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藤井寺市・羽曳野市の文化財を訪ねて 2005 5 8(日)郷土の文化財を見学する会




仲哀天皇陵(岡ミサンザイ古墳)





上右の写真は、クリックして貰えば大きい画像になります。


	仲哀天皇陵

	天皇は父日本武尊にあこがれ、父の魂は白鳥になって天に昇ったと信じ、全国から白鳥を集め、父の陵の周囲にはなして
	心を慰めようとする。各地から白鳥が献上されてきたが、宇治川のほとりで、蘆髪浦見別王(あしかみのかまみわけのみ
	こ)が献上途上の白鳥を、「白鳥も焼けば国鳥じゃ」といって略奪する。報告されて激怒した天皇は兵隊を送って蘆髪浦
	見別王を殺害した。

	仲哀天皇2年2月、天皇は敦賀に移る。角鹿笥飯宮(つぬげのけひのみや)を造営し、淡路に屯倉(みやけ)を定めた。
	翌3月に天皇は南海道へ行幸し、徳勒津宮(ところつのみや)で各地からの朝貢を受けたが、熊襲は朝貢してこなかった。
	そこで熊襲を征伐する決意をし、敦賀から来る皇后と長門で落ち合い、穴門豊浦宮(あなとのとゆらのみや)から筑紫の
	橿日宮(かしいのみや)を目指した。

	神功皇后は神託を告げる巫女のような役割を持っていたと考えられ、熊襲征伐の途上、「新羅を征伐せよ」との神託を受
	ける。それによれば、熊襲の土地は荒れておりわざわざ天皇が行く意味はない。それより海上の新羅は、まばゆいばかり
	の黄金で満ちあふれており、戦わずして手に入れられるばかりか、それによって熊襲も服従するであろうというものだっ
	た。神は天皇に、船を用意するよう告げた。

	しかし、仲哀天皇は山に登り大海原を見たがそのような国は見えないと神託を信じず、神の怒りに触れて、熊襲鎮圧途上
	に筑紫で急死した。神の怒りに触れて矢で腹を射抜かれたとか、琴を引いている時に急死したとか、武内宿禰が取りなし
	たとかいう話が伝わっているが、遺体は豊浦の地で仮埋葬され、後に藤井寺の方へ正式に埋葬されたと伝わる。
	この前後の神功皇后譚は「番外編:神功皇后」のコーナーに譲る。

	なお、この仲哀天皇と前代の成務天皇も、崇神王朝−すなわち三輪王朝が衰え、次の応神王朝に移行する間の系譜の乱れ
	を整える為に創り出された架空の天皇とする説もある。
	江戸時代には、この仲哀天皇陵は高向王(たかむこのおおきみ)の墓と言われていたようである。『河内志』によれば、
	江戸幕府が綱吉の時代に誤って比定し、錦部郡上原村の古墳を仲哀天皇陵墓としていたようだ。その後文化5年(1808年)
	に書かれた蒲生君平の『山陵志』や慶応2年(1866年)の平塚瓢齊の『聖蹟図志』で、仲哀天皇陵の錦部郡上原村説が完
	全に否定され、この古墳が仲哀天皇陵とされた。









 


	<岡ミサンザイ古墳> 所在地:大阪府藤井寺市藤井寺4丁目

	羽曳野丘陵の北東部外縁に築造され、墳丘長242mの前方後円墳。古墳の大きさでは全国18位。古墳時代後期の築造
	と思われる。
	大阪府藤井寺市に位置し、宮内庁により、仲哀天皇陵の比定されている。平成8年に実施された宮内庁による発掘調査で、
	墳丘は中世に城郭として利用され、大規模な改変を受けており、古墳本来の姿を大きく失っていることが判明した。
	前方部を南南西に向け、墳丘は三段築成で、くびれ部東側のみに造出しを備え、主軸線上で幅50mを測る、幅広の濠と
	堤を周囲にめぐらせている。墳丘には明瞭な葺石を施していない。
	内部施設や副葬品については不明だが、外堤上で実施された発掘調査では円筒埴輪列が確認されている。また、東側外堤
	上では、濠の掘削に伴う湧水を段丘崖に排水するため開削されたと推定される大規模な溝が検出され、大型前方後円墳の
	築造過程を理解する上で重要な成果となった。
	墳丘と外堤から出土した埴輪は共通の特徴をもち、窖窯で焼成された製品で、円筒埴輪のほか盾等の形象埴輪が出土して
	いる。築造年代は、墳丘に明瞭な葺石を施さないこと、出土埴輪の特徴が市野山古墳より新しいことなどから、5世紀後
	葉から末頃に比定され、市野山古墳(允恭陵)よりも新しくボケ山古墳(仁賢陵)よりも古い様相がうかがえる。仲哀天
	皇との年代とは一致しない。この陵は雄略天皇陵という意見が多い。





