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高槻城址 高山右近の城



		●高槻城跡公園
		
		高槻城跡につくられた公園。かつて高槻城の三の丸があった園内には休憩所や堀を模倣した石垣・池・野球場・プール・交通遊園な
		どもあり、多くの市民達で賑わっている。高槻城を含む西国街道一帯は昔から京阪間の重要拠点だった。高槻城の歴史は南北朝時代
		の入江氏の居館に始まり、戦国時代には和田、高山氏が名を連ねる。当初は小さな舘だったが、戦国時代を通じて拡張され、元和3
		年(1617)徳川幕府は西国監視の重要拠点として修築に着手し、近世城郭としての姿を整えた。城は三層の天守や二重の堀などを備
		えた、南北に長い凸形で、城下の面積は18世紀頃で約64haとみられている。慶安2年(1649)に永井直清が高槻城に入り、以
		後13代幕末まで高槻を治めたが、明治7年(1874)、石垣石を鉄道工事に使用するため高槻城は壊され、城跡は昭和25年、府の
		史跡に指定された。府立島上高校の前にある高槻城跡碑は、当時の石垣の一部を利用して刻んだ。

 

 
		●歴史民俗資料館
		城跡公園内にある歴史民俗資料館は、江戸時代中頃の商家「笹井家」を移築・復元したもので、生活用具や農具などが展示されており、
		郷土の生活文化を知ってもらおうと、昭和57年7月に開館した。定期的に展示が入れ替えられて、当時の生活がいきいきと再現され
		ている。建物は、市指定の有形文化財である。

 


		高槻城といえば高山右近である。戦国時代のキリシタン大名として名をはせ、やがて秀吉・家康に追われ、遠くマニラの地で没した
		悲劇の人物として有名だ。しかし、彼が高槻城にいたのは15年、城主になってからでも12年という短い間だった。

		天文21年(1552)、高山彦五郎、通称右近は摂津・島下の高山(現・豊能郡豊能町)に生まれた。父、飛騨守は勇猛果敢な武士で
		あったと伝えられる。後に、飛騨守は松永久秀の配下として、大和の国沢城主(現在の奈良県榛原町)になる。
		天文18年(1549)フランシスコ・ザビエルが来日し入洛したが、戦乱の京都を避けて山口で宣教活動を行う。そこで目と足の不自
		由な琵琶法師ロレンソが入信、将軍義輝から京都での布教許可をもらう。永禄6(1563)年、松永久秀(多聞山・信貴山城主)の家
		臣として沢城(現・榛原町)を預かっていた高山飛騨守は、ロレンソの説法を聞き、主従ともにキリスト教の洗礼を受けるのである。
		この時、高山飛騨守の息子右近も受洗した。洗礼名ジェスト、12歳であった。
		
 


		しかし高山親子は、沢城でキリシタンとして平穏な祈りの日々を送っていたわけではない。世は戦国・下剋上の世界である。高山家
		はやがて主君松永を捨てて、摂津高槻の和田氏の臣下となるが、右近が初めて歴史に名を残すのは、さらにその主君和田氏の息子を
		右近が殺害し、信長配下の荒木村重の力を頼って高槻城を乗っ取った時である。高山飛騨守は高槻城主となるが、まもなく21歳の
		息子右近に城を譲り、このときはじめて高山右近友祥(ともなり)と名乗るのである。後にキリシタン大名として敬虔でまじめな大
		名というイメージを築く右近であるが、この頃にはまるでキリシタンらしい所はない。
		飛騨守はダリヨと名乗り、引退後はもっぱら宣教に専念した。足利義昭は毛利に逃げ、天下は信長の支配力が強まり、やや平穏な時
		代であった。天正2年から4年の間、高槻でも多くのキリシタンが誕生したという。一時期、2万5千人の領民のうち、1万8千人
		がキリシタンであったとも言われる。




		天正4年(1574)、高槻で最初の復活祭が行われ、宣教師オルガンチノも生まれて初めて経験したと記録するほど盛大であった。
		この年には、1年で約4000人が受洗した。しかし右近は決して領主の権限で信仰を強制するようなことはなかった。仏教徒にも
		自由を認め、寺社を今までどおり保証するという右近の文書も発見されている。信長や当時の武将たちの間でもキリシタンへの信頼
		は厚かった。あるとき法華宗の者が信長にパテレン追放を願い出た。信長は、摂津守護であり、右近の主君である荒木村重に「キリ
		シタンについてどう思うか」と尋ねた。荒木は「教理についてはよく知らぬが、キリシタンの家臣たちは、よく善に従い、徳を行い、
		申し分ない。」と言うと、そこに居た武将たちも同意し、信長も「予も同意見だ」といって法華宗の訴えを退けたという。

