Music: A TASTE OF Honey

大阪府高槻市を訪ねる
吹田郷土史研究会例会 2005.5.7(土)



	かねがね、我が吹田市には歴史の愛好会がないのかなと思っていたら、家に配賦されてくるミニコミ紙にこの会の案内
	があった。早速参加したら、案の定メンバーの大半はリタイア組で、50歳代など洟垂れ小僧の趣だった。しかし講演
	会や展覧会など、例会は結構バラエティーに富んでいそうだったので、さっそく千円の会費を払って会員になった。
	これで歴史の会の会員になるのは4つ目だ。週末時間がないはずだ。ここ数年 BIRD Watchingにも参加できてないし。
	月曜日、会社に行くとホッとするもんなぁ。しかしまぁ、好きでやってるのだから仕方ない。それに歴史の会をやりだ
	して、近畿圏にめちゃくちゃ詳しくなったし、良しとしよう。

	高槻は他の例会でも来たし、我が歴史倶楽部の例会でも何度か訪れた。個人的にも古墳を訪ねて散策したのでいくらか
	は知っていたが、今日はまだ行ったことの無いところがあってなかなか楽しかった。しかし、もうちょっと若いメンバ
	ーが多くいればなぁ。

















 

阪急高槻駅に集合。カラリと晴れて少し汗ばむ程だった。





カトリック高槻教会





 


	<高山右近記念聖堂(カトリック高槻教会)>
 
	高槻カトリック教会内にある高山右近記念聖堂は、キリシタン禁制でマニラに追放された右近臨終の地、マニラ郊外アン
	ティポロの聖母大聖堂を模して建てられたもの。前庭には、イタリア人の彫刻家ニコラ・アルギイニの作品である、ひざ
	まずいて祈る高山右近の像がある。高山右近(たかやまうこん)は安土桃山時代の武将,茶人。キリシタン大名。初め摂
	津(せっつ)国高槻城主として織田信長に対抗したが,のち信長に従い,本能寺の変後は豊臣秀吉に属し明石城主となる。
	1614年、徳川家康のキリシタン国外追放によりマニラで没す。



	高山右近(長房)は、天文21年(1552)、摂津高山(現豊能郡豊能町)で生まれた。父の高山飛騨守(ひだのかみ)と
	父子ともに熱心なキリシタンで、城内に教会堂を建て活発な布教活動を行った。洗礼名ジュスト。
	高山右近は21歳から33歳までの12年間、摂津の国 高槻城主だったが、その間に、キリシタン大名として、戦国時代
	のさなか、イエス・キリストを愛した。2万5千人の領民のうち、1万8千人(72%)がキリシタンになったとパーデ
	レ神父が報告している。しかし、織田信長、豊臣秀吉の家臣として多くの武功を挙げたにもかかわらず、キリシタン禁制
	によりおよそ30年間の苦難の生涯を過ごし、信仰を貫き、最後はマニラに追放された。
 


	右近が高槻にいたのは12年間で、明石城主に転封され、その2年後にキリシタン禁令で大名を追われる。加賀国(今の
	石川県)の前田利家のもとに身を寄せるが、慶長19年(1614)、江戸幕府のキリシタン国外追放令によってマニラに追
	われ、その地で熱病により翌年没した。千利休の弟子として茶道にも優れていて、南坊等伯と号していた。
 


	高山右近は永禄6年(1563年)に洗礼をうけ「ジュウスト」の洗礼名をもつキリスト教徒であり、熱心に布教に努め、天正
	9年(1581年)にはイタリアから有名な巡察師ヴァリニァーノを招いて復活祭を催したという。それほどの熱心なキリス
	ト教徒であった高山右近は、かつての上司であった和田惟政の子、惟長を倒して高槻城を奪っている。戦国時代のキリシ
	タン大名達のキリスト教徒としての務めと、人を滅ぼしてまで城を乗っ取る行為とはどう折り合いが付くのだろうか?
 