 










割塚(わりづか)古墳





  


	<割塚(わりづか)古墳>

	岡ミサンザイ古墳の周濠東南隅から東へ50mにある方墳。住宅地の駐車場の中に唐突にある。現在は一辺25m高さ3m
	だが、本来は北側に隣接した岡古墳と同規模の一辺33m高さ5mあったと、説明板にある。

 


	鉢塚(はちづか)古墳と割塚(わりづか)古墳 
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	 大型の前方後円墳である岡ミサンザイ古墳の北側に鉢塚古墳が、また東側には割塚古墳があります。前者は国の史跡に、
	後者は大阪府の史跡に指定されています。では、この二つの古墳とその周辺について紹介します。

	 岡ミサンザイ古墳は、藤井寺市の南西部、藤井寺4丁目の住宅地の中にあります。墳丘の長さが242メートルの大型の前方
	後円墳で、5世紀末から6世紀の初めに造られたと考えられています。鉢塚古墳は、岡ミサンザイ古墳の北側約100メートルの
	ところにある墳丘の長さが60メートルの前方後円墳です。前方部は西を向いています。表面の土の流出などで、もとの形は
	やや不明瞭になっています。
	 墳丘のまわりには濠がめぐっていましたが、現在は埋め立てられ、その上に藤井寺西幼稚園が建っています。埋葬施設や
	副葬品などは分かっていません。しかし、墳丘に石を葺いた形跡が認められないことなどから、同古墳は、5世紀末から6世
	紀初めに造られたものと思われます。
	 割塚古墳は、岡ミサンザイ古墳の東側約50メートルのところにある一辺30メートルの方墳です。この古墳も内容はよく分
	かっていませんが、4世紀末から5世紀初めに造られたと考えられています。
	 また、開発などのために消滅してしまいましたが、岡ミサンザイ古墳の周囲には、ほかに、落塚古墳という径20メートル
	の円墳と、岡古墳という一辺33メートルの方墳がありました。前者は5世紀末から6世紀初めに、後者は4世紀末から5世紀初
	めに造られたものと思われます。
	 ここまで読まれてもう気付かれたと思いますが、岡ミサンザイ古墳と鉢塚古墳、落塚古墳は同時期に造られたものなので
	す。また、割塚古墳と岡古墳はそれよりも1世紀も前に造られたことになります。つまり、同じように岡ミサンザイ古墳の
	周囲にある中型や小型の古墳でも、それと同時期に造られたものとそうでないものとがあるのです。
	 岡ミサンザイ古墳と同時期に造られた鉢塚古墳と落塚古墳は、同古墳の陪塚として理解できます。そして、両古墳に葬ら
	れた人物は、岡ミサンザイ古墳に葬られた人物と生前に密接な関係があったことが分かります。
	 これに対して、割塚古墳と岡古墳は周辺に同時期の前方後円墳が存在せず、陪塚として造られたものではないのです。し
	かし、方墳という墳形からも分かるように、前方後円墳を頂点とした、墳丘の形によって表現された身分の枠組みに組み込
	まれていたということは想定できます。
	 現在の鉢塚古墳と割塚古墳は、住宅地の中にひっそりとたたずんでいます。しかし、それぞれの古墳が造られた背景に思
	いをはせると、当時の情景が目に浮かんでくるようです。  

	藤井寺市教育委員会 教育広報『萌芽』第20号 平成12年2月号より




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