Music: 七つの子

邪馬台国の風俗



			魏志倭人伝は倭国の風俗については割と詳細に書き残している。魏の使者が見た、
			その内容を見てみよう。



			倭人の男子は、身分の高い低いに関係なく皆体や顔に入れ墨をしている。昔は
			 魚や水禽の害から身を護るためであったが、今は飾りとなっている。倭の諸国
			 では入れ墨の入れ方が違い、身分の高低によっても違いがある。
			 クリカラモンモンは古代から日本人の専売特許であったらしい。

			倭人の風俗には淫らな所がない。
			 男子は冠を被らず、木綿の布で頭を巻いている。衣服は広い布を体に巻いてい
			 るだけで縫っていない。女性は髪を下げたり髷を結ったりしている。単衣のよ
			 うな服の真ん中に穴をあけ頭を通して着ている。
			 淫らではない? 現代の「援助交際」や「失楽園」ブームムは一体何なのだ!
			 2,000年前の人達の方がはるかに倫理観は高かったに違いない。

			気候は温暖で年中野菜を食べ、皆はだしである。
			 家屋は、父母と息子夫婦は寝室が別棟である。体に朱や丹を塗っているが、中
			 国の白粉で化粧するようなものだろう。
			 変わらぬ者、汝の名は  なり。

			飲食には高杯(たかつき:皿ではない器)を用い、手掴みで食べる。
			 今でも東南アジアの或地域では同じように手づかみだし、中国・韓国でも地方
			 によっては手づかみで食べる所がある。

			人が死ぬと棺に入れるが、棺を入れる槨(かく:後の石室のようなものか?)
			 は造らず、直に土の中に埋めてを造る。死んでから10日程は喪に服し、肉
			 類は一切食べない。喪主は大声で泣き、他の人は歌ったり酒を飲んだりする。
			 埋葬が終わると、家の者は川へ行って禊ぎをする。
			 この習慣は2,000年を経ても殆ど変わっていない。私の叔父など祖母が死んだ時
			 など「お祝いだ!お祝いだ!」と言って酩酊していた。

			行事や旅行を行う前に骨を焼いてその吉凶を占うが、まず占う事柄を言う。
			 骨を焼いて裂けた割れ目を見て吉凶を占うが、やり方は中国の亀トに似ている。
			 日本人の占い好きは2,000年前からだ。

			倭人の集会では、座席の順序や振る舞いに、親子や男女による差別がない。
			 2,000年前の方が、男女雇用機会均等法を実践していたらしい。

			人々は生まれつき酒をよく飲む。年輩者(有力者)を敬うのに、手を打って
			 踞拝の礼の代わりにしている。倭人は長命で、百歳か、八、九十歳の人が居る。
			 これはちょっと眉唾である。そんなに長生きだったとはとても思えない。
			 中国では1年で2歳と数えていたという説もあるが、皆が皆長寿だったという
			 のはおかしいのではないか?

			有力者は皆4,5人の妻を持ち、普通の人でも2,3人の妻を持っている。
			 婦人達は貞節で嫉妬をしない。盗みをしないので訴訟も少ない。法を犯した場
			 合は、軽い場合は妻子を国が没収し、重い者はその者の家族・一族を殺す。
			 後段の部分はごめんこうむりたいが、前段はすばらしい。
			 みんなで古代へ還ろう!

			身分には等級があって、上下の秩序が保たれている。租税や賦役を徴収し、そ
			 れを貯蔵する倉庫もある。
			 私が子供の頃、近所の爺さんに「爺ちゃんは今まで生きてきて一番楽しかった
			 のは何ね?」と尋ねた事がある。その時その爺さんは「そりゃー、隣の倉が焼
			 けた時たい。」とすかさず答えたものだ。の発生と蓄積は、階級を生み社会
			 を構造化して行く。

			諸国には市場があって人々は物々交換を行っているが、女王は大倭に命じて
			 それを監督させている。
			 卑弥呼の権力は相当なものであった事が窺える。

			普通の人が道で身分の高い者に会うと、後ずさりして草むらに入り道をゆずる。
			 意志を伝えるのに、踞(うずくま)ったり跪(ひざまず)いたりして両手を地
			 に付けて尊敬の念を表す。受け答えは「ああ」と言うが、了解の意味であろう。
			 今でも同じだ。廊下で偉いさんに会うと同じ事をしている。偉いさんもぞんざ
			 いに「ああ」と言う。



			人間の習性や習慣というものは昔からそんなに変わらないものだ、という事が魏
			志倭人伝を読むとよくわかる。だとすれば、今から2,000年後も人間はそんなに変
			わってはいないだろうと推測できる。


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