朝日遺跡は濃尾平野のほぼ中央、愛知県西春日井郡清洲町、新川町、春日町、名古屋市西区に広がる、弥生時代における 東海地方最大級の環濠集落遺跡である。遺跡の範囲は推定面積80万uにおよび、昭和47年から行われている大規模な 発掘調査により、集落を囲む杭列・逆茂木(さかもぎ)などの防御施設、銅鐸や巴形銅器などの発見が相次ぎ、全国屈指の 弥生遺跡として有名になった。 清洲町の朝日遺跡はもともと昭和初期に「貝殻山貝塚」として調査されていたが、名古屋環状二号線の清洲東インタ−の 建設に伴って本格的に発掘調査され、弥生時代の大集落遺跡であることが確認された。その後も下之郷地内において、県 道高速清洲一宮線清洲ジャンクション建設に伴う事前調査など、数次に渡って発掘調査が行われている。この遺跡の特徴 は、東海地方における大規模な環濠遺跡であるという点に加えて、二〜三重の環濠、その環濠の外側に見られる、土塁や 逆茂木、乱杭などの防御設備である。弥生時代は東海地方においても、堅固な防御設備を持つ必要があったと言うことを 証明しているような遺跡なのである。(貝殻山貝塚資料館は現在改築のため閉館中。)
愛知県埋蔵文化財センター(弥富町)を訪れた時、職員の方に貰った地図(上)。「行っても看板はないし、どこが出土 地点とか分かりませんよ。」との事だったが、とりあえず来てみた。上図、円による遺跡表示は、その職員の方に書いて 貰ったものを参考にした。赤く塗りつぶした部分がこのHPの写真であるが、とても遺跡の写真とは言えない。しかし、 遺跡と分かってその実態が解明できただけでもめっけもんだろう。昔はお構いなしに工事が進行していたのだから、日本 中でずいぶん多くの遺跡が破壊されてしまったのではないかと思われる。
東京の舞浜シェラトンホテルで姪が結婚式を挙げたので、昨日から東京に行った。今日の昼食を東京の従兄弟夫婦と八重 洲で取って、そのまま新幹線に乗って名古屋で降りた。JR東海道線で名古屋から2つ目、各停で7分ほどで「清洲駅」 に着く。ここから東へ15〜20分ほど歩いていくと、大規模な高速道路の建設現場が見えてくる。途中、清洲城への案 内もあった。時間があったら帰りによりたいなと思っていたが、着いたのが3時近かったのでその暇は無かった。残念。 上左は五条川。弥生時代はもっと東寄りを流れていたようだ。
上右の写真は、巨大集落の象徴とも言える「大形方形周溝墓」群である。朝日遺跡では、総計300以上の方形周溝墓が 検出されていて、その多くが四隅を掘り残す形態で、一辺が30mを超えるような巨大な方形周溝墓もいくつか見つかっ ている。弥生時代中期のものとしては日本最大級の大きさである。朝日遺跡では集落東方の「東墓域」に造墓の中心が置 かれ、中でも全長30mを超える大形方形周溝墓は、これを中心に中小の方形周溝墓が築かれるなど、墓域全体の築墓構 造を考える上で大変重要である。大形方形周溝墓の一つは東西33.5m、南北22mという規模をもち、四隅に陸橋を有 するタイプ。溝底からは柄の付いた鍬(くわ)が2本みつかっている。また朝日遺跡最大の方形周溝墓は東西35mとい う巨大なもので、溝の底からは3本の鋤(すき)などが発見された。 朝日遺跡の方形周溝墓は、一辺の長さが、(1).10m以下のもの、(2).15m前後のもの、(3).それ以上のも のという分類になり、中期には規模の格差が大きいが、後期にはその差が少なくなり、おおむね(1).の範囲内に収ま るようになるという。
方形周溝墓とは、四角く溝を巡らす墓のことで、死者を葬った場所の周囲を、溝を四角形に掘ることで区画した墓である。 朝日遺跡では340程の数の方形周溝墓がみつかっている。方形周溝墓は、日本では弥生時代のはじめに北九州地方に出 現し、やがて近畿地方、東海地方を中心として、日本各地で造られるようになる。穴を掘り、そのまま遺体を収めた例と、 あるいは木の棺をつかって死者を埋葬する方法がある。また、北九州では弥生土器を棺として利用した土器棺葬も多くみ られる。
遺跡はすでに工事現場の基礎になっている。完成した暁には、何かモニュメントでも造って、ここが偉大な遺跡であった 事を知らしめてほしいものである。説明版も是非ほしい所だが、工事は来年まで続くし、まだ昨年も発掘調査をやってい るので、そういう事は数年先になるのかな。この遺跡の見学は是非その頃になってからをお薦めする。今行ってもただの 殺伐とした工事現場しかない。
