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交野市歴史民俗資料室

2005.6.12 大阪府交野市







	2004.3.28(日)に、歴史倶楽部の弟82回例会として交野市を散策した。そのときは「交野古文化同好会」の村田さんと平田
	さんが一日案内してくれたのだが、その時ここに展示されている遺跡の幾つかを廻った。以下青字の部分はその時の解説をそ
	のまま転記してある。


	この地方は、昔から「かたの」と言われていたようだ。「交野」の名称は、和名抄に「加多乃」と見え、その名称の起源につ
	いては、丘陵と平地が交迭するからとも言い、また、淀川流域の低地から見ると丘陵上の平地とも見えるので「肩野」と称せ
	られたとも言うが、他の地域と同様に定かではない。本来、「かたの」地方として通っていたが、一時期「こうの」村と呼ば
	れた時期もあった。







旧石器時代・縄文時代







	交野に人が住み始めたのは、今からおよそ2万年前頃とされ、縄文時代の遺跡として「神宮寺遺跡」、弥生時代の遺跡では
	「南山遺跡」、「星田坊龍遺跡」などがある。その後、交野物部氏の祖先伊香色雄命(いかしこおのみこと)が、天野川流
	域に住み、農耕を広めて古墳を築いたとか、交野忌寸(かたのいみき)の祖、漢人庄員が一族を率いて帰化し、倉治の山麓
	に住みつき、機織の技術を伝えたという話などが残っている。また、「磐船神社」の由来も有名である。ニニギの尊が天孫
	降臨に際して使用した「天の磐船」がご神体となっている。













弥生時代











	南山弥生遺跡。鍋塚古墳に隣接している。標高215mで、ここから弥生土器が多量に発見された。昭和34年の大雨の際、
	流れ出た土砂の中から多量の土器が出土したのだ。資料には「弥生住居跡」と書かれているが、住居が在った跡は確認され
	ていないようである。ただ土器が多量に出てきたので、弥生人がハイキングに来たわけでもなさそうだ。狩場の一時的なキ
	ャンプ地だったのかもしれない。河内平野を一望できる立地から、監視所とか烽火を上げる通信基地だったと言う説が有力。
	尾根から降りてきた所に「南山弥生時代住居遺跡」の石柱が立っている。











古墳時代











	<交野車塚古墳群>

	東車塚古墳群は交野市南野10番地にある。現在の府立交野高校の校地内と北側の古墳群を言う。昭和47年、交野高校が建設
	されることになり、事前に試掘され発見された。5世紀初頭から6世紀頃の5基の古墳群からなる。交野東車塚南古墳は、他で
	は類例のない四隅が四角の周溝を有する円墳で、その形から「日の丸古墳」と言われる。北辺27.5m、南辺26.5m、東
	辺27.4m、西辺28.8m、その中央に直径22.4mの円墳がある。また、東車塚古墳は、5世紀初頭の時期のものと考
	えられており、周辺域でも確認例のない前方後方墳(墳長65m、後方部の高さ約6m、後方部幅33.55m)で、筒型銅器・
	巴形銅器・石製腕飾類など多数の遺物が出土している。中でも、単甲は襟付三角板革短甲と呼ばれるタイプの一種で、全国でも
	20例ほどしか出土していない。










	大阪府教育委員会による発掘調査で、円墳4基が校舎建設予定地から出現した。中近世には水田として利用されており、その為
	か、墳丘上部は削り取られてしまっていたが、この円墳4基、前方後方墳1基、方墳1基(民有地)の合計6基から成り立つ古
	墳群は車塚古墳群と名付けられ、広く知られる事になった。その後、円墳4基のうち、墳丘部が円形で周溝部が正方形の方形と
	いう珍しい古墳を持つ東車塚南古墳は、「日の丸古墳」と呼ばれて盛り土をして築造時の姿に戻した上、更に上に土を盛ってテ
	ニスコートの下に保存される事になった。それ以外の3基の古墳は校舎建設に伴い消滅してしまった。








	昭和63年から平成元年にかけて、交野市の緑地整備事業が行われ、車塚古墳群の東車塚古墳が調査された。その結果、東車塚
	古墳は全長58m、前方部25m以上、後方部33mの前方後方墳で、2段のテラス面が検出され、3段築成であったことが推
	定された。2段目のテラスには10cm間隔で円筒埴輪が並べられていた跡があった。内部には割竹形木棺の上に、箱式木棺2
	棺が並列しておかれていた。割竹形木棺は、長さが8.1m、幅0.8mという巨大なものだった。水銀朱が棺底を全面的に覆
	い、その上に、珠類、刀剣類、鏡3面(1面は四乳四獣鏡、1面は獣形鏡、1面は盤龍鏡)、巴形銅器、筒型銅器、三角板革綴
	襟付短甲、三角板革綴衝角付冑、石釧、琴柱形石製品、鉄製農耕具等々が遺物として残っていた。その配列から被葬者は複数で
	あろうと推定された。また木棺は粘土かくで包まれていた。




















