2000年11月6日各社新聞記事






新聞記事内容



「大変なことをした」 藤村氏、ねつ造認める
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記者の質問に答える藤村副理事長=仙台市内で4日午後7時50分

 「大変なことをしてしまった」――。東北旧石器文化研究所の藤村新一副理事長(50)は4日、毎日新聞の取材に対し、宮城県の上高森遺跡で今年に入って発掘された旧石器の大部分と北海道の総進不動坂遺跡の出土石器について発掘工作をしたことを認めた。工作の一部始終を撮影したビデオを見終わると、10分間ほど沈黙。やがて、がっくりと肩を落として口を開いた。数多くの業績を残し、太古のロマンをかき立てた「神の手」の異名が大きく音をたてて崩れた。 【旧石器遺跡取材班】

藤村副理事長は4日午後7時すぎ、仙台市内で取材に応じた。ジーンズに青いシャツ、グリーンのベストのラフな服装。3人がけのソファの中央に、両ひざを抱え込むように座った。 ビデオの映像が流れると、態度に変化が表れた。画面にはまぎれもなく石器を埋める藤村副理事長本人の姿。「これは石器を埋めた場面ですか」との質問に、うつむいたまま小刻みに何度もうなずいた。
「何とかしなければならない。魔が差して……」。ソファの背に寄りかかり、頭をかきむしるように、ため息をついた。「プレッシャーがかかったんですよ」とポツリ。「隠したってしょうがないもんね。後は何でも聞いてください」と目をつぶったまま話し出した。「なぜ、埋めたのですか」とただすと、硬く目をつぶり、「なぜ、なぜ」と繰り返した。天井に目をやり、大きくため息をついて同研究所の鎌田俊昭理事長を呼ぶよう求めた。
上高森遺跡の発掘責任者の一人である鎌田理事長と同研究所理事の梶原洋・東北福祉大教授は午後9時ごろ、相次いで取材現場に到着し、藤村副理事長から事情を聴き始めた。  鎌田理事長は「藤村君がどういう気持ちで(発掘工作を)やったのか、分からない。彼が上高森遺跡などで石器を埋めたからといって、彼の30年間の業績、重要な発見が全部チャラになるのは残念だ。『全部、くさい』なんて言われてしまうだろう。もしそうなら、私たちはもう終わりだ」とため息混じりに話した。
梶原教授は藤村副理事長の工作が画面に映し出されると、大きくため息をつき「悪夢をみているようだ」と力無く漏らした。「これはフェイク(偽物)だ。弁解のしようがない」「なんてバカなことを。理解できない。どうしてこんなことを」と繰り返しつぶやいていた。
[毎日新聞11月5日]


北海道の遺跡でも 会見でねつ造公式に認める
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 宮城県築館町の上高森遺跡で、旧石器発掘工作をしていた発掘調査団長の東北旧石器文化研究所、藤村新一副理事長(50)は、9月に北海道新十津川町の総進不動坂(そうしんふどうさか)遺跡で発掘された石器29点もすべて自分で埋めていたことを今月4日夜、毎日新聞に明らかにした。毎日新聞は9月5日、総進不動坂遺跡で不審な作業をする藤村副理事長を写真撮影したが、藤村副理事長は4日になって、ねつ造工作だったことを認めた。また、上高森遺跡で今年発掘した石器65点のうち61点を自分で埋めたことを明らかにした。石器はいずれも個人で収集・所有していたものだった。藤村副理事長は5日、宮城県庁で記者会見し、両遺跡での工作を公式に認め、謝罪した。 【旧石器遺跡取材班】