ヤナと堰(せき) 多重の環濠がムラの周りを巡っていたが、弥生時代後期以降には、中期まで環濠として使われていた濠の中に魚を獲るた めのヤナが作られた。外敵は消滅したか、その必要性が薄れたのであろう。ヤナとは、魚を捕らえるための罠の漁具で、 朝日遺跡のヤナは、日本最古の部類に属する。河川を遡上する魚を捕る上りヤナで、上流部に設けられた堰(せき)と下 流部に設けられた簀(す)の間に閉じ込められた魚を、タモなどで捕った、と考えられる。 堰は環濠内の水流をせき止め、調節するもので、溝に直交して16本の杭が打ち込まれ、それを横木、叉木で支えている。 薄い割材を編んだ網代も、破損流出しているものの杭に貼り付いてみつかっており、本来は杭列の上流側全体に貼り付け られていたと思われる。
------------------------------------------------------------------------------------------ 愛知県朝日遺跡の松菊里型住居(61H・SB45)愛知県教育委員会・(財)愛知県埋蔵文化財センター ------------------------------------------------------------------------------------------
巴形銅器 北部九州を中心に分布する巴形銅器が朝日遺跡で発見された。大きさは、巴径(ともえけい)5.6cm、座径(ざけい)3.0cm、 高さ1.1cm。内側の面の全体にベンガラという赤色顔料が塗られていた。
長期にわたる発掘調査の結果、朝日遺跡も吉野ヶ里や唐古・鍵のような他の大規模弥生集落と同様に、人口過密で、物流 が盛んに行われ地域の中心だった事、他集落との抗争・戦争も存在していた事などが明らかになった。集落内の溝内の土 の中には、人や大型ほ乳類の糞を食べる糞虫や、ゴミムシなどの都市型昆虫、寄生虫の卵などがたくさんみつかっており、 推定人口1000人ともいわれ、環境汚染もすすんでいたらしい。この集落内では、集落の外から製品を入手して、自分 たちで使うだけでなく、周辺の集落にも分配していたようである。例えばアクセサリーの玉は、原石を入手して、朝日遺 跡の中の工房で生産していた。他の道具についても同様であった可能性がある。さらに、大形方形周溝墓などの存在は、 集落内において特別な階層が生まれはじめたことを窺わせる。 朝日遺跡では縄文時代の遺構も見られるが、隆盛をみるのは弥生時代になってからである。遺跡南西隅の貝殻山貝塚周辺 に、弥生時代前期(B.C300年前〜)の貝塚群や集落を取り囲む環濠が残されている。貝殻山貝塚を残した集団は、弥生時 代中期には集落を拡大し朝日遺跡は弥生都市的な様相を呈する。遺跡中央を貫く谷の北に位置する集落は、環濠とバリケ ードで守られた「環濠集落」の形をとる。この頃から、死者を葬った墓穴を、溝を巡らせることで周囲と区別する「方形 周溝墓」が集落の東西に多数作られる。弥生時代中期以降、谷をはさんで南北二つの環濠集落を形成した。その後、古墳 時代には、環濠の埋没に象徴されるように推定面積80万平方mにおよぶ巨大都市は終焉をむかえた。
弥生の玉作り工場。縦10m、横9mの大型円形住居跡。紀元前1世紀頃の弥生中期前葉。住居跡の中からは長さ5mm、 太さ3mmの管玉完成品と未完成品100個、原石20個が見つかった。石製砥石、切断具も同時に発掘。近くの溝から、 勾玉5点、管玉1点発見、勾玉の原石のヒスイが住居跡で確認された。こうした玉造り遺跡は、これまで北陸地方では例 があり、弥生中期前葉では滋賀県草津でも発見されているが太平洋側では初めて。(1985.12.19朝日新聞) 弥生中期、朝日遺跡に"勾玉”製造工場”があった。工具のはずみ車も発掘された。(1985.12.19毎日新聞) 弥生期の合葬人骨発掘。いずれも成人と見られ、頭を南にした屈葬。性別、年齢は識別できない状態。弥生期の合葬人骨 発掘は全国的に珍しい。朝日遺跡では、これまで数体の人骨が発掘されている。(1986.3.9中日新聞) 集落内の一角の方形周溝墓よりほぼ完全な女性人骨発見。身長160cm弱で、上向き伸展葬。紀元1世紀頃の弥生中期 後半。(1986.6.1中部読売新聞) 最大級方形周溝墓。地表3m掘り下げた部分から巾8m、深さ1mの溝がコの字形で確認された。東西の1辺は約30m もあった。北半分を発掘しただけだが、三辺が確認されている。