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「倭」という語が現れる最古の文献は、紀元前6世紀頃作られた『山海経』という書物の中だそうである。

これ以来中国,朝鮮の史書にたびたび「倭」という文字が現れるが、必ずしも日本列島を指しているとは思えない部分がある。明らかに日本についての記述と思われるもので最古のものは、「前漢書」「後漢書」である。それによれば、紀元前後の日本は百余りの国に分かれていて朝鮮にあった楽浪郡と交流があったとか、西暦57年に日本の奴国が光武帝に貢物をして金印を貰ったなどと書かれている。
しかしこれらは、いずれも日本についての断片的な記事であり、まとめて日本について記述した最初の文献は、周知の如く「魏志倭人伝」(「三国志」の魏書東夷伝にある、倭人条という一文)という事になる。約二千文字で、3世紀前半の日本の状態が記録されている。
ここに「邪馬台国」「卑弥呼」という語が出現する。そして「狗奴国」という国名も出現し、伊都国と並んで魏志倭人伝では重要な国である。それは、「邪馬台国の南にある」という記述と、「元から卑弥呼と仲が悪く戦争状態であった」と書かれているからだ。



	『自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。次有斯馬國
	....次有奴國、此女王境界所盡。其南有狗奴國、男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。』

	『其六年、詔賜倭難升米黄幢、付郡假授。』

	『其八年、太守王[斤頁]到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、
	 遣倭載斯烏越等詣郡、説相攻撃状。遣塞曹掾史張政等因齎詔書・黄幢、拜假難升米爲檄告喩之。』



	倭人伝全体の内容については、この「邪馬台国大研究」の中の「魏志倭人伝(全文)」や巻末の読み下し文、或いは「資料
	集」の中の「訳文 魏志倭人伝」を参照していただきたいが、「訳文 魏志倭人伝」から「狗奴国」に関係ある部分だけを以
	下に抜き出してみる。


	「倭人は帯方郡(今のソウル付近)の東南にあたる大海の中にあり、山島が集まって国やムラを構成している。

				(略)

	女王国より北の方角についてはその戸数・道里は記載できるが、その他の周辺の國は遠くて交渉が無く、詳細は不明である。
	次に斯馬国があり、次に已百支国あり、次に伊邪国あり、次に都支国あり、次に弥奴国あり、次に好古都国あり、次に不呼
	国あり、次に姐奴国あり、次に対蘇国あり、次に蘇奴国あり、次に呼邑国あり、次に華奴蘇奴国あり、次に鬼国あり、次に
	為吾国あり、次に鬼奴国あり、次に邪馬国あり、次に躬臣国あり、次に巴利国あり、次に支惟国あり、次に烏奴国あり、次
	に奴国あり。これが女王の(権力の)尽きる所である。

	その南に狗奴国があり、男子の王がいる。その長官は狗古智卑狗であり、(この國は)女王國に隷属していない。

				(略)

	その六年(245年)、倭の難升米が黄幢 (こうどう)を賜わり、 (帯方)郡経由で仮授した。
	その八年(247年)、太守王[斤頁]が到着した。倭の女王卑弥呼は、もとから狗奴国の男王卑弥弓呼(ひみここ)とう
	まくいってなかった。倭は、載斯烏越等を派遣して帯方郡を訪問し、戦争状態の様子を報告した。(魏は、)塞曹掾史(さ
	いそうえんし)張政等を派遣して、詔書・黄幢を齎(もたら)し、難升米に授け、檄文を為(つく)って戦いを激励した。
	(告喩す)

	卑弥呼以て死す。大きな冢(ちょう:つか)を作った。直径百余歩で、徇葬する者は奴婢百余人。程なく男王を擁立したが、
	国中の混乱は治まらなかった。戦いは続き千余人が死んだ。そこで卑弥呼の宗女(一族の意味か?)壹与(いよ)年十三才
	を擁立して女王となし、国中が遂に治まった。政等は、檄文を以て壹与を激励した。壹与は、倭の大夫率善中郎掖邪狗等二
	十人を派遣して、政等が(魏へ)還るのを見送らせた。そして、臺(魏都洛陽の中央官庁)に詣でて、男女生口三十人を献
	上し、白珠五千孔・ 青大勾珠二枚・異文雑錦二十匹を献上した。」



 



