Music:  Across the Universe
阿武山古墳 −藤原鎌足の墓− 大阪府高槻市 2002.10.14(月)

	
	大阪府の高槻市。継体天皇陵とされる「今城塚古墳」から北北西の方角に、阿武山(海抜281.1m)と呼ばれる山が
	ある。その麓の、茨木市大字安威(あい)および高槻市奈佐原(なさはら)にまたがる場所に、阿武山古墳(あぶやまこ
	ふん)がある。

	現在では山麓まで住宅が密集し、山腹の一部もえぐられたように宅地が開発されている。山頂付近に、地震観測所の高い
	塔を持つ建造物があるので、すぐにわかる。この古墳は、昭和9年(1934)、京都大学阿武山地震観測所の施設拡張工事
	によって発見され、京都大学の梅原末治氏らによって発掘調査が行われた。古墳時代終末期の古墳で、直径約80m、石
	室は花崗岩の切石とレンガで造られ、内側は漆喰を塗り、中央に棺台があった。台上には麻布を漆で固めてつくった夾紵
	棺(きょうちょかん)が置かれ、棺内には60歳前後の男性人骨が横たわり、頭部には、ガラス玉を銀線で連ねて錦で包
	んだ玉枕が置かれていた。

	発見当時「貴人の墓」として注目を集め、墓室の規模や構造、特殊な埋葬形態から、被葬者は相当な地位にあった人物と
	考えられ、「藤氏家伝」には、藤原鎌足は「大化の改新」(645年)の前年に三島の地に隠棲しており、669年山科
	精舎に埋葬後、阿武山、そして多武峯へと改葬されたと伝えられていて、ここを藤原鎌足の墓とする説が沸き起こった。
	昭和58年に国指定史跡となった。

 

左上、中央の高い塔が地震観測所である。あの麓に「阿武山古墳」がある。



その地震研究所への入り口。門は施錠されているが、門柱の脇から山へ登っていくようになっている。

 

	
	JR東海道線(京都線)「摂津富田」駅から高槻市バスに乗り、「奈佐原」で下車する。停留所の直ぐ南側の道を西の方
	向に進む。住宅の建て込んだ中を山手の方へ歩いていくと、やがて「京都大学阿武山地震観測所」と書いた門柱がたって
	いる。門は施錠されていて車は中へ入れない。車で来たら附近に駐車して、後は徒歩で900m歩く。途中、道は1本で、
	2カ所ほど古墳の標識もあり、道筋はわかりやすい。やがて地震観測所に行き着く。その脇から標識に従って進むと、
	「大阪学院大学」のフェンス沿いに阿武山古墳と刻まれた白い石柱が目につく。バス停から古墳まで徒歩約40分程。


途中木々の間から見る高槻市街。眺望はいい。

	
	阿武山古墳は標高約214mの、京都大学阿武山地震観測所に隣接した場所にある。茨木市と高槻市のほぼ境界線上にあ
	り、北摂丘陵から南へ派生する多くの丘陵支脈の一つである。 この古墳には通常の古墳に見られるような墳丘はない。
	小高い丘で、標識がなければとてもここが古墳とはわからない。山の地形を利用してつくられており、円墳という資料が
	あるが、円墳と言えば円墳のようでもあり、そうでないようにも見える。しかし通常言う円墳の形状ではない。

	この古墳は昭和9年(1934)に、地震観測所の拡張工事中に発見された。出土した土器(下写真)から見て、古墳の築造年
	代は、7世紀前半〜後半と考えられており、飛鳥時代としては、数少ない貴重な墓として、国史跡に指定されている。発
	見当時の一般公開には、わずか10日間に2万人が見学に訪れたと言われ、いかに衆人の注目を集めた大発見であったか
	がわかる。

 

	
	上下が京都大学阿武山地震観測所の建物。人がいるのか居ないのかわからないようなひっそりとした建物。この山に道路
	を造り、どでかい建物を建て、延々1km以上にも渡って電力を引いて、阪神大震災を防げなかっても偉そうに建ってい
	る。

 

	
	地震観測所の脇を「阿武山古墳」という標識に沿って行くと「大阪学院大学」と書いたフェンスにぶち当たる。資料で阿
	武山古墳も「所有者:大阪学院大学」というのがあったが、今はこの大学の敷地内なのかもしれない。

 

 

 

	
	南側から見た墓室の全景(下)。山道から墓室まではコンクリートで舗装された遊歩道がつけられている。墓室として囲
	われた場所には木が植えられている。カシ(イチイガシ)のような木と鎖で囲われていて、「墓室」と書かれた標識が設
	置されている。墓はこの地下約3mにあるが、囲ってなければ位置もわからないほど普通の地面である。





