館内のレイアウトは前回とはだいぶ変わっていた。正面に大きな四条畷市内の遺跡分布図が掲げて ある。展示室への廊下の端に「雁屋遺跡」から発掘された弥生人の全身骨格が置かれている。
木棺の横に置いてある半身大の板に使者を乗せて、この木棺の安置されている場所まで運んだようだ。 この木棺は相当な重さで、この中に使者を入れて運ぶことはとうてい不可能と言うことらしい。壁の 説明図にその様子が描かれているが、この館内やパンフレット類に書かれているイラストは、すべて この館の佐野さんが描いたもの。
四条畷市専光寺跡で田原城主のキリシタン墓碑が出土した。出土地は田原城主一族の菩提寺「千光寺」 としてよく知られている。 調査中の平成14年2月14日、この寺跡の土塀の内側に当たる場所から「天正九年(1581)辛巳 礼幡(レイマン) 八月七日」の銘がきざまれたキリシタン墓碑が出土した。(現在のところ、日本 最古のキリシタン墓碑である。) フロイス日本史にレイマンの記述を発見したことから、洗礼名の《礼幡》はレイマンと読むことが判 明した。同書には、「天正3年(1575)。信長が京の相国寺慈照院に宿泊したとき、池田丹後之守、 三ケマンショ、結城ジョアン、田原レイマンなど、主だったキリシタン武将が挨拶に出向いた。」と ある。キリシタン墓碑が発掘調査で発見されるのも稀なことだが、フロイス日本史記載名と一致する のはごく珍しい。田原城主の《礼幡》が亡くなった年はキリスト教の全盛期で、菩提寺の千光寺に手 厚く葬られていたが、禁教令によって人の目をはばかり、元の位置から移動され、土塀の端の地中に 埋められた。