藤村副理事長は9月5日午前6時5分、総進不動坂遺跡の発掘現場に一人で現れた。20万年前の地層まで掘り下げた調査区画に入り、何かを埋め、右手で地面をたたいて平らにならし、右足で地面を4〜5回、強く踏みつけるなど、上高森遺跡で毎日新聞がビデオ撮影した時と同じ動作をした。藤村副理事長によると、この日に埋めた石器は13点で、同日午前中に自ら「発見」した。現場にいた調査員の話では、一人で黙々と発掘作業をしていた藤村副理事長が突然、「あ、出た」と声を上げ、石器を掘り出したという。調査団代表で札幌国際大の長崎潤一助教授は翌6日、「20万年前の石器を発見した」と発表した。総進不動坂遺跡の発掘は1998年、石器4点が見つかったことから始まった。昨年も20万年前の地層から石器9点が見つかった。今年の調査は8月28日から9月7日まで行われ、計29点の石器が見つかったことになっていた。
4日夜、仙台市内で毎日新聞の取材に応じた藤村副理事長は同遺跡での工作について最初は「記憶にない」と否定したが、結局、「やりました」「(今年の)全部です」と述べ、13点以外の残りの16点も自分で埋めていたことを認めた。上高森遺跡に関しては今年10月22日早朝のほか、同27日朝も工作を行ったと認めた。石器を規則的に並べた「埋納遺構」のうち、今年発見された6カ所の石器35点のすべてと、埋納遺構以外の場所で見つかった30点のうち26点の計61点が工作によるものと分かった。埋めた石器は「宮城県を中心に集めた自分のコレクションから選んで埋めた」と説明した。 藤村副理事長は5日の会見では「何とおわびしていいか、言葉が見つからない」と涙ながらに謝罪。今回発覚した以外の工作については「絶対にない」と否定を繰り返した。
会見に同席した同研究所の鎌田俊昭理事長と梶原洋・東北福祉大教授は、上高森遺跡の柱穴などの建物遺構について「間違いなく本物」と語ったうえで、「今回のねつ造があっても、藤村副理事長の過去の功績は消えない」と述べた。ただ、藤村副理事長がこれまでに見つけた石器の信ぴょう性を科学的に検証する方法はまだないという。鎌田理事長は「上高森の残っている層から我々以外の人に見つけてもらい、信じてもらうしかない」と苦渋の表情をみせた。
【毎日新聞11月5日】  


ねつ造を認めた藤村副理事長が謝罪の会見を行う
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肩を落とし会見に臨む(左から)鎌田俊昭・東北旧石器文化研究所理事長、
藤村新一・副理事長、梶原洋・東北福祉大教授=宮城県庁で5日正午

宮城県築館町の上高森遺跡や北海道新十津川町の総進不動坂遺跡で、旧石器発掘のねつ造を認めた東北旧石器文化研究所の藤村新一副理事長(50)=同県富谷町=は5日、同研究所の鎌田俊昭理事長、共同発掘を行った東北福祉大の梶原洋教授とともに県庁で記者会見を行った。藤村副理事長は「県の研究者たちと築き上げてきたものを一瞬にして崩してしまい、社会的にも取り返しのつかないことをしてしまった。一緒に研究してきた仲間や先輩たちに対し、おわびの言葉が見つからない」と謝罪した。 また藤村副理事長が発掘にかかわった遺跡は少なくとも180カ所以上といわれているが、両遺跡以外についてはねつ造を否定した。
藤村副理事長はねつ造の理由について、「何かすごい発見をしなければならないというプレッシャーを強く感じていた。この2〜3カ月は特につらくて、魔がさしてしまった」と話した。総進不動坂遺跡も上高森遺跡と同様に「自分の遺跡コレクションを自宅から持ってきた」と認めた。
鎌田理事長は「なぜ、彼がこんなことをしたか信じられない。彼の精神状態を見抜けなかったことを残念に思う」と話し、「彼に対する全面的な信頼があり、チェックが甘かった」と頭を抱えた。梶原教授は「藤村さんに1点の疑いも持っていなかった。今までの輝かしい業績が疑問視されることは残念だ」と話した。  鎌田理事長は「他の遺跡については、多くの人が見ている中で発掘を行うなどしており、疑いがないことを確信している」と、ねつ造が両遺跡のみであることを強調。「疑問視している研究者も含めた現地再調査など、できるだけ検証していくことに努めたい」と話した。
【毎日新聞11月5日]  