狗奴国の所在地

「狗奴国」、読み方は通常は「くなこく」と言う。女王の境界の尽きた其の南にあり、男子が王である、とする。
そして官名として『狗古智卑狗』(きくちひこ、或いはくこちひこ)がおり、女王に属していないと記述されている。更に正始八年卑弥呼、狗奴国の男王『卑弥弓呼』(ひみここ)と和せず、戦争状態にある事を(魏に)報告し、激励のための詔書等をもらっている。
記述としては以上であり、これの文章から狗奴国の所在は、「邪馬台国」の南と言う位置付けと、発音から熊本県菊池地方、和歌山県熊野地方等が候補地として挙げられている。九州説、大和説のいずれに立つかによって「狗奴国」の所在地も大きく異なってくるのは言うまでもないが、この「倭人伝」の記述から、狗奴国の所在地を割り出すのは無理である。
邪馬台国九州説では、概ね狗奴国の比定地は現在の熊本県という説が根強い。『狗古智卑狗』という語から菊池川流域に求める説と、音韻によって狗奴国をクマと読み、「狗名=クマ=熊」即ち、熊本、球磨、熊襲に比定する説などがある。必然的に「邪馬台国」は熊本県北部もしくは福岡県、或いは佐賀県の一部、大分県の一部、という辺りになる。
反して大和説では狗奴国の比定地は数多い。先述の和歌山県熊野地方から、尾張・東海地方を中心とした勢力説まで幅広い。変わったところでは狗奴国=出雲説もあるようだ。又、後漢書にある「自女王國東度海千餘里至拘奴國、雖皆倭種、而不屬女王」と言う一文を読んで、北九州から海を度(渡)った四国だと言う説や、瀬戸内海沿岸だというような意見を言う人もいるが、後漢書では女王国の南を「自女王國南四千餘里至朱儒國」としている。「魏略」には「女王之南、又有狗奴國、女男子爲王、其官曰拘右智卑狗、不屬王女也」となっている。


狗奴国の状況

この国の北に邪馬台国が存在したことは明白であり、狗奴国が卑弥呼に服属しておらず、正始八年頃には互いに攻撃し合う状況にあったこともわかる。政治的には女王国連合と対峙している王国で、「男王卑彌弓呼素不和」とあるので、ヒミココ或いはヒミクコという名の男王と以前から対立(素不和:もとより和せず。)していた。
なぜ、女王国と狗奴国とは前から不仲であったのか? 
一番簡単な理由は、「民族」或いは「部族」の違いに起因するものとの考えだろう。渡来して来た民族間で、或いは土着の純日本人部族との間で、居住地と定めた土地が隣接していた事によるいざかいである。
渡来してきた民族の末裔である「卑弥呼」とそれを中心とした「女王国連合国家」の勢力と、土着の日本人民族(或いは渡来人と融合した)狗奴国を中心とした勢力との対立という図式も考えられる。或いは狗奴国自身も遥かな縄文時代のどこかでやはり渡来してきた民族なのかも知れない。南九州へは、太平洋諸島の南方人の渡来が続いていたと思われるし、かれらは九州の原住民との間に長い期間に渡って混血・融合を繰り返して、言わば「南九州連合国家」の原型が出来上がっていた可能性も否定しきれない。
最近の日本人血液型の研究によると、日本列島に初めて太平洋諸島の民族【O型】が渡来し、そこに北方系の民族【B型】が朝鮮を経て渡来して、さらに他の渡来系【A型】があると言われる。又DNA研究の成果では、現代の韓国人に一番近いDNAを持っている人達が住む地域は、圧倒的に近畿地方で、中国地方、四国地方に少し、そして北九州と中九州にごく僅か、という結果になっていて、南九州には殆ど存在しないとされている。

不仲の別の理由として「国家間対立」がある。邪馬台国は大帯郡を通じ「魏」と交渉を持っていたが、対立する「呉」は狗奴国と通じており、直接狗奴国を援助していたという説だ。諸国が乱れ、未だ統一に至っていなかった混乱期に、倭国で「魏」と「呉」の代理戦争が行われていたというものである。
しかし「三国志」の「呉書」によれば、遼東の公孫淵が敗北した後、呉は東方から撤退する。邪馬台国と狗奴国の戦いが行われていた頃の呉は、孫権の後継をめぐって権力闘争が激化し、やがて混乱の中で孫権も死亡する。とても狗奴国を支援している余裕などなかったに違いない。もし「呉」と狗奴国の同盟関係があったとしたら、倭人伝はもっと違う表現になっていたのではないだろうか。


 



