Music:End of the World

四条畷の遺跡を訪ねて

四条畷市立歴史民俗資料館








ここを訪れるのは2回目だ。前回は「馬がやってきた」展をやっていた。今日の資料館は花に囲まれている。




		館内のレイアウトは前回とはだいぶ変わっていた。正面に大きな四条畷市内の遺跡分布図が掲げて
		ある。展示室への廊下の端に「雁屋遺跡」から発掘された弥生人の全身骨格が置かれている。



 

これが展示室の全体である(下)。狭いが展示品はそれぞれの時代ごとに要領よくまとめて展示してある。



 

 
		木棺の横に置いてある半身大の板に使者を乗せて、この木棺の安置されている場所まで運んだようだ。
		この木棺は相当な重さで、この中に使者を入れて運ぶことはとうてい不可能と言うことらしい。壁の
		説明図にその様子が描かれているが、この館内やパンフレット類に書かれているイラストは、すべて
		この館の佐野さんが描いたもの。
 

 

野島さんの説明を聞く今日の参加者達。この後この博物館の中や周辺で昼食。







  

 

 

上右の「鳥」形木製品が、冒頭の方形周溝墓の木棺の脇に置かれていた。使者を運ぶ鳥。

 

 

 

 



こういう準構造船で、一艘に一匹ずつ馬を運んできたのではないか、と野島さん。

 

上左から馬に当てるムチと馬ブラシ。右側は馬の埴輪と、「子犬」か「馬の赤ちゃん」かでモメた埴輪。





 







上左の「琴を弾く男」の埴輪。このサイズは珍しいし、音楽している埴輪自体も、全国でもそう多くはない。



 



 





 

 

 



 


		四条畷市専光寺跡で田原城主のキリシタン墓碑が出土した。出土地は田原城主一族の菩提寺「千光寺」
		としてよく知られている。
		調査中の平成14年2月14日、この寺跡の土塀の内側に当たる場所から「天正九年(1581)辛巳 
		礼幡(レイマン) 八月七日」の銘がきざまれたキリシタン墓碑が出土した。(現在のところ、日本
		最古のキリシタン墓碑である。)
		フロイス日本史にレイマンの記述を発見したことから、洗礼名の《礼幡》はレイマンと読むことが判
		明した。同書には、「天正3年(1575)。信長が京の相国寺慈照院に宿泊したとき、池田丹後之守、
		三ケマンショ、結城ジョアン、田原レイマンなど、主だったキリシタン武将が挨拶に出向いた。」と
		ある。キリシタン墓碑が発掘調査で発見されるのも稀なことだが、フロイス日本史記載名と一致する
		のはごく珍しい。田原城主の《礼幡》が亡くなった年はキリスト教の全盛期で、菩提寺の千光寺に手
		厚く葬られていたが、禁教令によって人の目をはばかり、元の位置から移動され、土塀の端の地中に
		埋められた。








  
邪馬台国大研究・ホームページ / 歴史倶楽部 / 四条畷の遺跡を訪ねて