継体天皇に関しての「古事記」の記事はわずかである。武烈記に「天皇既に崩りまして、日続(ひつぎ)知らすべき王 (みこ)無かりき。故、品太(ほむだの:応神)天皇の五世(いつつぎ)の孫(ひこ)、蓑本杼(をほどの)命を近つ淡海国より上り まさしめて、手白髪(たしらがの)命に合わせて、天の下を授け奉りき」とあり、継体記に「品太王の五世の孫、蓑本杼命、伊波礼 (いわれ)の玉穂宮(たまほのみや)に坐(ま)しまして、天の下治(し)らしめしき」とある。前半は、「武烈天皇が死んで 世継ぎがなかったので、応神天皇の五世である継体天皇を近江から招いて、手白髪命と結婚させ皇位につかせ た」、後半は、「応神天皇の五世である継体天皇は、伊波礼の玉穂宮で天下を治めた」というものだ。これに 反して「日本書紀」にはその辺りの事情がかなり克明に記述されている。要約すると、小泊瀬(おはつせの)天皇(武烈天皇)は、若い頃恋に破れてひどい女性不信に陥り、女性に対しては悪逆非道の限りをつくした。妊婦の腹を裂いて胎児を見たり、女を裸にして馬と交尾させたり、そのため一生を独身で過ごすはめになり、当然一子ももうけることがなかった。即位から8年で武烈天皇は崩御し、その事で大和朝廷には一大事件が発生する。即ち、世継ぎがいないため王朝断絶の危機に陥ったのである。
そこは現在の、奈良県桜井市池ノ内付近であろうという説が有力だが、実はこの磐余は皇位継承者には非常に重要な 聖地なのである。初代神武天皇は神日本磐余彦(かむやまといわれひこ)と名乗っていたし、神功皇后は磐余の若桜宮 (わかざくらのみや)を都としている。仁徳天皇の子履中(りちゅう)天皇も磐余の若桜宮に遷都し、雄略天皇の子 清寧(せいねい)天皇も磐余の甕栗宮(みかくりのみや)を都としている。磐余は歴代の宮居が置かれていたところ なのである。磐余は桜井市の阿倍丘陵を中心とする一帯、という説が有力だが、一方曾我地方にも神武天皇を祀る磐余 神社があり、また磐余田と呼ばれる場所があることから、桜井市と特定できないという学者もいる。なお、継体の父 彦主人(ひこうし)、母振媛(ふりひめ)の出身にも諸説有り、父が近江で母が越前という説もある。
継体天皇をめぐる謎は、まとめれば以下のように集約される。 (1).出自。すなわちこのHPの主題である、継体天皇はどこからきたのか? (2).20年の間どうして大和へ入らなかった、あるいは入れなかったのか? (3).継体天皇はほんとに新王朝の創始者か?即ち、現皇室の祖先なのか。 (1).から見ていくことにしよう。現在継体天皇の出自については大きく3つの意見がある。 @.「古事記」を信用し、近江の国の豪族だったという説。 A.「書紀」の記述通り越前から招聘されて皇位に付いたとする説。 それから、これは学会では賛同者は少ないが、 B.新羅から渡来した王族の末裔であるという説。 3番目の説については出典がはっきりしない。何時の頃からこういう説が出現したのだろう。幾つかの「読み物」 風歴史本を読むとこの説が紹介されているが、何の本にそう書いてあるのか説明がない。おそらく後世になって、 皇族の出自も朝鮮半島であると強調したい歴史家によって唱えられた説だろうと思われる。勿論、時代を遡って 縄文末期、あるいは弥生前期までたどればその可能性は大いにあるが、それは日本人全てにあてはまる。 また、それまでの天皇家とは全く関係ない豪族が、地方豪族の力を結集し力ずくで王権を奪い、さもそれまでの 天皇家の系譜であるかのように「記紀」を捏造した、という説も現れたが、これまた出典がない。あいまいな 「記紀」の記述から想像はできるが、やはり記録されている内容を分析し大筋ではそれに沿うのが学問としては 王道だろうと思う。 さてそうなると、近江か、越前かという事になる。だが、現在の史学会ではこの問いに対する結論は出ていない。 歴史学や考古学以外の学者もこの問題に取り組んだりしているが、前述した「蘇我氏」との関係を捉えて「越前」 としたり、「近江」の安曇川周辺の豪族だった息長(おきなが)氏との関係で「近江」を唱えたりと入り乱れて いる。私の意見としては、堺女子短期大学教授だった塚口義信氏が唱えていた考え方に近い。 (2).(3).の問いに対する答えも含めて以下に要約する。第26代継体天皇は、越前か近江の出身であった王族の血統につながる彦主人と、これまた越前か近江の出身であった振姫との間に生まれ、越前に居住していた。(後の蘇我氏との関係はこれに起因すると考える。)また、近江の息長氏との姻戚関係も堅固であり、おそらく継体は越前に居住しながらも近江・河内地方と絶えず行き来していたと思われる。(樟葉宮での即位、筒城宮・弟国への遷都、馬飼部首荒籠との交流などは、北河内に強く継体天皇擁立を推す集団がいたと推測できる。)息長氏は元々近江の北西部を基盤とする豪族というのが相場だが、実は北河内から綴喜郡にかけても居住していたと思われる。神功皇后は別名、息長帯比売(おきながたらしひめ)といい息長氏の血統であるが、その祖先の名には綴喜郡から来ていると思われるものが多い。またその子応神の妃も息長真若中比売(おきながのまわかなかひめ)といい息長氏一族であるし、継体から数えて5代後の舒明(じょめい)天皇にも息長足日広額天皇という別名がある。(系譜図参照)