	教会の門を入って直ぐ左手にイタリアの彫刻家ニコラ・アルギィニによって彫られた大理石の高山右近像(下の写真)
	がある。これはローマの高名な教会関係者から寄贈されたものといわれている。像の高山右近は手に十字架を持って
	おり、着衣も含め武士、城主というよりも、キリスト教信者という雰囲気が強い
 



野見神社








	<野見神社>

	文化ホールの南隣で商工会議所の西側、が野見神社である。野見宿禰(のみのすくね)を祀る神社で、 宇多天皇の頃
	(887〜897年)に創建されたと伝わる。野見宿禰は日本書紀の伝承上の人物で、出雲(島根)の出身で当麻蹶速(たい
	まのけはや)と力比べをして勝ったという説話が残る。その後、享禄、天文年間(1528〜1554年)の頃には祭礼も盛大
	に行われるようになり、歴代の高槻城主の信仰も篤かったという。高槻城主の和田惟政も篤く信仰していたが、その後
	城主となった高山右近は神社を取り壊してしまった。キリスト教徒の、他教に対する排斥・攻撃は、自らが被ってきた
	迫害に対する報復なのか、非常に辛辣なものがある。ブッシュのイラク攻撃などはその最たるものだ。何年経とうと、
	人の性(さが)は変わらない。

 

 


	元和5年(1619年)に当時の高槻城主松平紀伊守によって神社は復興され、更に慶安2年(1649年)には永井直清が城主に
	なり、神社の例祭も盛大に行われるようになった。上左の写真は現在の野見神社拝殿であるが、写真でもわかるように、
	最近建て替えられ、見た目にも新しい。 
	高槻城主となった永井家は220年間13代にわたって続いたとされており、野見神社は長年に亘り永井家の庇護を受
	けることになった。野見神社拝殿の東側境内に永井神社があり、永井家の祖先を祀っている。永井神社の東側に「永井
	先公遺愛碑」と彫られた石碑が建てられている。
 



 

 







高槻城跡





 


	高槻城は、平安時代に近藤忠範(ただのり)によって築かれたのが最初で、南北朝には入江氏の居城となり、戦国末期に
	は和田惟政(これまさ)が城主になった。和田惟政は永禄12年(1569)に高槻城主になったが、元亀2年(1571)に白井河
	原の合戦で戦死し、惟政の子、惟長が城主となった。その後、元亀4年(1573年)には和田惟政の家臣であった高山飛騨守、
	右近父子は和田惟長を滅ぼし、天正元年(1573年)に右近が高槻城主になった。高槻城跡公園の片隅小高い場所に高山右
	近の像が建っている。
	今の茨木市耳原にあたる白井河原の合戦で、将軍の足利義昭と織田信長が戦って織田軍が勝ち、織田軍に加担して戦った
	高山右近の父・飛騨守が元亀2年(1571)に城主になって、それを右近が継いだ。右近が高槻にいたのは13年間で、
	その後、新庄・内藤・土岐(とき)・松平・岡部氏と目まぐるしく城主が変わり、永井直清が慶安2年(1649)に入城し
	てからは安定し、明治維新まで13代続いた。明治維新後、高槻城は取り壊され、城の石垣は鉄道工事の用材などに使わ
	れた。明治42年(1909)には陸軍工兵隊の駐屯地となり、城跡は大きく変貌した。現在は城域の一部が城跡公園として
	整備され、市民らの憩いの場に変わった。



	槻の木高校の敷地の東側に隣接して、上右の写真に見られるように「高槻城跡」と彫られた石碑が建てられている。その
	石碑の南側に上左の写真に見られるような石組がある。この石は高槻城の天守台や本丸御門の基礎石であるという。



	キリシタン大名として有名な高山右近が13年間城主であった高槻城は、現在その姿は見られない。しかし今の城内町に
	かつて高槻城があったとされ、槻の木高校のある位置が本丸のあったところとされている。その東側の城跡は高槻城跡公
	園になっている。昭和50年に本丸石垣の基礎部分を発掘したが、今でも遺構が地中に埋もれているらしい。現在公園は、
	旧三の丸を中心に公園化しているが、石垣は東海道線建設のために使われたので一部を残すのみになっている。池や石を
	配した、緑のある明るい感じの公園である。なお、高槻城跡は現在大阪府史跡に指定されている。

	高槻城は平安時代に城が築かれたのが始まりと伝えられているが、城の存在が確認できるのは、14世紀の室町時代に
	入江氏がここに居城を構えてからである。当初は小さな館程度だったが、戦国の世、天正元年(1573)高山右近が
	町家も堀で囲い込んだ堅固な城を築いた。さらに徳川時代に入って西国ににらみを利かす拠点として、幕府による城の
	修築が行われた。3層の天守閣や高石垣、土塁をめぐらす、東西510m、南北630mの城域の強固な近世城郭だっ
	たことが発掘調査などで判明している。



