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安土城、ただいま復元中
2000.3.23 滋賀県安土町







	信長の死とともに安土城天守は炎上する。その後400年あまりの間、安土城は鬱蒼たる樹木と堆積する土砂に埋もれて、
	往時を偲ぶものはわずかに樹間や土砂からかいま見る石段や石垣だけとなってしまう。石垣を多用し空前の規模と構成
	を誇った名城も、荒れ放題となっていたのである。滋賀県では、昭和35年から40年にかけて二の丸下の整備や石段の整
	備を行った。私はwifeと一度10年以上前にここを訪れたことがある。石段も整備されておらず、山登りと殆ど変わらな
	い遺跡めぐりであった。その後滋賀県では、平成元年から20年計画でこの名城の整備に取りかかっている。綿密な発掘
	調査と文献調査を繰り返し、判明した部分から復元作業が行われている。	平成11年度は「伝前田利家邸」の石垣
	の整備だった。今年は「伝羽柴秀吉邸」や「武井夕庵邸」等を整備している。
	本丸へ至る石段も相当整備されている。しかしまだ上部には織田一族や「森蘭丸邸」などもあり、まだまだ時間がかか
	りそうである。一緒に行った部下の貝阿弥君は「ジェツト機1台買うの止めて、ここをもっと整備すべきですよ。」と
	怒っていた。まったくだ。

 












 



 




伝羽柴秀吉邸跡

 

 

 

   





 



 

 

 










黒金門跡

 

 

 


二の丸跡&信長御廟



 




本丸跡

 

 

 

 













	安土城の変遷
	
		天正4年(1576)	正月17日  信長、安土城築城を命ず。総奉行丹羽長秀。信長43才。
				2月23日  信長、岐阜より安土城に移る。
				4月1日  天守閣の石段を積み始める。
		天正7年(1579)	5月11日  天守閣竣工し、信長天守へ移徒(いし)す。
		天正9年(1581)	9月    天守閣、内装も完成。
		天正10年(1582)	5月17日  明智光秀に中国出陣を命ず。信長49才。
			 	5月29日  信長上洛し、本能寺に入る。
				6月2日  明智光秀本能寺を襲う。信長自刃す。(本能寺の変)
				6月3日  蒲生氏郷により、信長の妻子日野城へ退避する。
				6月4日  豊臣秀吉、毛利と和睦し、軍を返す。
				6月5日  明智光秀、安土城へ入る。
				6月8日  明智光秀、安土城を出る。
				6月13日  明智光秀、山崎城で豊臣秀吉等に破れる。(山崎の合戦)
				6月15日  安土城天守閣炎上。
		天正11年(1583)	正月    織田信雄、清洲より安土に移る。
				2月    豊臣秀吉、二の丸跡に信長廟所を造営。
				6月 2日  一周忌の法要。
		天正12年(1574)	4月    秀吉と家康が小牧長久手の戦い。和睦。信雄は豊臣政権と協調し、安土城下の
					  再建かなわず。
		天正13年(1585)	8月    豊臣秀次、八幡城を築城。安土の城下をそっくり八幡へ移す。安土は衰退の一
					  途をたどる。

		
	安土城天守の焼失については諸説あるが以下の2説が有力。
		(1).明智勢の守る安土城に攻めてきた織田信雄の兵が放った火により焼失。
		(2).光秀の敗退を聞き、安土城にいた娘婿の明智秀満(ひでみつ)が退却する際、火をかけ焼失。
	通説としては(2).が広く流布されているが、真相は闇の中である。




	よみがえった「行幸御殿」安土城発掘調査でわかった事藤村泉(滋賀県安土城郭調査研究所所長)
	
	近世の幕開けを告げるシンボル的存在であった安土城。その真の姿を明らかにすべく1989年度から20年計画で開始した
	発掘調査は、昨年から計画の後半に入った。これまでに大手道などの城内主要道とその道沿いに点在する郭群の調査を
	終え、95年度からは信長の生活空間である城郭中枢部の調査に取り組んでいる。昨年度の調査地区である本丸跡は41年
	に滋賀県が行った調査によって、東西34b、南北24bの範囲にわたって礎石が残存している事が確認されているものの、
	一部に未調査区があり、その全容の解明は後世の調査に委ねられていた。60年ぶりに実施した今回の調査によって本丸
	遺構の全体像が明らかになった。
	本丸跡は西を大手台、北を本丸帯郭、東を三の丸各石垣で囲まれた1800平方bほどの平たん地で、南方に向かってのみ
	展望が開けている。ここから118個の礎石と21ケ所の礎石抜き取り穴を検出し、樹根のため調査が出来ないものを除く
	全ての礎石位置を確認できた。

