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大阪府枚方市「淀川資料館」
2000.12.10(日)


	琵琶湖の水は京都、大阪のみならず神戸の上水道も一部まかなっているが、特に大阪府は、琵琶湖とそこから流れる淀川に
	全ての水を頼っていると言ってもいいほどだ。
	淀川は古くから水運に利用されており、また、灌漑、発電、上水道、工業用水道などの多くの目的にも利用され、関西地方
	における社会、経済、文化の発展に大きく貢献してきた。反面、例年の洪水の脅威から生命・財産を守るため、人々は昔か
	らその時代の技術および財政的水準に合わせた治水工事を行ってきた。仁徳天皇の時代の茨田の築堤から、秀吉による文禄
	堤の築堤など、古代より幾度となく治水事業が行われて来たのである。
	また近代に入ってから国は、諸外国から技術者を招き、本格的な河川改修事業に乗り出した。我が国に置ける近代的治水事
	業の始まりは、この淀川なのである。以来120年を経て、この資料館のある「淀川事務所」は、建設省の中でも一番歴史
	の古い事務所として、現在もその活動を続けている。この資料館は、そんな淀川の歴史と水のあらましを、豊富な資料やパ
	ノラマ等で広く一般市民にも理解して貰う目的で開設されたもので、ここにくれば淀川の歴史と役割を学ぶことができる。

 


	淀川河川敷の堤防の脇にこの資料館はある。建設省の事務所の一角にあり、資料館の職員も建設省関係の人達だ。
	下で説明してくれているオジサンも、元は技術屋さんで河川工事の設計図を書いていたと仰有っていた。でも歴史にも詳し
	かった。

 



 

 






	下右は我が国初の河川計画設計図。明治 6年に来日して、30年間日本に滞在したオランダ人技師ヨハネス・デ・レーケが描
	いたもの。彼は淀川の改修のみならず、明治元年の「大阪湾条約」の発令に伴って、大阪湾に大型船が入港できるようにす
	るために12年もかかって構想を練り、淀川近在のハゲ山の改造から取りかかり、30年かかって大阪湾を今のような深い海に
	した。それまでは、淀川を始めとする近郊の川から流れ込む土砂に埋もれて、大阪湾は遠浅の干潟のような海だったのだ。
	国土の大半が海面下という故郷オランダで学んだデ・レーケは、土木一般に広い知識と技術を持っていて、日本に土木工学
	の基礎を築いていったと言えるだろう。伊藤博文も大変信頼していた彼が30年後に日本を去るとき、明治政府は5万円と
	いう退職金を支払って彼の功績に報いている。今の貨幣価値に直せば5億円である。

 

 




	デ・レーケの基本設計の後を受けて詳細な設計をしたのが、下左の沖野忠雄博士である。フランス留学から帰った氏は、デ
	・レーケの設計を元に、淀川周辺にその機能を果たすための多くの建物を建てていった。淀川総合開発とも呼べる事業を展
	開し、その為今日では淀川の祖としてはこの沖野博士の方が知られているが、その礎はデ・レーケである。
	13年掛かった淀川改修工事は、近隣住民がそれまで毎年被害を被ってきた洪水災害をゼロにし、水利を巡って問題が絶えな
	かった近在農業の水問題を解決した。また、京阪電車もようやく走ってはいたが、まだまだ水運による運送が主流だった大
	阪北東部の輸送量を飛躍的に増大させたのである。枚方の宿場町にも多くの船宿があり、船宿の下からすぐ淀川へ船で出れ
	るようになっていた。今でもその名残をとどめている船宿の跡を、この資料館の近くで見ることができる。

 

淀川に住む多くの小動物たちを特集した自然コーナーも充実している。

 





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