「最古の石器」自分で埋めた 「旧石器の第一人者」藤村氏認める
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うつむきながら記者の質問に答える藤村新一・東北旧石器文化研究所副理事長
=5日午前11時すぎ、宮城県庁で

 70万年前までさかのぼる前期旧石器文化が日本に存在したことを裏付ける遺跡として、世界的にも注目されている宮城県築館(つきだて)町の上高森(かみたかもり)遺跡の発掘調査団長を務める民間研究団体「東北旧石器文化研究所」の藤村新一副理事長(50)は5日記者会見し、自ら収集した石器計61点を10月下旬、遺跡内の土中に埋めて新発見と偽っていたことを認めた。同じ時代とされる北海道新十津川(しんとつかわ)町の総進不動坂(そうしんふどうざか)遺跡で9月に発掘された石器30点も、すべて自分で埋めたものだったという。藤村氏は1980年代以降、関東以北で国内最古の石器を次々に掘り当て、旧石器時代の遺跡発掘では第一人者とされていたが、同氏がかかわった発掘調査の信頼性について根本的な見直しが迫られることになる。今回のねつ造について、文化庁は調査に乗り出す方針だ。

《地図》 上高森遺跡

上高森遺跡は、日本最古の石器が発見された場所として、高校の日本史教科書にも取り上げられており、こうした記述が見直される可能性もある。
毎日新聞が5日、「藤村氏が石器を埋めるところをビデオ撮影した」と報道したのを受け、藤村氏は宮城県庁で記者会見し、自分一人でねつ造していたことを認めて「何とおわびしていいか分からない」と謝罪した。調査団によると、藤村氏が自分で埋めたのは、今年の調査で上高森遺跡から見つかった石器65点のうち61点。いずれも宮城県内で拾った旧石器時代後期から中期の石器を使ったという。  藤村氏は10月22日前後の2、3日間、早朝のだれもいない時間帯に発掘現場を訪れ、移植ベラで穴を掘って石器を入れ、土をかぶせた後、足で土を踏み固めたという。  その後、23日と27日の2回にわたり、これらの石器が70万年−60万年前の地層から新たに発掘されたとして、報道陣に公表していた。

 ねつ造した動機について藤村氏は、「秩父原人」で話題になった埼玉県秩父市の小鹿坂(おがさか)遺跡と長尾根遺跡で今年、35万年前のだ円形の土壙(どこう)や50万年前の建物跡を発見したことを挙げ、「秩父でたくさんの遺構が出たので、上高森ではもっとすごいものを発見したかった。どうしても何かを出さなければならないというプレッシャーを感じていた」と話した。 上高森では今回の調査で、60万年前の国内最古の建物跡と推定される柱穴が見つかったことから、「さらに『埋納遺構があればなあ』と思った」という。柱穴について、藤村氏は「ねつ造していない」と強く否定している。  藤村氏は「ねつ造は今年の上高森遺跡と総進不動坂遺跡の2カ所だけだ」と、それ以前や、他の遺跡ではねつ造していないことを強調している。
 藤村氏は仙台市内の高校を卒業後、考古学を独学し、これまで180カ所以上の旧石器時代の遺跡発掘にかかわり、在野の考古学研究者・故相沢忠洋氏を記念して創設された第1回相沢忠洋賞を92年に受賞。宮城県の座散乱木(ざざらぎ)遺跡や山田上ノ台遺跡など、世界的に熱帯地方を中心としてきた旧石器文化の北限や、石器の年代を次々に塗り替えた。
 ◆上高森遺跡
 宮城県北部の築館町で1992年に発見された前期旧石器時代の遺跡。東北旧石器文化研究所などによって計6回にわたり、発掘調査が実施された。これまでの発表によると、93年11月、当時として日本最古の約40万年前と推定される握りおのや、なた型の石器が出土。95年には50万年以上前の地層から石器を放射状に並べて埋めた「埋納遺構」が発見された。当時、旧石器時代の原人が遺構を残した例は世界的にも例がなかった。今年10月には建物跡とみられる柱跡の穴が発見された。
【朝日新聞 2000年11月6日付朝刊】