	公園内には、市の文化財に指定された江戸時代の商家・旧笹井家を移築した 高槻市立歴史民族資料館がある。館内には
	生活用具や農具・漁具、特産の寒天製造用具、古曾部焼きなどが展示されている。古曾部焼きは素朴な落ち着いた色合い
	の焼き物で、かっては高槻の名産品だった。いまも小規模ながら窯は続いている。



	上の写真は、かっての日本陸軍の「陸軍工兵隊」碑の前で、吹田市の何とか(忘れた)いう小学校が空襲で倒壊した時、
	真っ先に駆けつけて修復してくれたのがこの師団だったという説明を聞いて、「ホォ−」とか「ヘェー」とか感心して
	いる会員たち。
 





本行寺







 

 



八丁松原






	<八丁松原>(はっちょうまつばら) 高槻市松原町〜八丁畷町 阪急高槻市駅より徒歩3分 

	豊臣秀吉が京の町づくりの際、洛中の周囲に「お土居」と称する堤塁を築き、洛外に通じる道を7つ設けて、俗に「京の七
	口」われ、丹波口、粟田口、東寺口などは有名である。
	阪急高槻市駅の東に真っ直ぐ南北に延びる「八丁松原」は、慶安2年(1649)高槻城主「永井日向守直清」が山城国より移
	封されたころ整備された松の並木道で、かつては高槻城から西国街道まで続いていた。京口より西国街道に通じる八丁
	(900m)の間にこの道路を新設し、同時に松数百本が植えられ、明治維新に到るまで城主永井氏代々により保護されてき
	た。
 


	近世、高槻の城下町には他領、他国から入る道が六つあった。高槻城下の六口も、絵図(『高槻市史』第四巻(二)史料篇
	V所収「高槻城および城下絵図」)でみると、各々竹矢来で仕切った木戸を設けてあり、常駐の「番所」があったと思われ
	る。まず城下の東側からみると、北から京口―今の京口長で円成寺門前の道を東へ5〜60mのところ、それから前島口―
	これは本町通りの高槻小学校北側、いわゆる一丁田の辻のところ、それと大塚口―八幡町から春日町へ抜ける道の是三寺門
	前の3つ。南側には大阪口(土橋町から下田部へ抜ける道の城南町1丁目境のところ)があり、西側には北の紺屋町の芥川
	口(新京町の西端、出屋敷につながるあたり)と南の富田口(高西町から城西橋につながる道の旧湯浅電池のあたり)。
	これが城下から外へ出る6つの口だった。
	京口は今もなお町名として残っているが、近世では藩主の参勤交代路として有名なところで、円成寺の東の辻を真北へ、八
	丁松原を抜けて、別所新町で西国街道に入る。はるか京へ続く口である。城内桜の馬場で終結した参勤交代の行列のにぎわ
	いは、西国街道の「別所新町」を成立させた。現在は八丁畷町、松原町にその一部が残り、当時の面影を偲ぶため復元され
	ている。  立派な松林が江戸時代の雰囲気を感じさせてくれる。
 







上宮天満宮








	<上宮天満宮>(じょうぐう てんまんぐう)高槻市天神町一丁目
 
	菅原道真と野見宿禰(のみのすくね)、武日照命(たけひでりのみこと)を祀る。旧島上郡の北部にあたり、その昔野見
	宿禰(後土師氏)一族の居住したところといわれる。式内野見神社を祀り、この場所に古墳があったと言う伝承が残る。
	縁起によれば、道真の霊を鎮めるため、正暦4年(993)に九州・大宰府に赴いた勅使が、帰途この地で急に牛車が動かな
	くなる異変にあい、調べたところ菅原氏の祖先とされる野見宿弥ゆかりの地であることを知って、この土地を「野見の里」
	と名付けてここに道真をまつったのだという。天正18年豊臣秀吉が社殿を修造、江戸時代には高槻城主永井直清が拝殿
	や石鳥居を建てたと伝える。元和5年各領主が社領を寄進し、明治12年郷社に指定され後昭和21年宗教法人になると
	共に、京都の北野天満宮より古いところから「上宮天満宮」と言われるようになった。
	『摂津名所図会』には、「上田邊村の上方にあり。此地の生土神(うぶすながみ)とす。(中略)社頭は豊臣秀頼公の再
	建なり。」とある。JR高槻駅北口から北へ歩いて約10分。
 