	経1b前後の巨大な自然石の礎石は1間を7尺2寸(約2.18b)とする基準格子上に整然と配置されていた。当時の武家	
	住宅の柱間が6尺5寸(約1.97b)かそれ以下であり、非常に特異な柱間寸法と言える。礎石の配列状況を検討したとこ
	ろ、これまで1棟の建物と考えられていた本丸建物は、中庭をはさんで西方の中心建物に分かれ、その間を廊下で結ぶ
	構成をとることがわかった。
	特に西方建物は東西8間、南北11間の範囲に碁盤目状に礎石を据えており、その上面には約1尺2寸(約36センチ)角の
	柱痕跡が明瞭に残っていた。柱の太さは柱間の1割程度(この場合約22センチ角)が常識であることを考えると、以上に
	太い柱が林立していたことになる。
	周囲の状況から見て、この建物は蔵や櫓などではなく、住宅建築と考えられるが、建物周囲にあるべき縁を支える縁束
	礎石が全く検出できなかった。1階床が高いため、縁束を立てずに側柱から梁を持ち出して縁の床を張ったものであろ
	う。この建物は、密に建ち並んだ太い床束が、二階レベルにまで達するほどの高床を支えた特異な構造の建物であった
	と考えられる。
	注目すべきは、全体の建物配置を東西逆にすると、16世紀末ごろの内裏清涼殿の平面に酷似していることである。すな
	わち、西方建物を清涼殿と考え、東に殿上間を介して公卿間・諸太夫間が建つものと考えるとその平面構成が驚くほど
	一致している。
	『信長公記』天正10年(1582)正月朔日の記事を見ると、天守近くに「一天君・万葉の主の御座御殿」である「御幸の
	御間」なる建物があり、内に「皇居の間」が設けられていたことが記されている。まさに今回検出した建物こそ、この
	行幸御殿であると考えられるのである。

	ちなみにこの記事は、信長が礼銭百文をとって、一門衆をはじめ他国衆や安土在勤の家臣たちに行幸御殿を見物させた
	時の記録であるが、今回の調査結果からその順路を具体的に推定できるようになった。
	「御殿主下の御白洲」(本丸建物南の空閑地)に集まって「南殿」か(殿上間から公卿間)に上がり、「江雲寺御殿」
	(三の丸)を見物した後、「御廊下」(本丸北隅に建つ櫓門二階の渡櫓)続きに「御幸の御間」(清涼殿)を見て白洲
	に下がり、「御台所口」(伝台所跡の東南入口)へ集まって「御厩口」(伝米蔵跡の西北入口)で各自が十疋(百文)
	ずつの礼銭を信長に手渡したと解釈できる。応永15年(1408)に後小松天皇が足利義満邸(北山殿)へ行幸して以来、
	天皇行幸は武家にとって最も栄誉な行事となる。
	天正16年(1588)の後陽成天皇の聚楽第行幸、寛永3年(1626)の御水尾天皇の二条城行幸は、豊臣政権・徳川政権にとっ
	ての一大イベントであった。
	しかし、天皇家の生活形態を重視して、このように伝統的な建物を邸内・城内に新たに建てた例はない。京都を離れ安
	土の地に天皇を迎えるには数日以上の滞在を想定しなければならず、その間の生活を配慮しての事と考えられる。
	 今年度には天主・三の丸の調査を行い、安土城中核部の調査をいったん終了し、今後は安土山全域に調査範囲を拡大
	する予定である。残された期間はわずかであるが、安土城の全体像を少しでも明らかにしたいと考えている。

	  2000.4.14(金曜日)朝日新聞夕刊  (C) Copyright Asahi Shinbun Co.,














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