その他新聞社・関連記事



●調査団長が旧石器発見ねつ造  Yomiuri_online
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 約六十万年前の構築物跡などが今年十月に見つかったとされる宮城県築館町の上高森(かみたかもり)遺跡と、今年九月に行われた北海道新十津川町の総進不動坂(そうしんふどうざか)遺跡の発掘調査で、調査にあたったNPO(非営利組織)「東北旧石器文化研究所」の藤村新一副理事長(50)(五日付で除名)が、別の遺跡で出た石器を自分で埋めて「石器発見」の事実をねつ造していたことが五日、明らかになった。  この日、藤村副理事長らが記者会見し、調査団長を務めた上高森遺跡については、出土した石器の大半について埋設したことを認めたほか、総進不動坂遺跡については、すべて自分で埋めたものだと認めた。ねつ造工作はこの二件だけとしたが、藤村副理事長が前期旧石器時代の遺跡発掘に多く関与していることから、“日本原人”に象徴されるここ十年来の考古学研究が、根底から揺さぶられる可能性も浮上した。
 上高森遺跡は九三年に発掘調査が始まり、藤村副理事長らの手で四十〜七十万年前の地層から、日本最古とされる石器が次々と発見された。ねつ造が行われたのは、藤村副理事長が調査団長を務め、十月二十日から三十日まで行われた第六次調査で、同研究所が東北福祉大の考古学サークルなどと共同で行った。  藤村副理事長によると、この調査で工作を試みたのは、調査開始から数日後の早朝。発掘したとされる石器は六十五点だが、このうち六十一点は他の遺跡の石器を一人で現場に運んで移植ベラで地面を掘り起こし、約六十万年前とされる地層などに埋めた。この工作は、三日間かけて八か所で行ったという。  また、同じ前期旧石器時代の遺跡とされる総進不動坂遺跡で埋めた石器は三十点で、やはり同様な手順で一人で埋設したという。  両遺跡で工作に使われた石器は、藤村副理事長が、過去に採取した石器コレクションの一部で、長さ約二〜三センチの剥片(はくへん)石器や長さ約十センチのヘラ状石器。藤村副理事長によれば、これらの石器は、前期旧石器時代のものではなく、いずれも中期から後期のものだという。  前期旧石器時代の石器は、形式による年代特定の手法が確立されておらず、出土した地層以外に年代の判定の決め手がない。今回のケースは、その盲点を突かれたものだった。  毎日新聞が五日、藤村副理事長が石器を埋めるところをビデオ撮影したと報じ、これを受けて藤村副理事長らが会見した。この中で、藤村副理事長は「成果を上げなければと焦り、いざとなったら埋めようと思っていた。計画的と思われても仕方ない」「お騒がせして申し訳ありませんでした」と謝罪した。  藤村副理事長は、仙台市内の高校を卒業後、計器メーカーに勤務する傍ら独学で考古学を学び、一九七二年から本格的に発掘作業に従事するようになった。  脚光を浴びたのは、八〇年代以降で、八一年に、宮城県岩出山町の座散乱木(ざざらぎ)遺跡で当時としては国内最古の四万数千年前の石器を発見したのをはじめ、馬場壇A(古川市)、高森(築館町)、上高森(同)などの同県内の各遺跡で次々と発掘成果を上げた。

◆上高森遺跡 宮城県築館町南西部の丘陵で、東北旧石器文化研究所が1992年8月に発見した遺跡。翌年、同研究所と東北福祉大考古学研究会などの調査団が発掘調査を始め、前期旧石器時代にあたる40万〜60万年前の石器約200点が出土。今年10月の第6次調査では国内最古の60万年前の原人が作ったとみられる構築物跡が3つ発見されたと調査団が発表した。

