Music: 青葉茂れる

楠正行首塚

2006.Jan.12 From Mr.田原 廣(撮影)




	2006年の年が明けてまもなく、近鉄奈良線「額田駅」の近くに住んでおられる田原さんという方からmailをいただいた。
	「博物館めぐり」の「四条畷市歴史民俗博物館」に書いていた「楠正行」のフリガナが、(くすのきまさゆき)ではなく
	正しくは(くすのきまさつら)だとご指摘があった。他の部分では(まさつら)と書いているのに、ここだけ(まさゆき)
	となっていた。早速訂正したが、田原さんは家の近くに「楠正行の首塚」があるので、写真を撮ってきてやろうと仰って、
	程なく、ここに掲示した写真が送られてきた。このページの写真はすべて田原さんが撮影されたものである。近鉄奈良線
	「額田(ぬかた)駅」から東へ少し行ったところだという。田原さん、ありがとうございました。

 

東大阪市の額田駅から歩いていくと「楠木正行公の首塚」の小さな案内板がある。


	四条畷神社に「小楠公の墓」があるのに、何で「額田」に首塚が?と思ったが、田原さんはそのいわれはご存じないよう
	だった。しかし、現に四条畷市に小楠公の墓はあるし、宇治、京都の宝筐院(ほうきょういん)にも小楠公の墓があると
	のことなので、ちょっと調べてみることにした。そしたら、なんと、小楠公(楠正行)の墓と呼ばれるものは6ケ所もあ
	るのだった。

	・往生院境内(胴塚)(東大阪市六万寺町)
	・額田首塚(東大阪市山手町)
	・宝匡院首塚(京都市嵯峨野)
	・正行寺首塚(宇治市六地蔵附近)
	・四条畷墓所(四条畷市雁屋南町)
	・甑島墓所(鹿児島県上甑島)

	往生院境内の胴塚と額田の首塚は2kmほどしか離れていないので、組み合わせとしてはこの墓所の可能性が高いように
	思うが、しかし生前の正行と親交があった、夢想禅師の弟子「黙庵和尚」(善入寺)による、首と胴の埋葬という話も、
	ありえない話ではない。首級をいただいた黙庵が、京都嵐山の宝匡院に首塚を造ってそこに首を埋め、正行の菩提を弔っ
	たという。そして胴体を往生院境内に埋めたという。また宇治市六地蔵には、その名も正行寺という寺があり、随臣の安
	間了意が正行の首を吉野へ運ぼうとしたが、足利の軍勢に遮られたため、宇治の六地蔵に埋葬したという。
	四条畷の「小楠公の墓」は、これまで「四条・縄手の戦い」が現在の四条畷市付近で行われたと思われていたため、従来
	は一番可能性が高かったが、つまるところ、今となってはよくわからないのが実情である。鹿児島県の甑島(こしきじま)
	墓所というのは、正行生存説に基づいたものなので、これはちょっと眉つばものである。


 
	「首塚」のある場所の隣に鳥居があるが、額が外されており、ここに神社があったのか、あるいは、ここがかっては神社
	として祀られていたのか不明である。田原さんもわからなかったようだ。


	楠木正行(くすのきまさつら)は、正中元年(1324)、楠正成(くすのきまさしげ)の長男として河内に生まれる。幼少
	時を河内往生院などで過ごし、学問、武芸に励んだものと思われる。時代は南北朝の抗争真っ只中で、父、正成も千早赤
	坂城などで北朝軍と戦っていた。正成は、九州へ落ち延びていた足利尊氏が、まもなく勢力を盛り返し都へ攻め上がると
	の報を聞き、神戸湊川で最後の決戦を挑む。湊川への出発に際し、長男・正行と、桜井にて最後の別れをする。今バック
	に流れている曲、「青葉茂れる」は、この「桜井の別れ」を歌ったものである。
	(桜井についても、このHPで紹介している摂津の水無瀬と、東大阪の桜井と2ケ所の説があるらしい。)