 


		天正6年(1578)、荒木村重は毛利、石山本願寺と組み信長に謀反を翻す。右近は26歳、キリシタンとしての最初の試練であった。
		悩み抜いた末、妹、3歳の子を荒木の元へ人質に出して忠誠を示し、謀反が無駄で、信長には勝てないことを説得するが、強行派に
		押し込められ、信長の軍勢を迎え撃つ事になる。信長、秀吉らは高槻城に迫り開城を要求する。信長にとって高槻は戦略上の要所で、
		また一向宗にたいしてもキリシタン大名は必要な存在であった。ここで右近を失いたくなかった信長は、使いを出し、加増とキリシ
		タン保護を右近に約束した。右近は、荒木と信長を和解させようとしたが、信長は拒否。右近の父ダリヨは娘、孫を思い、荒木側に
		つくことを主張した。信長は怒り、教会を焼き払いながら、荒木村重の有岡城(現在の兵庫県伊丹市)へ迫る。

 


		信仰か打算かを迫られた右近は、ここに至って決心した。密かに城を脱出、髪をおろし武器を捨て、信長のもとへ下るのである。彼
		は武士であることを捨て城主は父に返上。その代わりキリシタン保護を願う。受け入れられなければ殉教する覚悟であった。信長は
		右近の決心に感動し、やがて、右近の家臣がダリヨらを押さえて開城した。信長は喜び、右近に再び信長に仕える事を強要した。村
		重らは迫り来る信長軍に尼崎へ逃げ、有岡城は無傷で落城、人質も無事であった。ダリヨは本来なら死罪であるが、右近に免じて柴
		田勝家預けとなり、福井県北荘(きたのしょう)に軟禁された。この時から信長は右近を重く取り立てるようになったと言われる。
 


		こうして信長のキリシタン保護政策は継続され、安土に教会を建てることも許可する。右近は家臣1500人を動員して1カ月で3
		階建てのセミナリオを建てた。右近は築城の名人とも言われ、教会建築にもその才能を発揮した。多くの武家の師弟たちがこのセミ
		ナリオで学んだ。教会は領内に20程あったと言われる。ここではパイプオルガンが鳴り、聖歌が歌われ、また天文学や西洋絵画教
		室まで開かれたという。右近は今や信長の寵愛する家臣の一人となっていた。およそ2倍になった領国で、キリシタン大名としてお
		もいのままの政治を行った。彼が仕えた3人の主君、松永、和田、荒木は既に無く、彼らを右近が見捨てたわけではなく、彼らの滅
		亡に力を貸して4人目の主君信長に仕えたのである。高山右近の絶頂期と言ってよい。




		天正10年(1582)6月1日未明、明智光秀は、丹波亀岡から1万3千の兵を率いて京への道、老いの坂を越えた。丹波街道はやが
		て桂川にぶつかる。南に道をとれば秀吉の待つ中国路へと至る。しかし光秀は、桂川を渡るよう臣下に命じた。そして全軍にはじめ
		てその攻撃目標を明かすのである。「わが敵は本能寺にあり。」

		高山右近は毛利戦に合流するため高松へ進軍中であった。明智光秀は右近に書簡を送り本領を安堵すると約束をしたが、右近は引き
		返し、5人目の主君秀吉の元で光秀と戦った。この戦で安土城は焼失。安土のセミナリヨは高槻へ移された。信長の法要では右近は
		信仰に従い焼香しなかったが、その時点では特に秀吉も咎めなかったようである。信長の死により右近の父ダリヨは高槻に帰ること
		を赦された。

 


		信長の死後、秀吉もキリシタン保護を継続した。天正11年、秀吉はオルガンチノを歓待、大阪に教会用の土地を提供した。右近も
		自費で大坂に教会を建設した。秀吉の側近の多くが右近の影響で入信し、蒲生氏郷、黒田官兵衛、宇喜多氏家、中川秀政、細川忠興
		の妻ガラシャ、小西行長一家などが洗礼を受けた。信長に謀反を起こした荒木村重は、減禄されてもなお秀吉に仕えていたがある時、
		茶席で秀吉が右近を誉めたとき、荒木は「それはみせかけだ。」と答え秀吉の怒りを買う。荒木は完全に秀吉の信用を失い、それ以
		来歴史に登場する事はない。秀吉の右近への信頼も絶大であり、毎日のように右近を賛辞し、多くのキリシタンが登用された。




