倭とは普通,倭の國=ヤマトの國,という事で日本の事を指していると思われている。
6〜7世紀頃以降の文献では明らかに倭=日本列島と考えて差し支えなさそうであるが,三世紀頃は必ずしも
そうではない。中国の文献に初めて「倭」という語が現れるのは,紀元前6世紀頃作られたという『山海経』
という書物の中であるが、これ以来中国,朝鮮の史書にたびたび倭という文字が現れる。しかしこれらの倭は
必ずしも日本列島を指しているとは思えない部分がある。明らかに朝鮮半島の南部について言及した箇所でも
倭 という語は用いられている。魏志に書かれた倭人の条の記述も、大部分日本列島の事と思われるが、一部,
朝鮮半島南部の事を書いたものであると言う意見もある。これらの事から、三世紀頃には倭人は北九州と朝鮮
半島南部とにわかれて住んでいたと見る学者もいる。つまり東シナ海を内海に、壱岐・対馬を中の島にして倭
人は朝鮮と北九州にまたがる区域を生活圏としていたのである。この説は,北部九州に残る朝鮮式の遺跡や遺
物,更には朝鮮からもたらされたと思われる米作の跡が北部九州に多く残っている事から推論される。
このような考察を、現在最も精力的に展開しているのは大阪教育大学名誉教授の鳥越憲三郎氏である。古代史家で文化人類
学者でもある氏は、自ら東南アジア、中国、韓国等を巡り「倭族論」を提唱している。氏の唱える所によれば、「倭人と呼
ばれる一群が、古く新石器時代に中国大陸長江(揚子江)流域の雲南省あたりで稲の水耕栽培に成功し、高床式建物を考案
した。彼らは、黄河流域にいた漢民族とは別の種族で、彼らが雲南省から東アジア・東南アジアへ広く移動し定着した。そ
の「倭族」の中で東へ向かった一団の中から、朝鮮半島を経由して日本列までたどり着いたのが、日本における弥生人、即
ち「倭人」である。」という事になる。氏は、広く東アジアに残る風習や高床式建物の分布などに着目し、「倭族」の存在
証明を試みている。現在この説は学会に広く受け入れられているとは言い難いが、「倭族」かどうかは別にして、氏の言う
ルートで民族移動が行われ稲が伝播していった可能性は高い。
邪馬台国大研究・ホームページ / INOUES.NET / 倭とは?