(1986.8.22中部読売新聞) 方形周溝墓さらに一基。二号墓(既報)は東西35m、周囲の溝は巾8.5m、深さ1.7m。次に見つかった一号墓は 西約80mの位置。東西34m、南北24m、周囲の溝は巾8.5m、深さ1.7m。全国最大といわれていた大阪市の 加美遺跡の東西15m、南北26mを大きく上回る。溝は四隅が切られた東日本タイプ。一号墓は弥生時代中期中葉(紀 元前1世紀)、二号墓はこれより1世紀後のもの。(1986.10.30中部読売新聞) 弥生時代のやな場発見。当時の集落を取り囲む濠部分で、巾3.7m、深さ1.7m。上流部に杭を打ち、13m下流部 に木組枠を並べ植物茎を並べ要所を竹で支えた簾(す)から成る。盛岡市の原始的な縄文期、完全な古墳時代の滋賀県. 斗西遺跡の例はある。上流の杭の部分は川巾を狭め、下流部分は逆に広め、共に一部を開けた状態。集落側の岸はテラス 状になっており、タモと思われる木枠も見つかった。コイ、フナ、ウナギの骨も多数出土、アユの骨は確認されなかった。 (1986.10.30毎日新聞) 弥生の"大都市”か。三重の溝、大防御柵。集落の南部分に東西約150mの2本見つかった。巾2.5〜3m、深さ1. 5m。溝の間隔2mほど。以前、内側に巾4〜5m、深さ2mの大溝が確認されている。今回見つかった溝の中から柵に 使った木の枝が完全な形で発掘された。高さ2.5m、太さ15〜20cmの枝を溝の中にびっしり立て、やや細めの枝 を集落の外側に向け斜めに並べ、さらに外側にも柵を設けてある。地層などから弥生時代中期(紀元前1世紀)ころらし い。(1986.11.15中日新聞) 弥生時代の"くし”出土。木製で歯は扇形。日本最古?の竹櫛だった。木製と見られていた竪櫛はエックス線鑑定より竹 製と分かった。こうした櫛は古墳時代盛んに作られたが、弥生時代の発掘例は少なく、その内でも最古。巾8mm、厚さ 0.5mmの細い竹ヒゴ10本をU字形に曲げ、根元を桜の樹皮製ひもで結んで固定。弥生時代中期初頭、紀元前1世紀 と推定。縄文時代の板に数ミリ間隔で刻みを入れた古いタイプと作り方が異なる。竹表面を薄く正確に切るには鉄製の刃 物を使っているとみられる。(1986.12.3中日新聞) 弥生人"敵”への備え。二重にサク.杭の群。盾も発見。盾は厚さ1cm、縦横40cm、13cmの一部が見つかった。 赤い線で縁取りした黒いノコギリ刃様の模様か付いている。もとは縦横80cm、40cmではないかと見られる。 (1986.12.7朝日新聞) 弥生人の3種の祭器 木偶、船形、鳥形。木偶が発見されたのはヤナの外のもうひとつの溝。長さ12.5cm。顔は円 形で直径3.5cm。腕などはなく、こけしの様な形。目、鼻、口が刃物の様な物で描かれている。足元が長く伸びてい るから、何かに差して使ったらしい。船形は長さ23.5cm。木偶と同じ溝から。鳥形はヤナの溝から。弥生後期、3 世紀ころのものと見られる。木偶の発見は、滋賀県.大中湖遺跡、徳島県.庄遺跡など2件程。(1986.12.16 中部読売新聞) 縄文人雑炊生活の証明。杓子形の木製食器出土。1辺20cm、15cmほどの楕円形、深さ10cm程。木をくり抜い て作ったとみられる。端には3cm程の柄が付いている。この柄の部分には、小さな穴が開いていた。発掘現場からは縄 文時代の土器片も十数点出土。(縄文時代後期、紀元前15世紀頃か?)(1986.12.17中日新聞) 弥生時代のゴミ捨て場? かめ、つぼ、高坏が数千点、環濠部分から大量の土器が見つかった環濠は、遺跡の内ちの”南 側集落”の北側部分。巾1.5m、深さ1m、ほぼ東西に50m分発掘。ここから、生活に使ったと見られるあらゆる種 類の土器、数千点が出土。この環濠の南側からは、住居跡が次々と見つかり初めている。(1987.1.29中日新聞) 今度は小型倣製鏡。朝日遺跡から直径7cm、厚さ0.2〜1.1cmの四乳細線文鏡を出土。サイズはちいさく、弥生 時代末期から古墳時代初めの3世紀代のものか。東日本では11例目、愛知県では2例目(大口町、清水遺跡。S46出 土)。投棄されたような出土状況から朝日遺跡の集落が最終段階の時期を示すものと見られる。(1987.2.5毎日新聞) 弥生時代の井戸枠出土。底を抜いた木製臼を逆さに重ねた弥生中期(紀元前後)の井戸遺跡。四段重ね、深さ1m分確認 された。ここから15mの位置で丸太をくり抜いた井戸も確認されている。米を脱穀する臼を転用していることより稲作 の相当な普及が想定できると見ている。(1987.3.11中日新聞)
