卑弥呼の死をめぐっても謎だらけで諸説紛々である。魏志倭人伝は、卑弥呼の死について卑弥呼以死と
記している。この前に、狗奴国の男王卑弓弥呼(ひこみこ)との確執と、魏に支援を頼んで使張政等が
檄文を持って来たと言う記事があり、その後に以死とある。その為、この以という字をどう読むかで卑
弥呼の死の原因がつかめるという意見がある。即ち、以(も)って死す、と読めば明らかに狗奴国との
戦のせいで死んだと言う事になり、以(すで)に死すと読んで、張政が来た時すでに卑弥呼は死んでい
た事になる。以(それにて)死す、と読め卑弥呼は殺されたのだという見解もある。松本清張がこの説
に賛同して広く世間に広まった。作家の井沢元彦も卑弥呼は殺されたとする。しかし中国人の歴史家、
謝銘仁、張明澄の両氏は 以死 は、死んだので という程度の意味しかなく、卑弥呼の死に、少なくとも
倭人伝上では疑問はないとする。いずれにしても、目下の所卑弥呼の死因については全て想像の域内で
ある。
既にご紹介してきたように、『古事記』『日本書紀』には、天照大神が天の岩戸に隠れる物語を記録し
ている。アマテラスはスサノオの乱暴に怒り(或いはその為に機織りの道具で怪我をし、病気になって)
、天石窟(あまのいわや)に籠もり隠れるというものである。この物語が一体何を意味しているのかに
ついて、古来より論議されてきた。・死去説・火山説・冬至説・日食説等がある。この内日食説につい
て、実際卑弥呼が死んだとされている年(西暦248年、正始8年)とその前年(同247年)に北九
州で皆既日食が観察されている、という説が現れた。
日食説そのものは、江戸時代の儒学者荻生狙來(おぎゅうそらい)が言い出したものだというが、19
95年7月25日付毎日新聞(大阪版)朝刊と8月5日毎日新聞朝刊(大阪版)に、この記事が載った。
記事は、「元東大教授で古天文学の斉藤国治氏、歴史作家の加藤真司氏の研究を、東京理科大学勤務コン
ピュータ工学の橘高章氏、産能大学教授で数理歴史学の安本美典氏が検証の上、西暦247年と248年
に2度も続けて皆既日食が北九州地方で観測されたという。」と伝えている。この意味する所はこうで
ある。卑弥呼が死んだのは西暦248年と考えられている。その前年に皆既日食があった。卑弥呼の死
はその後だから、日食のため卑弥呼が殺されたという見方も出来る。そしてその後もう一度日食が来る。
人々は畏れおののき、卑弥呼の一族から再び女王として台与を選ぶ。日食は治まり、人々はその伝承を
後世に残す。しかし、記録として残っているのは卑弥呼ではなく、天照大神である。だとすれば、卑弥
呼=天照大神という等式が成立する。また、その検証結果では、この2年続いて起こった皆既日食は北
九州を中心に観測可能で、近畿地方では部分日食として現れ、人々の目を奪うほどの効果は無かったと
言う。とすれば明らかに天照大神の活躍していた高天原は北九州という事になり、高天原=邪馬台国と
いう等式も成立する。卑弥呼=天照大神の死は、強く人々の心に残り、やがて文字で記録する事が出来
るようになると、卑弥呼ではなく天照大神の物語として人々に伝えられていった。
・・・・・・以上がこの皆既日食説の大筋である。
古代の人々にとっては、暮れて行く真昼の太陽はこの世の終末を思わせたに違いない。
皆既日食説については、「科学する邪馬台国」で詳細に検証する。
邪馬台国大研究ホームページ / INOUES.NET / 卑弥呼の死をめぐって