狗奴国のその後

 1.狗奴国消滅説

狗奴国は邪馬台国との闘争に敗れ、そのまま歴史の中に滅んでいったとする説である。しかし倭人伝を読むと何処にも狗奴国が滅んだ記事はないし、邪馬台国との闘争で邪馬台国に負けたとも記されていない。長い間緊張状態にあった二国間の争いに関しては、卑弥呼が使者を使わして魏に援助を頼んだことが記録されている。即ち、正始元年から4年、6年、8年と卑弥呼と魏の間で遣使の行交がある。しかし半島の難しい情勢からなかなか日本に来れなかったようで、実際に魏の使者・張政が日本にやってくるのは正始8年(247)の事であった。倭人伝はその事を
「その八年、太守王斤頁官に到る。倭の女王卑彌呼、狗奴國の男王卑彌弓呼と素より和せず。倭の載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹掾史張政等を遣わし、因って詔書、黄幢をもたらし、難升米に拜假せしめ、檄をつくりてこれを告喩す。卑弥呼以て死す。大いに冢を作る。」と記録している。
むしろこの記事からは、狗奴国との闘いで卑弥呼が死んだとも解釈できる。或いは塞曹掾史張政等が到着したとき既に卑弥呼は死んでいたとも解釈できるのだ。「卑弥呼以死」の「以」を「もって」と呼べば「もって死す」となり、狗奴国との闘いのせいで死んだとなるし、「すでに」と呼べば「既に死んでいた」と言うことになって張政等は卑弥呼に会えなかった事になってしまう。「以」を「すでに」とする使用法は、中国の他の史書にも見られるのでその可能性は高いが、現代の中国の学者に言わせると「以」にはなんの意味もないと言う意見もある(王栄仲氏)。単に「卑弥呼が死んだ」と書かれているに過ぎないと言う。
いずれにしても、247年か、或いはその数年後には卑弥呼が死んだことは確実で、ここに「邪馬台国」の女王「卑弥呼」は歴史から消えていったのである。卑弥呼が狗奴国との闘争で死去し、邪馬台国もそこで滅んだとする見方に立った説が次の東遷説である。


	 2.狗奴国東遷説

	「神武東征神話」そのものは『古事記』や『日本書紀』による虚構であるとする学者たちの中にも、モデルとなった何らか
	の歴史的事実があったのではないかと考えている人は多い。狗奴国は、鹿児島・熊本・宮崎あたりの南九州を領域にしてい
	たとし、狗奴国が邪馬台国を滅ぼして九州を統一し、その勢いで東征したという可能性を考え、畿内勢力を打倒したとする。
	これによれば、狗奴国が「邪馬台国」との闘争に勝利し、その勢いで畿内にも進出して大和朝廷を成立させたという事にな
	る。
	『晋書』「四夷伝」倭人条には、266年に邪馬台国が西晋に朝貢したことは記述されているが、それ以降、西晋に朝貢し
	た事実がなく、邪馬台国はその後滅亡したと考えるものだ。266年と言えば、魏王朝が倒れ司馬氏の晋朝が成立した翌年、
	武帝の泰始2年のことである。当時邪馬台国に対抗していたのは狗奴国のみなので、狗奴国が邪馬台国を滅ぼしたと考える
	のが一番合理的なのだろう。この壱与の使節派遣を最後に、「邪馬台国」は中国の史書から姿を消してしまう。
	その後我が国が中国の史書に登場するのは421年、南朝の宋の時代、永初2年の事で、使節を送ったのはいわゆる倭の五
	王の一人「讃」(さん: 仁徳天皇?)である。讃は「倭国王」として記録されているので、泰始2年(266)から永初2年
	(421)の約150年間の間に、日本全土の統一が成り、名実ともに統一王朝が出現したのである。
	この150年間は、これまで日本史上「謎の4世紀」とか呼ばれて来たが、史書に記録がないだけで、別に「謎」ではない。
	考古学上の知見はたくさんあるし、我が国の史書「古事記」「日本書紀」と照らし合わせれば、激動の時代であった4世紀
	が見えてくる。
	先年物故された、早稲田大学名誉教授の水野祐氏(歴史学)はかって、「奴国が伊都国にほろぼされ、その敗残勢力が筑後
	川を越え九州山地を横切って九州南部に拠点を移し、頭に「狗」をつけて「狗奴国」になった。その後、この勢力が「神武
	東遷」として大和に入ったのが大和朝廷である」と言う説をとなえていた。(「古代王朝99の謎」角川文庫:角川書店 昭和
	60年11月10日発行)狗奴国を、南部九州と考えているわけで、水野祐氏の説では、狗奴国の「狗」は、半島の言葉で
	は「大きい」という意味で、「狗奴国」とは「大奴国」ということらしい。そこで、後漢に朝貢して金印をもらった奴国の
	首長層は、奴国が邪馬台国に屈服したときに、筑後川沿岸まで逃げてそこから南の地方に、新しい奴国「狗奴国」をつくっ
	たというものである。最終的に水野氏は、仁徳王朝がこの狗奴国の流れを継ぐ王朝であるであるとしていた。
	事ほど左様に、「謎の4世紀」については記録がないのでいかようにも「自説」を展開できる。「狗奴国東遷説」もただち
	に肯首できると言うわけではないが、さりとて全面的に否定できない面も多く持っている。