◆総進不動坂遺跡 北海道新十津川町の石狩川沿いで札幌国際大と東北福祉大、東北旧石器文化研究所の合同調査チームが1998年7月に発見した。中期旧石器時代の尖頭器(せんとうき)など石器4点、今年9月には前期旧石器時代の石器30点が発見され、調査団は「上高森遺跡などで発見された石器と形状などが類似している」と発表した。
(2000年11月6日)

●発掘ねつ造問題で文化庁が関係自治体に調査求める  asahi.com
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 東北旧石器文化研究所の副理事長だった藤村新一氏(50)による旧石器発掘のねつ造問題で文化庁は6日、同研究所が発掘にかかわった遺跡を抱える自治体の教育委員会に、調査経緯について確認を求める通知を出すことを決めた。調査期間、調査主体、資金、報告書の有無などについて早急に事実確認をしたいとしている。  同庁のこれまでの調べでは、同研究所は少なくとも北海道、岩手、宮城、山形、福島、群馬、栃木、埼玉県、東京都の9都道県の遺跡発掘にかかわっていた。  国の直轄調査に加わったり補助金を受けたりしているケースはないため、同庁は直接、同研究所に事情を聴く立場にはないとした。  また、上高森遺跡や総進不動坂遺跡は、同庁の指定史跡ではないことから、人為的に石器を埋めたとしても文化財保護法には抵触しないとしている。(2000.11.6 00:06)

●旧石器ねつ造で講談社が「日本の歴史」に説明冊子 asahi.com
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 旧石器のねつ造事件で、「日本の歴史」を刊行中の講談社(本社・東京都文京区)は6日、第1巻「縄文の生活誌」(岡村道雄著)に宮城県上高森遺跡などに関する記述があることから、現時点での見解を冊子にまとめ、書店などで配ることを決めた。日本列島の人類の歴史を上高森遺跡から説き始め、巻頭には「秩父原人の石器」の写真が掲載されている。先月24日に販売を始め、すでに増刷が決まるほどの人気ぶりで、6日は事件に関して読者からの問い合わせが相次いだという。(2000.11.6 00:43)

●石器ねつ造 ゆがんだ執着の結果か asahi.com 宮城県版
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 「頭がもやもやして、何がなんだか分からない。そんな感じで埋めたんですね」。石器を埋めて遺構をねつ造したときの心境について、藤村新一氏はこう述べた。26年間、共に調査してきた鎌田俊昭氏は「精神的に病んでいた」と「心の病」を理由に、ねつ造を釈明しようとした。確かに、露見する心配をしなかったのか、という質問に、うつむいたまま「ちょっとやばいなあと思いました」と答えた顔は半分笑っているように見えた。  それにしても納得できない。日本の旧石器時代の歴史を塗り替えてきたと言われる藤村氏がなぜ、こんなことをしたのか。  手口は大胆で計画的なものだった。10月27日の記者発表では、記者たちの目の前で、自分が埋めた石器を掘って見せ、現場を訪れていたロシアや英国の研究者を驚嘆させた。一緒に調査をしていた東北福祉大の梶原洋教授には「ここを掘ってみて」と指示して、自分の埋めた石器を「発掘」させた。そして記者たちの多くも、彼の作為を見破れなかった。  今回の発掘調査の最終日。筆者は、5日の宮城版で掲載した上高森遺跡の特集記事の取材で、調査団が寝泊まりしていた遺跡のそばの民家を訪れた。底冷えのする板の間に座って、梶原教授は、今回の発見の意味を静かに語った。  「考古学的に明らかに言える事実とそこから先の推定は分けて考えないといけない」。こう何度も繰り返しながら、梶原教授が展開した学説は、知的な興奮を呼ぶものだった。その主張は、太古のロマンではなくきちんと裏打ちされた「説」なのだと確信した。  記者会見で梶原教授自身も「心外だし、怒っている。二十年間やってきた研究を土足で踏みにじられた」と話し、考古学の知的な営みを踏みにじった藤村氏に怒りを露にした。その怒りに対する藤村氏の弁明は、最後まで説得力がなかった。  ただ一度、声を震わせて話した言葉には、彼の真情がこもっていたように思えた。  「一つの遺跡に50回も通った。地形をみて地図をみて、どこから石器が出そうか探すために、人の何十倍も歩いたんだ。だから、『神の手』と言われるのは心外です」  藤村氏が何よりも、石器を見つけることに執着していたことは分かった。その執着が、壁にぶつかってプレッシャーとなって、ゆがんだ形で現れたのが、今回の「ねつ造」だったのだろうか。 (赤田 康和)(2000.11.6)