	<大畑古墳>
	交野で一番新しい古墳で、7世紀頃の築造とみられているが、今は住宅の下である。しかしながら、後円部を取り囲むようにし
	て道が巡っており、前方部突端の「落ち」もハッキリ残っている。寺村古墳群に属し、弥生時代の遺跡検出に伴って発見された。














	森古墳群は、前方小上園分4基、円墳1基から構成されているが、土器発見地点から更に山奥へ600m進んだ標高143mか
	ら155mの場所で、雷塚古墳が発見された。全長160m、後円部経56m、前方部先端幅32m、くびれ部幅22m、尾根
	の地形を巧みに利用した前方部2段、後円部3段の段築が形成されている。特に後円部に比べて前方部の幅が小さく、高さが極
	端に低い点(平田さんの話では、後円部と前方部の高さの差は15mもある。)、前方部が三味線のバチのように開いている点、
	墳丘部に埴輪や葺き石などが見られない点などが、前期古墳の中でもさらに古い部類に属するのではないかと見られている。



森古墳群地図




	<雷塚古墳>

	森古墳群の中にある最大級の前方後円墳。古墳時代前期(4世紀)の築造と考えられ、卑弥呼の墓といわれる奈良の桜井・箸墓
	古墳と同じくバチ型の古墳である。全長106m。この古墳発見の契機は小学生だった。化石探しに夢中になっていた小学生3
	人が交野市森地区の山中で土器のかけらを発見したのである。とりあえずの位置確認調査が行われ、昭和57年、向井山、卵塔、
	大知谷、ゴミケ谷にかけて五つの前方後円墳が発見された。その中でも最大の大きさを持つのが雷塚古墳だが、周囲に陪塚と見
	られる円墳も見つかっている。少年達が発見した土器は、二重口縁を持つ壺型土器の破片であった。この土器の形式は古く、ま
	だ円筒埴輪が出現する前の時期である。これから古墳時代も前期に近いと推定されているが、本格的な発掘調査はまだ実施され
	ていない。












	この森古墳群というのは相当に古そうである。こんな山中に、自然の地形を利用しているとは言え、100m前後の大きさを持
	つ古墳を幾つも築造するというのは尋常ではない。古代、相当に大きな勢力を持った一群がこの山麓で勢力を張っていたに違い
	ない。古墳の主は一体誰なのか。どこから来てこの交野に根付いたのであろうか。大和朝廷へと発展する大きな流れの中にこの
	一族はいたのだろうか。




	<鍋塚古墳>

	南山弥生遺跡のすぐに、交野市最古の古墳と言われる「鍋塚古墳」がある。前方後方墳で4世紀初めの築造と考えられている。
	南山弥生遺跡は古くから遺跡として知られていたが、ここに防災施設の無線基地を建設することになり、その為の事前発掘調査
	を行った所、それまで南山遺跡の西に位置する古墳時代後期の群集墳の一つと考えられていた鍋塚古墳が、実は全長65m、後
	円部経34.2m、前方部幅28m(推定)、くびれ部幅16mの前方後円墳であることが判明した。しかも墳丘の埴輪も見あ
	たらず、主体部と思われる位置に露出している板状の割石から、竪穴式石室を持った古墳ではないかと推定され、同じ森古墳群
	のなかで最大長を持つ雷塚古墳よりも古いのではないかと考えられる。







飛鳥・奈良時代







	奈良時代の大化の改新により、天野川流域にも条里制がしかれた。そこから変化した名称も、私部の「ちょうどおり」、石ヶ坪、
	鳥ヶ坪、九ノ坪などの地名として残っている。大化の改新では、国には国司、郡には郡司を置いた。河内は南に国府ができて、
	その下に多くの郡を設け、北部には茨田(淀川付近)、讃良(四条畷方面)、交野(交野丘陵)の三都が置かれ、それぞれの要
	衝に郡衙(ぐんが)ができた。そこには郡内の貢物を集めて貯蔵するための郡倉が多く建ち並んで、その地方での小都市的な集
	落ができていた。現在地名として交野に残る「私市(きさいち)」は、かってここが皇后領だった事から「きさいうち」と称し、
	のち「きさいち」と変化したものと思われる。皇后領廃止後もその名称は残ったと考えられる。











平安時代







	平安時代、天野川の水辺や丘陵地帯は狩猟に適し、天皇、皇族、宮廷人がたびたびこの地方を訪れたと、続日本記、日本後記に
	記録がある。その後、応仁の乱では交野も戦乱の渦中に巻き込まれたが、徳川時代に入ると、当地方は幕府直轄の代官と譜代諸
	候の支配を受け、以後300年間、ささやかながらも泰平の生活が続いた。明治維新以後、堺県、河内県と管轄が変転したが、
	明治14年大阪府管下となり、同22年市制町村制が公布され、交野村(私部、倉治、郡津)、磐船村(傍示、森、寺、私市)、
	星田(ほしだ)村ができ、昭和14年、交野村と磐船村が合併し交野町(かたのちょう)となり、その後、昭和30年、町村合
	併促進法の施行により、交野町と星田(ほしだ)村が合併し新しい交野町となり、昭和46年11月3日市制を施行し、交野市
	として新しい時代を迎えた。













鎌倉・室町時代
























江戸時代





































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