	 3.狗奴国発展説

	この説は、簡単に言ってしまえば狗奴国はそのまま存続し、やがて後世「熊襲」と呼ばれる勢力に発展したというものであ
	る。邪馬台国が東遷して近畿で闘いが続いていた間、或いは近畿に発生した初期ヤマト王朝が覇権争いを繰り返し、各地で
	倭国大乱の様相を呈していた間、狗奴国は南九州にとどまり、そこで独自の勢力を保ち続け、やがて畿内を統一した勢力と
	ぶつかることになる。
	「古事記」「日本書紀」には、初期の頃ヤマトの大王にまつろわぬ民族として熊襲と蝦夷がたびたび登場する。神功皇后の
	夫、第14代仲哀天皇は熊襲征伐の途中、「新羅を打て」という神の撰託を無視したため、琴を挽いている時、或いはふて
	くされて寝たとき、俄に死んだことになっているが、日本書紀は一書に曰くとして、矢を受けて死んだとも記録している。
	これをもって仲哀天皇は熊襲に殺されたと見る人もいる。また第12代景行天皇も息子のヤマトタケルを熊襲征伐に派遣し
	ている。26代継体天皇の時代には筑紫で磐井が叛乱を起こすが、これは筑紫ではなく筑後川南から熊本一帯に勢力を持っ
	ていた豪族という見方もある。つまり熊襲である。
	このように、一応の日本統一が成った後でも南九州には何か北九州圏や近畿勢とは違う勢力がいたのである。どうしても、
	新しく日本を統一した勢力とは相容れない集団があったと考えると、それは狗奴国から発展していったものと考えると無理
	がないような気がする。


 




	おわりに

	卑弥呼が死んだ後倭国は再び混乱の時期を迎える。男王を擁立したが国中納得せず、再び殺し合って1000余人が死んだと倭
	人伝は記し、さらに卑弥呼の血縁の壱与を王女にして混乱は収まったと記されている。卑弥呼から壱与の間が何年くらい経
	っているのかはわからないが、「政等、檄を以て壹與を告喩す。壹與、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等
	の還るを送らしむ。因って臺に詣り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔、青大勾珠二牧、異文雑錦二十匹を貢す。」と
	あるので、卑弥呼からそんなに間は空いていないと思われる。また軍勢が帰っていったので、これをもって邪馬台国は狗奴
	国との闘いには勝利したのだ、という見方もある。魏志倭人伝はこの文章で完結しているのである。

	私の意見としては、邪馬台国と狗奴国との間の闘争は一応の停戦状態になり、邪馬台国も狗奴国もしばらくはともに存続し
	ていたのではないかと思う。以前は、その後邪馬台国が東遷し近畿勢を打ち負かしてヤマト王朝をうち立てたという「邪馬
	台国東遷説」の立場に立っていたが、最近どうも違うのではないかと思うようになった。
	全国に散らばる古墳からの出土物を見ると、日本の社会は卑弥呼以後の150年間に本格的な軍事政権の到来を見るのであ
	る。夥しい馬具に武具、鉄剣に弓矢といった闘いの日々の中に古墳の埋葬者たちは生きていた。とても1女子を女王として
	擁立し、それで国中が平和に収まるというような生やさしい社会ではなかっただろう。刺し殺し、首をはね、目玉をえぐる
	というような残虐な闘いが100年以上続いたのではないかと思われる。

