、裾部厚72cm、孔径9cm。石造物NO.2は、平らな石塊の内側を槽状に刳り抜いた もので、水を溜めて流す装置と考えられます。長さ約270cm、幅約200cm、厚さ60cm。 ・張り出し 発掘区を北側に拡張した部分で、南側に舌状に張り出す護岸石垣を検出しました。この部分は西辺の護岸石垣とは異なり、石敷き 上に小礫を置き、その上に垂直に積まれています。3段積みで高さは110cm遺存しています。この石垣の性格としては、西辺 の護岸に連結する、北辺の護岸から張り出す出島状の施設か、あるいは独立した中島の石垣で、張り出し部分に相当するものと考 えられます。 V まとめ 今回の調査成果として次の2点があげられます。 1 従来明らかでなかった飛鳥京跡近辺での大規模な苑池遺構を検出したことです。これまで飛鳥地方で検出された苑池遺構とし ては、島庄遺跡、石神遺跡、飛鳥池遺跡、小墾田宮推定地などで検出されていますが、島庄遺跡を除くといずれも一辺10m に満たない小規模なものです。今回検出した苑池は、規模で島庄遺跡の方形池を超える可能性があり、飛鳥川右岸一帯にこの ような施設が展開していたと考えられます。 その場合、『日本書紀』天武14年11月条にみえる「白錦後苑」との関わりが注意されるのですが、正確な規模、形態、築造 年代、系譜関係については今後の検討が必要です。 2 原位置で樹立状態にある飛鳥時代の石造物が出土したことです。大正5年に出土した際には調査はなされておらず、具体的な 出土状況は不明だったのですが、今回の調査により、大体の構成が復元できました。石造物は南北方向に一直線に並び、段丘 崖を利用して南方の高所から流水し、さらに池中への落水を意図したことが明らかになりました。
ここで紹介した「飛鳥京跡苑池遺構」跡が今は('99.9月時点)草ぼうぼうだ。説明会で、埋め戻すとは言っていたが こんなにも のの見事に草だらけとは。今度我々の前に出現するのは一体いつになるのだろう。考えてみれば、全国あちこちでこうやって発掘 された遺跡が埋め戻されているのである。発掘は現在1年間に1万件を越えるそうだからとても全部を見て廻る訳にはいかないが、 出来る限りこの目でみておきたいものである。