工事現場は歩行者が横断できる場所が少なく、延々と遠回りをして2時間ばかりこの辺りをうろついてしまった。清洲 城が見えていたが、すっかり暗くなってしまって、もう行く気もしなかった。
<謝辞>ここで使用した発掘時の写真、発掘時の状況などに関する記事は、愛知県埋蔵文化財センターで頂いた資料、 同センター内の展示資料等々、及び、2003年6月1日朝日新聞社発行「2003 発掘された日本列島 新発見考古速報 (文化庁編)」から転載・参照しました。記して深く感謝します。
<弥生人>かんがい技術利用しコイ養殖… 愛知・朝日遺跡 (毎日新聞 - 09月18日 20:21) 朝日遺跡(愛知県)で出土したコイの幼魚の咽頭歯の化石(右下の太線は1ミリ)=滋賀県立琵琶湖博物館提供 滋賀県立琵琶湖博物館(草津市)は18日、弥生時代の集落遺跡「朝日遺跡」(愛知県清須市など)で出土した魚の歯の 化石から、弥生人が、かんがい技術を利用してコイを養殖していたことが分かったと発表した。自然水域では捕まえにく い幼魚の化石が多数含まれていたためで、当時、養殖が行われていたことを示す資料が見つかったのは初めて。水田稲作 と共に水位を制御するかんがい技術が大陸から伝わり、養殖が発達したとみられる。 同館や奈良文化財研究所(奈良市)などの研究グループが、咽頭(いんとう)歯(のどの奥の歯)が残る魚類の化石 244点を調査。うち167点がコイで、歯の大きさなどから推定すると、体長5〜15センチの幼魚と35〜45セン チの成魚に大別できた。【近藤希実】 ------------------------------------------------------------------------------------------------------ 弥生人もコイ養殖 愛知・朝日遺跡にコイの歯 2008年9月18日 10時29分 共同通信 弥生時代の代表的な集落遺跡として知られる朝日遺跡(愛知県、紀元前4−紀元4世紀)で、捕獲が難しかった幼いコイ の歯の化石が多数出土、コイを飼って食べていたとみられることが18日、滋賀県立琵琶湖博物館などの調査で分かった。 コイの養殖を示す国内最古の事例。冬の保存食にしたようで、狩猟採集中心だった古代の食料事情に新たな一面を加える 発見となりそうだ。研究成果は英国の考古学誌に発表する予定。 ------------------------------------------------------------------------------------------------------ 弥生人がコイ養殖 幼い歯の化石出土 琵琶湖博調査、愛知・朝日遺跡 9月18日12時59分配信 京都新聞 愛知県清須市や名古屋市にまたがる弥生時代中期の巨大環濠(かんごう)集落跡「朝日遺跡」で、幼いコイの歯の化石が 大量に見つかり、弥生人がコイを飼って食料にしていた可能性が高いことが18日、滋賀県立琵琶湖博物館(草津市)な どの調査で分かった。 遺跡から出土したコイののどの奥にある咽頭(いんとう)歯167点を分析したところ、生後数カ月とみられる体長5− 15センチの幼魚と、2−3歳と推定される体長35−45センチの成魚の大小2つのグループに分かれた。 同博物館によると、自然の水域から小さな幼魚を大量に捕獲するのは困難で、産卵期に捕まえたコイの成魚を集落の環濠 や灌漑(かんがい)水路などに放して自然に産卵させ、生まれた稚魚を飼養していたとみられるという。 国内では最古のコイの養殖例とみられ、古代中国でコイの養殖方法を記した文献などが見つかっていることから、コイ養 殖の知識は水位を人為的に制御する水田稲作の技術とともに大陸から伝来したと考えられる。 研究に携わった同博物館の中島経夫・上席総括学芸員(古魚類学)は「自然の川や池で大量の幼魚を捕まえたとは考えに くく、原始的な養殖とみるのが妥当。コメと同様にコイを保存食として活用していたのだろう」と話している。 研究結果は、近く英国の考古学雑誌に発表する予定。 最終更新:9月18日12時59分 ------------------------------------------------------------------------------------------------------