	「宋書」には、倭王讃以下五人の王が登場する。珍・済・興・武である。このいわゆる「倭の五王」たちは王そのものが武
	力に秀でた絶対君主のような存在であった。「王自ら甲冑を纒い山河を駆けめぐって、寧所(ねいしょ)に暇(いとま)あ
	らず。」とあり、済などは「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・募韓六国諸軍事」「安東大将軍」の称号を貰ってい
	る。これは我が国のみならず、朝鮮半島をも倭国の支配下に置く事を中国が認めているのである。この時代になると馬が大
	量に日本にも移入され、軍事力は邪馬台国の時代とは比べものにならない規模に発展していたと考えられる。シャーマンと
	しての卑弥呼、年端もいかない壱与。邪馬台国時代の統治を考えると、とてもこの連合国家が日本を武力で統一したとは考
	えにくい。武力を保持しない女王をたてる事で、あえて国中を治めようとした倭国連合の人々の感性は、この激動の4世紀
	には通用しなかったのではないだろうか。邪馬台国は、台頭してきた渡来系の新興集団によって滅ばされ、あるいは取り込
	まれて歴史から消えていったという可能性も大である。4世紀には大和を中心に各地に古墳が築造され、明らかにそれまで
	とは異質な民族たちの大量移入を思わせる証拠が山ほど残されている。それは「邪馬台国時代」とは異なる文化である。

	私は、過去、日本に置ける劇的な変化がこれまでに三度起きたと思う。一度は明治維新、そして一つは第二次大戦の終了。
	そしてもう一つがこの4世紀である。現在の日本の中央集権制の基礎、大和王朝の基礎、日本語の基礎、武力体制の基礎、
	あらゆる社会としての基盤の確立はこの時代に固まったと考える。
	さて、このHPのテーマであるが、狗奴国は生き残ったと思う。私の心情としては、現時点では、(3)の狗奴国発展説を
	支持したい。南九州は狗奴国から熊襲へ発展し、やがて隼人と呼ばれる人達とも融合し、現代まで、まつろわなかった民族
	の血を脈々と受け継いでいるように思えてならない。(2000.12.30)





	魏志倭人傅(読み下し文) 


	倭人は帯方の東南、大海の中に在り。山海に依りて國邑をなす。旧百余国。漢の時、朝見する者あり。今、使訳の通ずる所
	三十国。 

	郡より倭に至るには、海岸に循して水行し、韓国を歴て、乍は南しあるいは東し、その北岸、狗邪韓国に至る。七千余里。 

	始めて一海を度る。千余里。対馬国に至る。大官を卑狗といい、卑奴母離という。居る所絶島にして、方四百余里ばかり。 
	土地は山剣しく、深林多く、道路は禽鹿の径の如し。千余戸あり。良田なく、海物を食して自活し、船に乗りて南北に市糴
	す。 

	又南一海をわたる千余里。名づけて瀚海という。一大国に至る。官また卑狗といい、副を卑奴母離という。方、三百里ばか
	り。 竹木、叢林多く、三千ばかりの家あり。やや田地あり。 田を耕せどなお食足らず。南北に市糴す。 

	また一海を渡る千余里、末盧国に至る。四千余戸あり。山海に濱いて居る。草木茂盛して行く前に人を見ず。
	好んで魚鰒を捕うる。水、深浅となく、みな沈没してこれを捕る。 

	東南に陸行すること五百里、伊都国に到る。官は爾支といい、副は泄謨觚、柄觚という。 
	千余戸あり。世々王あるもみな女王国に統属す。郡の使いの往来して常に駐る所なり。 

	東南して奴国に至る。官は兒馬觚といい、副は卑奴母離という。2万余戸あり。 
	東行不弥国に至る。百里。官を多模といい、副を卑奴母離という。千余の家あり。 
	南、投馬国に至る。水行二十日。官を彌彌といい、副を彌彌那利という。五万余戸ばかりあり。 

	南、邪馬台国に至る。女王の郡する所なり。水行十日、陸行一月。官に伊支馬あり。 
	次を彌馬升といい、次は彌馬獲支といい、次は奴佳韃という。7万余戸ばかりあり。 
	女王国より以北はその戸数・道里は得て略載すべきも、 
	その余の旁国は遠絶にして詳らかにすることを得べからず。 

	次に斯馬国あり。次に己百支国あり。次に伊邪国あり。次に郡支国あり。次に彌奴国あり。 
	次に好古都国あり。次に不呼国あり。次に姐奴国あり。次に対蘇国あり。次に蘇奴国あり。 
	次に呼邑国あり。次に華奴蘇奴国あり。次に鬼国あり。次に為吾国あり。次に鬼奴国あり。 
	次に邪馬国あり。次に躬臣国あり。次に巴利国あり。次に支惟国あり。次に烏奴国あり。次に奴国あり。 
	これ女王に境界の尽くる所なり。 