●発掘ねつ造問題 考古学界にチェック体制見直す動き asahi.com
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 東北旧石器文化研究所の副理事長だった藤村新一氏が、宮城県築館町の上高森遺跡などで石器の発掘をねつ造した問題では、学界の閉鎖性や発掘手法の問題点を指摘する声があがっている。この批判に対して、考古学界も信頼回復へ向けて、幅広い検証の仕組みをつくろうと動き始めた。  日本考古学協会(会員約3500人)は急きょ、12日に緊急委員会を東京都江戸川区の事務所で開くことを決めた。20人の委員が集まり、対応策や会員である藤村氏の処遇問題などを協議する。協会として検証チームを現地に派遣して、第三者の目で発掘成果を検討するなどの体制づくりも議論する。  会長の甘粕健・新潟大名誉教授は、「発掘された段階でマスコミなどで大きく取り上げられるため、調査姿勢が遺構や遺物の発見に傾きすぎた。十分な分析検討がおろそかになり、発掘調査が個人プレーによる『宝探し』のようになっていた面があったかもしれない」と反省する。  年間1万件にものぼる考古学の発掘調査では、実際には、発掘担当者本人の報告をそのまま信じるしかないのが実情、といわれる。安蒜(あんびる)政雄・明治大教授は「基本的に、発掘担当者の学問的誠実さが大前提になっており、本人の言うことを信じるしかない」という。  一方、ねつ造の背景に、学界の閉鎖性や論争の乏しさを指摘する声もある。東京都文化課の小田静夫・主任学芸員は、1986年に「宮城県の旧石器及び『前期旧石器』時代研究批判」と題する論文を、考古学の雑誌ではなく、日本人類学会の機関誌「人類学雑誌」に掲載した。その中で、藤村氏らの発掘に対して「遺物の出方がおかしい」などと批判した。海外からの反応はあったが、日本では黙殺されたという。  80年の座散乱木遺跡の発掘から疑問を持っていた小田氏は「学会にはレフェリー的な存在がない。ほかの学会のように論文などを厳しくチェックすべきだ」と批判する。  また、藤村氏の発掘結果に対してしばしば疑問を表明してきた馬場悠男・国立科学博物館人類研究部部長は、「疑問点を訴えてもマスコミも学界も取り上げようとしない。研究者同士が批判し合う気風が乏しく、偉い先生がひとこと言えばそれが通ってしまうような体質がある」と話す。  学界のチェック機能の乏しさに対して、木村英明・札幌大教授は「旧石器研究グループは北海道や東北、関東、瀬戸内海、九州など各地にあるが、それぞれの殻に閉じこもりがちだった」と指摘する。その閉鎖性を打ち破るためにも、旧石器時代の研究の全国レベルの交流を進め、国際的な研究の水準を高め合っていくべきだ、と話す。  こうした批判に、甘粕会長も、「発掘結果に疑問を抱く研究者がいても、それを取り上げ、公に論争する雰囲気がなかった。これからは複数の専門家が現地で議論する体制をつくる必要がある」と認める。(2000.11.6 23:37)