	<山崎合戦秀吉本陣跡の石碑>(上左)
	上宮天満宮(じょうぐうてんまんぐう)の石段の登り口に、秀吉本陣跡の石碑が立っている。柵で囲まれていて小さな石碑
	なので、うっかりすると見落としてしまう。天正10年(1582)織田信長が本能寺で討たれ、弔い合戦に馳せ戻った羽柴秀
	吉が山崎の戦いの陣をおいたところである。秀吉は此の場所に本陣を構えて采配を振るった。この碑は従来社頭に建てられ
	ていたが危険なため、境内神輿倉横に移転された。
 
	<菅公衣裳塚>(上右)
	太宰府へ流される途中、道真公の衣を埋めたとされる所の碑。道路を隔てた向側に、かつては其の塚とおぼしき土盛りもあ
	ったそうだが、或いは四代目子孫の菅原為理が、後に太宰府から持ち帰った遺品の衣を埋納した所かもしれない。


 



上の竹藪の方向に天王山がある。竹がなければ天王山の戦いの様子が一目瞭然だったことだろう。秀吉はここから戦いを見ていたのだ。




	ここが「式内野身神社」である。このあたり一帯が野身(見)一族の拠点であった事からここに神社がたっているが、下
	の石柱には「野見宿禰墳」とあり、してみると野見宿禰はここに葬られたという伝承が残っているのだろう。
 




	上宮天満宮は、大宰府に次いで古い全国2番目の天満宮という古い由緒を伝えている。前出「摂津名所図会」には、上宮
	天神の祠として記載され、「勅して菅神に贈官有りて、筑紫より神輿上洛し給ふ時、野身郷高月の領主近藤連忠範(こん
	どうむらじただのり)が家にて一昼夜滞留まします。其古跡なればここに祀るなりとぞ」とある。
	正暦4年(993)道真の霊を鎮めるため大宰府に赴いた勅使が、太宰府から京都への帰途、高槻の近藤連忠範の屋敷に一
	泊逗留した。ところが、出発の時、牛車が動かなくなったため、調べてみたところ菅原氏の祖先である土師氏がまつる野
	見宿弥(のみのすくね)ゆかりの地であることがわかったため、この地に道真をまつったのだという。また、「織田信長、
	寺社を破却(はきゃく)の時、天満宮と改むるものや」とあり、上宮天満宮という名称になった時期は、織田信長の時代
	であったと考えられる。


 


	本殿は火災により焼失し、のちに豊臣秀頼が社殿を建て直し、領地を寄進したといわれる。このときの本殿は平成8年に
	再び焼失、現在は日本で初めてという、竹で作られた珍しい新本殿に建て替えられている。本殿脇の石燈籠は昭和17年
	5月、国の重要美術品に指定されている。



	由  緒 
               御祭神  武日照命
                    野身宿禰命
                    菅原道真命

	日の神、武日照命の天降って鎮座された、此れの太古の杜、日神山一帯は弥生人の住居跡として銅鐸も出土し、南北に並
	ぶ四古墳のうち、中央の円墳上には式内古社の野身神社が在る。此地は「日本書記」が古代祭儀としての埴輪や相撲の逸
	話を記した野身宿禰を千数百年も前から斎き祀ってきた島上郡野身里である。
	彼の率いる祭祀者一族、土師氏は何百年か後に菅原道真、大江匡房始め平安時代に於ける史学、文芸学者たちを次々に生
	み出すが、殊に右大臣にまで昇った道真公は、然しその後天皇廃立に関わったとされ九州へ追放される。その死後百年近
	い頃、正暦四年(九九四)に正一位左大臣の位を遺贈する勅使として菅原為理が太宰府へと赴いた。御霊代など奉じての
	帰途、芥川を遡り当地の上田部(市役所西)に上陸し、領主近藤氏の城館に宿った。ところがいざ出立となると輿が動か
	ず、これを先祖と共に留まりたい霊意と排察して、里人が日神山上に天満宮本殿を造営し改めて三神を併祭し奉った。
	実際の創建はこれより五十年も早く、京都北野社鎮座以前であり、全国天神社のうち二番目の古社とされている。
	戦国の天正年間、豊臣秀吉は当社参道「天神馬場」に本陣を置き、明智勢を山崎天王山に討った。その戦勝を感謝して、
	後に秀吉は社殿を美々しく修造する。江戸初期には高槻藩主永井直清が拝殿を設け大鳥居も建立、時の天台座主親王天松
	院宮筆の神額を奉納した。古来、近郷の三島地方はもとより遠く京都、大阪始め北攝能勢や北河内方面の崇敬を集め今に
	至る。例祭「初天神」は、延々と露天の連なる京阪神きっての民衆的大祭である。 【上宮天満宮HPより】