	
	墓室、棺などはかなり凝った造りで、棺内にはミイラ化した高齢の男性の人骨一体が、頭部には、ガラス玉を連ねて綿で
	つつんだ玉枕と金糸をまとって葬られていた。金糸をまとっているところから、古代の天皇か、それに準ずる高位の者の
	遺体と推定された。しかしその事で、調査はいきなり中断させられてしまう。皇族の可能性もあるため、科学的調査は非
	礼にあたると内務省が介入し、4ヶ月後には棺と遣体は元通りに埋めもどされてしまった。当時は軍部の権勢が全盛で、
	天皇家絶対の風潮の中、内務省が憲兵隊を動員して、研究者らの立ち入りを禁止し、出土品も含めてすばやく埋めもどし
	てしまったのである。

	しかし、現場工事の主体が京都帝国大学であったことは幸いだったかもしれない。学術的な調査が実施され、報告書も、
	大阪府から梅原末治氏を中心とした執筆陣によるものが「大阪府史蹟名勝天然紀念物調査報告第七・摂津阿武山古墓調査
	報告」として、昭和11年(1936)3月に刊行されている。

 

	
	その後、古墳については一部の研究者を除き殆ど忘れられていたが、ほぼ半世紀後の昭和57年(1982)に、京大地震研
	の一室から、古びた数十枚の写真が発見された。それは、発掘直後に京大の研究者たちが密かに撮影した、阿武山古墳被
	葬者のレントゲン写真原板を含む調査写真だった。さらに、遣体から採取した頭髪も見つかり、奈良国立文化財研究所と
	東海大学医学部整形学科による数年がかりの分析調査が行なわれた。昭和62年(1987)になって、発掘当時撮影されたX
	線写真の分析が行われその結果、埋葬者は背骨と肋骨の骨折が原因で死亡しており、金糸は冠帽の刺繍に用いたとも推定
	されるという報道がなされた。

  

	
	これをもって再び被葬者が「藤原鎌足」ではないかと再び取りざたされた。朝日新聞のトップの大見出しは、「藤原鎌足
	の墓だった」というものであった。TV報道などでも盛んに「鎌足墓」説が報じられ、まるで学術的にも阿武山古墳が、
	藤原鎌足の墓と決定したような過熱ぶりだった。遺体が纏っていた金糸が、「藤原鎌足に送られた「大織冠」ではないか
	とされ、また鎌足の死亡の原因が落馬によるものだという記事もあり、骨折がこれを証明している、という訳である。

 

	
	「大織冠」とは、藤原鎌足が死ぬ直前、藤原姓とともに天皇から下賜されたもので、冠位十二階より上位の、冠位の最高
	位を表し、日本書紀にもその記録が残されている。もし、金糸が大織冠のものなら、阿武山古墳は藤原鎌足の墓というこ
	とになる。直木孝次郎などは、「阿武山古墳が鎌足の墓であることは、文献上からも肯定することができる。」と結論づ
	けている。



	
	しかし、鎌足墓説には当然反駁もある。阿武山古墳の被葬者が藤原鎌足であるという説は可能性のひとつを提示したにす
	ぎないとし、他にもたとえば鎌足とほぼ同時代の阿部倉橋麻呂(内麻呂)や蘇我倉山田石川麻呂などをあげる学者もいる。
	また古墳の封土部分から出土した須恵器は、七世紀前半代のものといわれており、それを軸に考えれば鎌足らよりも前、
	つまり大化前代の人物を想定できる可能性もある。そうなればほとんど被葬者の推定は不可能である。
	前述「梅原報告書」は、被葬者が「其の何人であるやの問題は蓋し永久の疑問たるを免れないであらう」と結んでいる。









 

	
	【藤原朝臣鎌足(ふじわらのあそんかまたり)】

	藤原朝臣・内大臣・内臣・藤原卿 推古22〜天智8(614〜669) 旧姓名 中臣連鎌子。
	父は中臣御食子(みけこ)、母は大伴久比子卿乙女智仙媛(咋子のむすめ智仙娘)。藤氏家伝は長男とするが、字を仲郎と
	し、この名からすると次男だったとの説も。子に定恵(多武峰縁起・略記などによれば実父は孝徳天皇)・不比等(一説に実
	父は天智天皇)・氷上娘・五百重娘がいる。家伝によれば、胎内にある時から泣き声が聞こえ、12ヶ月で誕生したことか
	ら「非凡な子」といわれた。聡明仁孝で幼年にして学問を好んだという。周の太公望の撰とされる兵法書「韜」を愛読し、
	権謀術数を学んだ。