			1.青葉しげれる桜井の 里のわたりの夕まぐれ
			  木下陰(このしたかげ)に駒とめて 世の行く末をつくづくと
			  偲ぶ鎧の袖の上(え)に 散るは涙か はた露か

			2.正成涙を打ち払い 我が子正行(まさつら)呼び寄せて
			  父は兵庫に赴かん 彼方の浦にて討ち死にせん
			  今しは ここまで来つれども とくとく帰れ故郷へ

			3.父上いかにのたもうも 見捨てまつりて我一人
			  いかで帰らん帰られん  この正行は年こそは
			  未だ若けれ諸共に 御供(おんとも)つかえん死出の旅

			4.今しをここより帰さんは 我私(われわたくし)の為ならず
			  己 討ち死になさんには 世は尊氏のままならん
			  早く生い立ち大君に 仕えまつれよ国のため

			5.この一振りの往にしとし 君の賜いし物なるぞ
			  この世の別れの形見にと 今しにこれを贈りけん
			  行けよ正行故郷へ 老いたる母の待ちまさん

			6.共に見送り見返りて 別れを惜しむ折からに
			  またも降り来る五月雨の 空に聞こゆる不如帰
			  誰か哀れを聞かざらん 哀れちになく その声を

 


	延元元年(1336)、楠正成は足利尊氏との湊川の戦いにおいて、新田義貞とともに壮絶な戦死を遂げたが、その後も正行は、
	楠木一族の頭領として南河内を中心に活躍し、北朝方の軍勢を悩ませた。湊川の戦いに勝利した足利方は、着々と幕府の基
	礎を固めたが、南朝方の動きについては絶えずその動向を把握し、楠木一族の河内での活躍に、いつ決戦を挑むか機会を窺
	っていた。そして、正平2年(1347)12月26日、尊氏は、高師直・師泰(こうのもろなお・もろやす)兄弟を中心とす
	る6万の大軍をもって、南朝討伐の兵を挙げた。その日、京都を出発した足利方6万の兵は、淀・八幡に着いた。対する楠
	軍は3千である。

 


	正行は27日、吉野の南朝皇居に馳せ参じ、後村上天皇に拝謁した。父・正成も、湊川の戦いへ赴く前に後醍醐天皇に拝謁
	し、決死の覚悟を伝えているが、太平記等々による忠義忠誠の様子は、親子二代まったく同じ構図である。正成は死出の旅
	に望んでの今世の別れだったが、おそらく正行も同じ覚悟だったに違いない。後村上帝は、「父と同じ道は歩んではならぬ、
	無理はせずに生きて帰るように」と正行を諭したといわれるが、圧倒的な兵力の差に、もはや正行も討ち死にを覚悟してい
	たはずである。吉野の如意輪寺に行くと、今も戸板に書かれた正行の辞世の歌が残っている。

	「かえらじと かねて思えば 梓弓 なき数にいる 名をぞとどむる」
 
	明けて正平3年(1348)1月2日、正行は幼少期を過ごした河内の六万寺・往生院(現東大阪市)に本陣を置き、5日早朝、
	一族郎党143人を含む3千の兵を率いて東高野街道へ打ってでた。押し寄せる数万の高師直・師泰軍と激しく戦い、劣勢
	ながらも兵たちは猛然と戦った。しかし、四條縄手での30数度に及ぶ戦いに、楠軍はついに刀折れ、矢尽きた。自身も全
	身に矢を射かけられ、ハリネズミのようになった正行は、もはやこれまでと、弟・正時と刺し違えて、戦に明け暮れたその
	短い生涯を閉じた。一説には、若干25(23?)歳の青年だったといわれる。 

 