芥川一里塚






	西国街道・芥川一里塚(さいごくかいどう・あくたがわ いちりづか) 高槻市芥川町三丁目他

	京都から太宰府へ伸びているから西国街道は、8世紀の山陽道の後身にあたり、約8.1kmにわたり高槻市域を東西に
	貫いている。西国街道は奈良・平安時代から西国へ通じ、山陽道として往来の盛ん重要路であった。京から大坂を通らず
	に山崎、芥川(高槻市)郡山(茨木市)、瀬川(箕面市)、昆陽(伊丹市)、西宮の6宿を経て最短距離で西国へ通じる
	街道だった。淀川とともに三島地域の政治・経済に大きな影響を及ぼした。

	芥川宿の発祥は12世紀頃からといわれており、現在の道筋は、14世紀ごろに固定化したとみられ、戦国時代には三好
	長慶や高山右近、さらには織田信長、豊臣秀吉らが駆け抜け、17世紀初めには徳川幕府により宿場町としての体裁を備
	え、西国大名たちの参勤交代のための本陣、旅籠などが置かれた。そして幕末には、尊攘派の三条実美らが長州に逃れた
	七卿落ちや、多くの勤王の志士たちも駆け抜けた街道である。江戸時代の正式な名称は山崎通(みち)で、高槻の芥川宿
	には本陣がおかれ、19世紀前半(天保年間)には旅籠が33軒、家数も253軒あった。



	西国街道(芥川宿と一里塚)

	芥川一里塚は西国街道の宿場町「芥川宿」の東口にあたり市域では梶原(太閤道の走る若山316m〜梶原山284mの南山裾・
	阪急上牧の西南)に有りました。街道の1里毎に塚を築き榎・松等を植えて路程の目印ととたもので、丹波・八上城下に
	も1里松の史跡が残ります。淀川とともに重要な交通路であった西国街道は、江戸時代「山崎通(みち)」といい、京都・
	山崎と西宮を 結ぶ脇街道として多くの旅人等に利用され、芥川は12世紀頃には既に宿(町)として成り立っていたが、17
	世紀初め徳川幕府によって宿場町としての姿を整え、参勤交代のための本陣や伝馬(公用の荷馬)、旅籠等が置かれ、享
	保19年(1734)の芥川宿絵巻には整然とした家並みや寺院・一里塚の様子が描かれています。芥川一里塚は平成5年3月、
	府の史跡に指定された。(大阪府教育委員会 高槻市教育委員会)



	芥川宿には今も1里(約4km)ごとに設けられた一里塚が残っている。市域では梶原と芥川にあったが。現在は旧芥川
	宿東口の東側だけに残り、平成5年3月に府の史跡に指定された 一里塚は街道の両側に塚を築き、エノキを植えて街道の
	路程の目印にしたものである。芥川宿には祠(ほこら)が建てられた一里塚が、街道南側のものだけ残っている。
 


	一里塚は豊臣秀吉が街道の距離の目印とするために、一里毎に作らせたのが始まりとされ、江戸時代に整備され一般的に
	なったようである。一里塚には祠を建て榎の木を植えるのが一般的であった。この「芥川一里塚」にも小さな祠があり、
	祠の後ろには榎の木が植えられており、一里塚の体裁が整えられている。かって「芥川一里塚」は街道を挟んで東西の両
	方にあったといわれているが、現在残っている塚は東側のもので、その西北の場所にあったとされている塚は現存してい
	ない。この塚から西側、西国街道沿いに宿場町「芥川宿」が拡がっていた。 
 


	現在の西国街道筋には古い家並みが若干残っており、かつての街道の面影を僅かに偲ぶことが出来るが、芥川宿当時の旅
	籠などは全く残っていない。 
 

これが、高槻市西部を流れる芥川。この上流へ登っていくと、藤原鎌足を葬ったとされる阿武山へ行く。



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