●旧石器発掘ねつ造:宮城県が理事長から事情を聴取へ mainichi.co.jp 2000年11月7日
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 藤村前副理事長が宮城県築館町の上高森遺跡などで石器発掘をねつ造していた問題で、宮城県文化財保護課は8日、同研究所の鎌田俊昭理事長からこれまで行われた発掘の経過など事情を聴く。今後、藤村前副理事長や理事の梶原洋・東北福祉大教授らからも、判明した以外のねつ造工作がなかったかなどを聴くことにしている。  同課は文化庁の調査の指示を受けて、藤村前副理事長が発掘調査にかかわった遺跡のリストアップも7日から開始した。同課によると、県内には約200の旧石器遺跡があり、うち半数以上で藤村前副理事長がかかわっているという。
 一方、今年8月、同研究所のNPO(非営利組織)法人化を認証した県生活・文化課は、適格な活動を行っていたかどうかを確認するため、近く同研究所に報告書の提出を要請する文書を送る。

●調査団長が宮城・上高森遺跡の発掘ねつ造、新十津川の発掘も【北海道新聞 11月6日】
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 約六十万年以上前の前期旧石器時代の地層から多数の石器が出土したとされる宮城県築館町の上高森遺跡で、発掘調査団長を務めた東北旧石器文化研究所(宮城県多賀城市)の藤村新一副理事長(50)が自ら穴を掘り石器を埋めて発掘をねつ造していたことが五日、分かった。藤村氏は同日、宮城県庁で記者会見し「魔がさしてやった。おわびの言葉も見つからない」と事実関係を認めた。また道内の前期旧石器時代の遺跡とされる空知管内新十津川町の総進不動坂(そうしんふどうざか)遺跡で、八月下旬から九月上旬の調査で約二十万年前のものとして見つかった石器二十九点についても、自分で石器を持って行き「全部、自分で埋めた」と告白した。藤村氏は、国内各地の旧石器遺跡の発掘に関与して高い評価を受けており、わが国の考古学界に深刻な影響を与えそうだ。
藤村氏によると、十月二十二日午前六時すぎ、上高森遺跡に人がいないことを確認した後、地面に数カ所の穴を掘り、自宅から持ってきた石器数点を並べ、上から土をかぶせて足で踏み固めた。このほか別の日に数回、同様の行為を繰り返した。調査団は同二十七日に上高森遺跡で、約六十万年以前とされる地層から石器八点を発見したと発表し「国内最古の石器とみられる」と説明していた。今年出土した計六十五点の石器のうち六十一点を同氏が埋めたという。しかし、石器発見の発表前に、上高森遺跡の約六十万年前の地層から見つかった原人が掘ったとみられる遺構は「(人為的に)つくりようがなく、本物だ」とねつ造を否定した。埋めた石器は、主に宮城県で発掘した本物で、自宅に保存していたものだという。上高森遺跡からは一九九五年に約六十万年前のものとみられる石器が出土しており、旧石器時代の遺物として記述している高校の日本史の教科書もある。これに関し同研究所の鎌田俊昭理事長は「出土状況をビデオで記録している」などとねつ造を否定している。
藤村氏は「上高森遺跡が小鹿坂遺跡に比べ成果が劣っていた。焦っていた」と話し、出身地宮城県の上高森で国内最古の発掘成果を上げたいとの思い入れが、自作自演劇に走らせたことを明らかにした。また藤村氏は新十津川町の総進不動坂遺跡で、札幌国際大学、東北福祉大と合同で八月下旬から九月上旬にかけて調査。「へら状石器」など石器二十九点が見つかったが、藤村氏はこれら石器も、自分で持っていき、「埋めた」と認めた。前期旧石器時代とされる石器がこれほど大量に見つかったのは道内で初めてで、さらに本州で出土した同時代の石器と種類や材料が酷似していたことから、当時の東日本と北海道で人的交流があった可能性を補強する観点からも注目された。藤村氏は十勝管内清水町の西美蔓(にしびまん)遺跡や埼玉県秩父市の小鹿坂遺跡、山形県尾花沢市の袖原3遺跡などの発掘にも加わったが、五日の会見では、上高森遺跡と総進不動坂遺跡を除いて、ほかの遺跡では「ねつ造はない」と強調した。
【総進不動坂遺跡】 空知管内新十津川町の総進地区で一九九八年、札幌国際大や東北旧石器文化研究所などの合同調査団が発見した遺跡。同年は中期旧石器時代(十二万年前から四万年前)の石器を、九九年には前期旧石器時代(十二万年以前)の石器を発見した、と発表された。それぞれ旧人、原人の時代に相当し、いずれも当時道内では見つかっていなかったもので、サハリン経由で人類が北海道に渡来したとする「北回りルート」の裏付けにつながる大発見と評価された。