首塚のそばに建つ「顕彰碑」。碑文は漢文。上右をクリックしてもらえば大画面になります。


			生駒山腹額田村松林中有石龕方二尺許風■雨蝕扉面
			所刻菊水微章糢糊可辧口碑傳為小楠公首級瘁埋之處
			真否未審而其為楠族遺蹟則不容疑也一帯之地俗呼山
			神自古多霊異人皆畏而敬之前歳村之有志欲有所表彰
			大正十三年一月會皇太子有納妃之慶乃醵金募財斫榛
			奉作道夷地僥以石垣以為一村表慶之霊域地係湯川松
			堂之有松堂喜賛其挙割地興之以成其志村人人山口前
			村長謂余記夫小楠公純孝精忠克扶翼 皇運千式微之
			時而今也 皇威赫々如日之最中 ■閨位定國礎念固
			芙抑扶翼 皇運者唯在忠孝之教感■民心耳表忠以表
			慶一村人之志真可謂和本也万書以誥後人
			    黄鵠 藤澤元? 枚岡村長大江幾太郎書之



	当用漢字にないもの、あるいはPCでどうしても出てこなかった字は伏せ字■にしてあるが、文章の大意は、

	昔からここ(額田村)に小楠公の首塚と呼ばれる石があるが、風雨でかすれているので、大正13年(1924)1月、に村人の
	有志が募金を募り、石垣など整え、これを記念し、碑を建てた、というもののようである。首塚がいつ頃から存在したかは書
	かれていないが、大正13年の時点でも風雨にさらされ、石龕の扉の菊水の模様は磨耗が激しいとあるので、相当前からここ
	にあったもののようだ。
 
 

住宅地の一角に小さな石龕(せきがん:石の厨子)が祀られている。上左は「山之神」。


	四條縄手の合戦で、往生院の伽藍も兵火に焼け落ちた。四條縄手は、今の四条畷市周辺との説が有力だが、実は東大阪市東
	部の四条・縄手地区周辺との説もある。近鉄瓢箪山駅から南へ10分ほど行ったあたりで、縄文時代の遺跡「縄手遺跡」が
	あり、いまここには東大阪市の埋蔵文化財センターが建っている。




	「正行の首塚」は石龕が安置されている。周囲は玉垣で囲われ、この塚は、地元では昔から大事にされていたとみられ、田
	原さんが訪れた日も献花されていたという。 

	ここの首塚は、おそらくその後の首実検で落とされた正行の首を、ここに埋めたといういわれなのだろうと思う。京都宝匡
	院の首塚は、その首が京都まで運ばれ、宝匡院に埋められたという由来に基づいているが、信憑性から言えばこの首塚の方
	が高いような気がする。首を落とされた正行の胴体は、黙庵和尚により往生院境内にひっそりと埋葬されたと伝えられてい
	るので、これはかなり信憑性が高い。胴塚という名前もそれを示しているように思える。
	前述したように、正行の最後の場所が讃良郡四条縄手(現四条畷市)ではなく、河内郡四条縄手(東大阪市四条町付近)と
	いう説に従えば、ここのほうが距離的には、京都の寺よりも真実味があるように思われる。

	田原さんのように、HPを見て近所の旧跡をレポートしてくれる人がいるのはありがたいことである。できれば自分で全部
	廻りたいのはヤマヤマだが、一人ではとても身が持たない。やがて、こういう投稿で全国の史跡・旧跡に行かなくても、現
	在の状態がお伝えできるようになればいいのだが、ってそれは虫が良すぎるか。

	田原さん、ありがとうございました。



	> 井上さん、こんばんは!
	>
	> 四条畷の戦いも一説によれば四条畷ではなく四条・縄手(東大阪市東部)ではないかという説もあるようです。それは
	>正行が六万字・往生院に本陣をおいていたことによるようです。往生院はこの首塚から約2Kmほど南に行った所にあり
	>ます。いずれにしましてもさして遠くない距離の所ですから、ここに首塚があっても不思議ではないと思います。
	>
	> 額田へはぜひお越し下さい。本当なら4月の桜のシーズンが一番よろしいかと思います。枚岡(ひらおか)公園や生駒
	>山麓一帯は桜の木がたくさん植えられており、吉野の桜にはかなわないかもしれませんが、非常に美しいですよ。
	>



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