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邪馬台国人の食生活
− 弥生人は何を食べていたか? −


邪馬台国が何処にあったかはともかく、各地で発見される縄文晩期から弥生時代にかけての遺跡から出土する食物と同じものを食べていたのは間違いない。 食物の痕跡は、炭化したイネやモミのようなものから魚・動物の骨など多岐に渡っている。倭人伝には、「禾稲を植え」て、「冬夏生野菜を食べ」ている、とある。主食であったかどうかは定かでないが、稲は栽培されていた。野菜も栽培していたに違いない。しかし、「橘(ミカン?)や茗荷や山椒はあるが食べてうまいのを知らない。」とあるので、豊かな食生活 と言えるかどうか。魚貝類はあらゆる種類を食べていたらしい。葬式の時は、喪に服して肉を食べないという記述があるので普段は肉を食べていたようである。ではどんな肉を食べていたのだろう。キジやかもなどの鳥は食べたようだ。シカやイノシシの骨も出土している。

長い間、弥生時代には家畜は飼育されていなかったというのが定説であった。倭人伝にもブタの記述はないが、1988年秋大分県下郡桑苗遺跡から明らかに野生のイノシシとは違う改良されたイノシシ即ちブタの骨が出土した。その後吉野ヶ里でもブタの骨が発見され論議を呼んだ。更に奈良の唐古遺跡、大阪の四池遺跡、愛知の朝日遺跡などからも続々とブタ の骨が発見され、ブタは飼育され家畜化されていた事が確定的となった。千葉県佐倉市にある、国立歴史民族博物館の西本豊弘教授は「ブタは大陸で家畜化され、それが日本列島に移ってきたと考える方が有力」との見方である。これらの古代ブタは、勿論現在のブタと同じものではない。現在のブタは明治時代になってアメリカやヨーロッパから輸入されたもの である。古代ブタの飼育は、奈良時代の中期頃までは確実に続いていた。『古事記』『日本書紀』などにも、猪甘部(いかべ)というブタを飼う家の事が登場する。しかし平安時代に入ると仏教の影響などもあって飼育は行われなくなる。以来、1,000年以上に渡って日本からブタは姿を消した。古代ブタの血は現在途絶えているのである。

弥生時代と言えばすぐ稲作という言葉が思い浮かぶ。しかし稲がムラ全体の人間の飢えを満たせるほど十分に栽培されていたかどうかは不明である。静岡県登呂遺跡は、大規模な水田経営の跡が残っている弥生時代の典型的なムラであるが、ここでさえ全体の人間を養うには少なすぎる水田なのだ。比較的大規模な登呂でさえそうなのだから、小さなムラや 水田に適さない耕地に住んでいた人達は絶えず飢えていたと考える方が自然であろう。九州、近畿の遺跡からはムギ・アワ・ヒエ或いはマメ・ウリ・ヒョウタンなどの栽培されていた痕跡が発見されている。これらも大いに弥生人の飢えを満たしたに違いない。



弥生時代には、縄文時代にあれほどあった貝塚が、全くと言っていいほど出現しなくなる。魚介類を食べなかったのではないかと思わせる程である。しかし、発見される漁労具(銛(もり)・矛(ほこ)・釣り針・網の錘(おもり)・蛸壺等)、や骨から、実に豊富な海の幸を食べていた事がわかる。マグロやタイ、ハマグリ、アサリ等ほぼ縄文人と同じようなものを 食べていた。海岸地方の遺跡(対馬・西九州・三浦半島等)からは、アワビおこしの道具も発見されている。蛸壺は、縄文時代にはなく弥生時代になって出現する。大阪湾沿岸から大量に出土している。網の錘や手網の木枠なども発見されているので、網を使った漁法もすでにあったと考えられる。






山の幸としては、栗・椎(シイ)・トチ・クルミ・山ブドウ等を食べていた。しかしその量は縄文と比べると著しく減っている。稲やムギ以外にも芋なども大いに食したと推測できるが、これら根茎類は遺跡には残っていない。





以下は、弥生時代の考えられる食べ物を復元したものである。勿論、毎日これだけのものを食べていたわけではなく、この内の一つや二つしか食べられない日もあったに違いない。これだけのメニューならば、現代と比べてもさほど遜色ないのではないか。味付けは、生姜や茗荷を知らないと倭人伝にもあるように、そんなにバラエティーに富んだものでは無かったようである。塩と、現在の味噌の 原型と思われるものが使われていたようである。

@枝豆Aゴボウの味噌煮B里芋とクルミCあわびDさざえの壺焼きEイカの塩からF山芋の生煮
G赤米の蒸し飯HうにIせりとふきの酢味噌あえJ大根荒煮K干しタラL鮎の塩焼きMワカメのもろみあえ






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