●遺跡保存計画は白紙に、地元・新十津川に衝撃 【北海道新聞 同 】
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【新十津川、清水】「どこまでが本当の発見なのか信じられなくなった」―。空知管内新十津川町の「総進不動坂遺跡」で、東北旧石器文化研究所の藤村新一副理事長が前期旧石器時代の石器の発掘をねつ造していたことは、同遺跡の保存の具体策を検討していた町教委や、地元の考古学愛好家グループなどに大きな衝撃を与えている。
藤村氏が五日、ねつ造を認めたのは今年九月の発掘分。同遺跡は民有地にあり、発掘作業も札幌国際大を中心とした合同調査団が行っているため、町教委は直接関与していないが、笹木隆教育長は「毎年新たな発見が続いており、将来に向けて土地の買い上げなどを検討する時期と考えていた」という。今回のねつ造発覚については「今年だけでなく、二年前と昨年の発見も信頼性を落とした。保存計画も白紙に戻さざるを得ない」と憤りを隠さない。同遺跡の発掘を機に昨年秋、町民を中心に、砂川、赤平の考古学ファン二十二人で設立した「石狩川・原人の会」は、調査団が入る前に遺跡周辺の草刈りをしたり、発掘調査を手伝ったりして、同遺跡への思い入れが深いだけにショックは大きい。同会の原田弘会長(70)は、「これから他の遺跡の見学や資料収集など本格的な活動をしようと力が入っていたところだったのに…」と声を落とした。
一九九八年から毎年、同遺跡調査に参加した札幌国際大大学院の女子学生(26)は「藤村さんとはすぐ近くで一緒に発掘調査したことがあり、とても信じられない。初心に戻って旧石器発見に取り組み、考古学の名誉を回復したい」と残念そうに話した。一方、藤村氏は札幌国際大と東北旧石器文化研究所が六月に行った十勝管内清水町の西美蔓(にしびまん)遺跡の発掘にも参加。旧石器時代の石器四点を見つけ、総進不動坂遺跡をさらに二十万年ほどさかのぼる五十万年前ごろのもので道内最古と発表した。藤村氏は西美蔓遺跡については「ねつ造はない」としているが、同遺跡の信ぴょう性にも疑問が生じたのは間違いない。清水町の土門勲教育長は「大変ショックだ。札幌国際大の調査を静観するしかないが、本物であってほしい」と話している。

●遺跡発掘ねつ造、新十津川町が要覧などの扱い再検討 【北海道新聞 同 】
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【新十津川】空知管内新十津川町の「総進不動坂遺跡」で、東北旧石器文化研究所の藤村新一副理事長が前期旧石器時代の石器発掘をねつ造していたことが明らかになったため、同町は六日午前、町の第三セクターが運営する宿泊施設で展示していた藤村副理事長の写真パネル一枚を撤去したほか、同町の町勢要覧やホームページの扱いなどについて検討を始めた。同遺跡と同じ総進地区にある宿泊施設「サンヒルズ・サライ」では、遺跡発掘に関するパネル十四点を展示している。ねつ造が発覚した今年九月のものはないが、発掘作業をする藤村副理事長本人を写した昨年八月撮影のパネル一枚を取り外した。また、午前九時すぎから安藤君明町長や笹木隆教育長が、同遺跡についての写真などが掲載されている本年度版の町勢要覧やホームページの説明に問題がないかなど、今後の対応について話し合った。



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