	舒明12年(640)10月、隋から南淵請安が帰国し、中大兄皇子と共に外典の講義を受けたが、軽皇子(孝徳天皇)とも親交
	があった。皇極4年(645)、強大になった蘇我入鹿の力を削ぐため、皇極天皇の眼前で中大兄皇子らと蘇我入鹿を謀殺する。
	(乙巳の変:いっしのへん)。世に「大化の改新」と呼ばれる政変である。孝徳天皇即位後、大錦冠を授かり内臣となる。
	斉明元年(655)、大紫冠(三位)を授かる。天智年間、帝の命により「近江律令」を制定。天智8年(669)10月病を得、15
	日、自邸に派遣された大海人皇子より、大織冠(たいしょくかん)と藤原の姓(かばね)と大臣(おおおみ)の位を授かる。
	日本史上、大織冠を賜ったのは鎌足ひとりである。翌日16日、死去。56歳。(一書には50歳との記事も見える)。

	10月10日に鎌足を病床に見舞った天智天皇は、「何も思い残すことはありません。葬儀は質素にして民に迷惑がかから
	ないようにお願いします。」と言う鎌足の言葉に涙を流し、鎌足の死を聞いたときには号泣したと伝えられる。藤氏家伝に
	は「淡海之第」で薨じ、山階精舎で葬儀をしたとある。



	
	大化改新から24年。天智天皇と鎌足は、常に手を携えて中央集権的な律令国家の建設に邁進してきた。神道に関わる中臣
	一族の系統に生まれ、そもそも神官となるはずだった鎌足は、父の死後これを拒否して政治の世界に飛び込み、台頭してき
	た新興勢力の蘇我氏に脅威を感じていたはずである。また、唐から帰国した南淵請安(みなみぶちのしょうあん)の元で学
	んでいた鎌足は、唐が高句麗征伐に踏み切ったという緊張した国際情勢も知っていたはずであり、強大な中央集権国家の必
	要性をいち早く感じ取っていたであろう。
	鎌足は、蘇我氏打倒の体制づくりに向けて軽皇子(後の孝徳天皇)に近づき、さらに中大兄皇子(後の天智天皇)とも知己
	を得る。そして、蘇我一族の内部の対立関係を利用して、蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだのいしかわまろ)の娘
	と中大兄皇子を結婚させ、石川麻呂を見方に引き入れる事に成功する。大化の改新は、この鎌足の画策が無ければ成功しな
	かったであろうと言われている。
	大化改新による、公地公民制の改革や近江遷都などにおいても、即位しないまま政務を行う天智天皇を助けて、常にその側
	近として仕え、典型的なブレーンとして絶大な信任を得ていったと考えられる。公的な面のみならず、改革に反対する古人
	大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)勢力の謀殺にも深く関与していたという説もある。死を聞いて、天智天皇が号泣し
	たというのも、二人の仲が肉親以上に堅い絆で結ばれていた事を想像させる。



	
	鎌足の長子・定恵(じょうえ)は早世していたが、次子不比等(ふひと)は後に皇室の外戚としての地位を築き、藤原氏隆
	盛のもととなった。当初多くの中臣氏が藤原氏を名乗ったが、文武2年(698)以後は不比等の子孫のみに限定された。以
	後、藤原家は、摂政・関白・太政大臣を輩出し、平安時代の宮廷政治を独占する存在となってゆく。







	
	【塚原古墳群】
	
	塚原古墳群は、阿武山古墳のある阿武山の東、高槻市塚原町二丁目付近、南斜面に営まれた大阪府下でも指折りの群集墳で
	ある。この古墳の分布範囲は、東は高槻赤十字病院構内、西は安威川(あいがわ)、南は経王寺(きょうおうじ)境内、北は京
	大阿武山地震観測所付近にまで及んでいる。下の写真は、阿武山古墳を探しているとき迷い込んだ「阿武山団地」の中に残
	されていた「塚原0号墳」である。かっては、6世紀後半から7世紀前半にかけて造られた、100基に及ぶ古墳があり、
	「塚原八十塚」とも呼ばれたそうだが、現在は30余基が残る。古墳の多くは横穴式石室をもつ円墳で、方墳や埴輪をめぐ
	らせた円墳もある。
	出土品は、土師器・須恵器の他、埴輪・装身具・馬具・鉄刀などの鉄製品・刀の把頭(つかがしら)など豊富である。又、旧
	石器・縄文・弥生時代の遺物も出土している。

 

 

 

	
	高槻市の周辺には塚原古墳群以外にも、塚脇古墳群など多くの古墳群があり、おそらく安威川流域に居住していた人々によ
	って造営されたものであろうと考えられる。多くが6世紀後半から7世紀にかけて築かれており、当時この辺りは相当な人
	口を抱えた肥沃な土地だったのではないかと推測できる。塚脇古墳群は現在までに20基の古墳が調査され、その内の2基
	は高槻市埋蔵文化財調査センターに移築された。塚原古墳群は明治5年(1872)、大阪造幣局の技師としてイギリスから招か
	れた「ウイリアム・ゴーランド」によって中央に紹介され、わが国の古墳研究の先駆けとなった。




邪馬台国大研究 / 遺跡・旧蹟案内 / 阿武山古墳 −藤原鎌足の墓−