		天正15年(1587)、秀吉は九州の島津征討に出陣。陸は右近、海は小西のクルスの旗がはためいたと言われる。島津は5月8日降
		伏、6月7日には秀吉は箱崎(博多)に凱旋した。そこで、右近らキリシタン信徒やバテレンにとっては、晴天の霹靂とも言うべき
		出来事が起こる。秀吉は、突然バレテン追放令を発布したのである。





		秀吉が箱崎に凱旋した時、宣教師コェリョは武装した南蛮船で秀吉を出迎え、大砲などの武器を見せ、スペイン艦隊が自分の指揮下に
		あるごとく誇示した。右近らはその南蛮船を秀吉に差し出すように勧めたが、コェリョは拒否した。秀吉は憤慨した。反キリシタンの
		全宗派は、このチャンスに秀吉にバテレン追放を進言。6月19日夜突然、コェリョに詰問書が出された。秀吉は右近にも使いを出し
		て次のように棄教を迫った。「兄弟もおよばぬ一致団結は天下にとってゆるがせにできぬ。高槻、明石での社寺破却は理不尽。予に仕
		えたければ、信仰を捨てよ。」
		高山右近は、ここで第二の信仰上の大きな試練に直面した。黒田、蒲生、細川など当時の大名やその家族達にも大きな影響を持ち、近
		畿におけるキリシタンの中心人物であった右近は、秀吉からいわばみせしめとして棄教を迫られたのである。

 


		キリシタンとして自覚してからは、自分の主君を殺し、父親に背いた事を悩む右近ではあったが、今回は悩まなかった。右近はいさ
		ぎよく領地を返上し、その日の夜半には「伴天連追放令」が発布された。秀吉は右近の元へ千利休を遣わし、前言を取り消すなら取
		り計らおうと言ったが、右近は、武士として一度言ったことは変えぬ、と返答した。右近は家臣に対し、おのおのの妻子のために配
		慮し、自分を捨てて他に主君を求めよと勧めた。肥後32万石へ転封された小西行長が、右近の家臣の多くを引き取った。

		棄教を拒否した右近は、秀吉に所領を没収され、加賀前田家に預けられた。35歳で再び大名の座を失った右近は、その後4分の1
		世紀以上を、金沢城主前田利家とその子利長の保護の元に過ごすことになった。利家は右近に3万石を提供したが、右近は教会1つ
		建ててくれればそれで十分と答えたと言う。キリシタン大名として知られる高山右近が、前田家の客将として加賀に26年間も住ん
		でいたことはあまり知られていない。26年間といえば12歳で洗礼を受けてから、異郷の地マニラで客死するまでの右近の生涯の
		およそ半分を占めている。彼の教養と品格は、前田家の武士達にも影響を及ぼしたようで、軟禁とは言え、金沢城修復の縄張りを行
		うなど前田家の信頼も厚かった。金沢は今でも茶道の盛んなところだが、「利休七哲」の人としても名高い右近の影響もあるのかも
		しれない。




		右近は天正18年(1590)、小田原征伐に前田家家臣として参戦し、松井田城(群馬県)、武蔵鉢形城(埼玉県)、八王子城(東京都)
		を攻略、クルスの旗をかざして戦った。実質的に前田家家臣として秀吉に赦されているのである。秀吉は、子供時代からの盟友前田利
		家に右近を預けることで、利家がしかるべく右近を遇してくれる事を期待していたのかもしれない。加賀時代の高山右近は、むしろ彼
		の人生で一番自由できままな時代だったかもしれないのだ。事実、同年6月20日、少年遣欧使節が帰国して密かに京都へ上った時会
		ったフロイスに右近はこう語っている。「関白どのから離されて、何の支障も無く自由に暮らせるのは自分にとって恵みである。」
		文禄元年(1592)、右近は名護屋で秀吉に会見し、翌日茶に招かれる。右近もパアデレも公然と自由に活動できるようになった。
		この後日本においてキリシタン南蛮文化が開花した。文禄4年、父ダリヨ死去。遺言によって長崎キリシタン墓地に葬られた。長崎始
		まって以来の最大の葬儀であったと言う。




		しかし金沢もまた右近にとって安住の地ではなかった。再び秀吉の怒りを引き起こす事件が発生し、長崎での「26聖人の殉教」で危
		うく処刑されかかった右近だが、石田三成と利家のとりなしにより助けられた。殉教者は最終的に26人に絞られた。耳を削がれ、洛
		中引き回し、大阪から徒歩で長崎まで引いていかれた宣教師・信徒達は、慶長元年(1596)2月5日、長崎で張付けの刑に処せられた。
		これを聞いたスペイン国王は怒り、日本に戦争をしかけるつもりであったともいわれる。しかし、国王フェリペ2世は死去、その5日
		後、慶長3年8月18日、秀吉も病で死去した。病に伏せる秀吉に謁見を許されていた宣教師ロドリゲスは、最後まで秀吉にキリシタ
		ンになることを勧めたが秀吉は拒んだという。

 




		秀吉没後、5大老、5奉行の合議制となる。大老の筆頭は家康、利家であり、奉行の筆頭は三成であった。キリシタン同情者が多く、
		しばらくは平穏であった。家康はキリシタン大名を静観していた。貿易権、採掘、造船技術を得るために彼らを利用していたのである。
		利用価値がなくなれば、封建社会にとっては危険思想としてむしろ排除すべきものであった。ただその機会を伺っていたに過ぎない。
		慶長17年(1612)有馬晴信と岡本大八の内紛をきっかけとして家康はキリシタン禁止の方向へ向かう。棄教しなかった旗本14名を
		追放。利家の後を継いだ息子の利長でさえ、右近に棄教を求めた。慶長18年、各地で迫害が荒れ狂うが、ますます信仰を燃やすキリ
		シタンに、家康は怒り「伴天連追放令」を発布。伴天連の国外追放とともにキリシタン宗門の全面的禁圧を命じた。

		慶長19年(1614)、徳川幕府から国外追放を命ぜられて金沢を離れた62歳の右近は、20数年ぶりにはるか淀川の対岸から旧領地
		高槻を望みながら大坂に下り、さらにここから長崎を経由して遙かマニラへ流されていった。

 


		家康に追放された右近一行は、慶長19年(1614年)11月21日、長崎を発って43日後にマニラに到着した。フィリピン側の記録
		では、ルソン総督を始め全マニラは偉大な信仰の勇者を歓迎、船が入港したとき岸は市民が埋め尽くし、礼砲を撃ち、国賓並みの歓迎
		であったという。総督はスペイン国王の名において手厚くもてなすと宣言。しかし右近は、主のために命を捧げようとしたが、それも
		お許しにならなかったほどの拙い自分は、そのような名誉に値しないと辞退した。右近は金沢からの苦難の道中と過酷な船旅で疲れ果
		て、不慣れな南国の気候風土、食物で健康を損なって熱病にかかり、慶長20年(1615)年正月8日静かに息をひき取った。63歳。

		マニラ市をあげての盛大な葬儀が行われた。遺骸はサンタ・アンナ聖堂に納められ、9日間追悼のミサが続いた。家族は国会から年俸
		を受け日本人町で平穏に暮らしたと伝えられる。
		高槻市とマニラ市は高山右近が縁となって姉妹都市になっており、また、マニラの日比友好公園には、高槻市と同じ高山右近像が立っ
		ているそうである。

 


		宣教師フロイスが著した「日本史」には、高槻のことが以下のように記されている。

		「教会堂の廻りには非常に広い庭園が造られ、その周囲には美しい花のある緑樹が植えられた。そしてその横の大樹の真下には3段の
		台石に大きな木製の十字架が建てられ、その裏側には池を作って、魚を泳がせてあった。ヨーロッパにおいてもなかなか見られないよ
		うな美観を呈していた。」

		高山右近後の高槻城は、内藤、土岐氏などの譜代の大名にゆだねられ、慶安2年(1649)には永井直清が3万2000石で入封。以後
		明治まで永井氏の治世が続いた。江戸時代の高槻城は、東西510m、南北630m、三層の天守に高石垣、土居を構えた立派なもの
		で、現在城跡公園として整備されているのはかっての三の丸部分である。

 
		城跡公園の北入口には、工兵第四聯隊跡碑が立っている。明治42年〜昭和20年まで存在した兵舎の営門がこのあたりにあり、兵舎は
		かつて学校の校舎として使われていたが、今はモニュメントとして、この碑だけが残っている。園内には江戸中期の商家「笹井家住宅」
		が移築されており、歴史民俗資料館として公開されている。平成15年には、公園に隣接する第一中学校の裏手に「しろあと歴史館」
		もオープンし、高槻の古代からの歴史を学べるようになっている。






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