	その南に狗奴国あり。男子を王となす。その官に狗古智卑狗あり。 
	女王に属せず。郡より女王国に至ること万二千余里。 

	男子は大小となく、皆黥面文身す。古よりこのかた、その使中国に詣るや、皆自ら大夫と称す。 
	夏后少康の子、会稽に封ぜらるるや、断髪文身をもって蛟龍の害を避く。 
	今、倭の水人、好んで沈没して魚蛤を捕え、文身してまた以って大魚、水禽を厭うなり。 
	後やや以って飾りとなす。 
	諸国の文身各異る。或いは左にし或いは右にし、或いは大に或いは小に、尊卑差あり。 
	その道里を計るに、まさに会稽の東治の東に在るべし。 

	その風俗は淫ならず。男子は皆露介し、木綿をもって頭に招く。 
	その衣の横幅は但結束して相連ね、略縫うことなし。 
	婦人は被服屈介、衣を作ること単被の如く、その中央を穿ち、頭を貫きて之を衣る。 
	禾稲、紵麻を種え、蚕桑して絹績し、細紵・兼綿を出す。 
	その他には、牛・馬・虎・表・羊・鵲なし。 
	兵は矛・盾・木弓を用う。木弓は下を短くし上を長くし、竹箭は或は鉄鏃、或は骨鏃。 
	有無する所、たん耳、朱崖と同じ。 

	倭の地は温暖にして、冬夏生菜を食す。 
	皆徒跣。屋室あり、父母兄弟、臥息処を異にす。 
	朱丹を以てその身体に塗る、中国の粉を用うるが如きなり。 
	食飲にはへん豆を用い手食す。その死には柩在るも槨なく、土を封じて家を作る。 
	始め視するや停喪十余似ぢ、時に当りて肉を食わず、喪主哭泣し、他人就いて歌舞飲酒す。 
	已に葬れば、挙家水中に詣りて澡浴し、以て練沐の如くす。 
	その行来して海を渡り、中国に詣るには、恒に一人をして頭を梳らず、き蚕を去らず、 
	衣服垢汚、肉を食わず、婦人を近づけず、喪人の如くせしむ。 
	これを名付けて持衰となす。 
	もし行く者吉善ならば、共にその生口・財物を顧し、もし疾病あり、妨害に遭はば、便ちこれを殺さんと欲す。 
	それ持衰謹まざればなりという。 

	真珠、青玉を出す。その山には丹有り。 
	その木には檀、杼、予樟、楙、櫪、投、橿、烏号、楓香あり。その竹には篠、幹、桃支あり。 
	薑、橘、じょう荷あるも、もって滋味となすことを知らず。 
	び猿、黒ちあり。 

	その俗挙事行来に、云爲する所あれば、輒ち骨を灼きて卜し、以て吉凶を占い、先ず卜する所を告ぐ。
	その辞は令亀の法の如く、火タクを観て兆を占う。 
	その会同・坐起には、父子男女別なし。人性酒を嗜む。(魏略曰く、四季を知らず。但し、
	春に耕し秋に収穫することから年を計る)大人の敬する所を見れば、ただ手を摶ち以て跪拝に当つ。 
	その人寿考、あるいは百年、あるいは八、九十年。その俗、国の大人は皆四、五婦、下戸もあるいは二、三婦。婦人淫せ
	ず、妬忌せず、盗窃せず、諍訟少なし。その法を犯すや、軽き者はその妻子を没し、重き者はその門戸および宗族を没す。 
	尊卑各々差序あり、相臣服するに足る。租賦を収む、邸閣あり、國國市あり。有無を交易し、大倭をしてこれを監せしむ。 

	女王國より以北には、特に一大率を置き、諸國を檢察せしむ。諸國これを畏憚す。常に伊都國に治す。
	國中において刺史の 如きあり。 王、使を遣わして京都、帯方郡、諸韓國に詣り、および郡の倭國に使するや、
	皆津に臨みて捜露し、文書、賜遺の物を伝送して女王に詣らしめ、差錯するを得ず。 
	下戸、大人と道路に相逢えば、逡巡して草に入り、辞を伝え事を説くには、あるいは蹲りあるいは跪き、両手は地に拠り、
	これが恭敬を為す。対応の声を噫という、比するに然諾の如し。 

	その國、本また男子を以て王となし、住まること七、八十年。倭國乱れ、相攻伐すること歴年、
	乃ち共に一女子を立てて王となす。 名付けて卑彌呼という。鬼道に事え、能く衆を惑わす。年已に長大なるも、夫婿なく、
	男弟あり、助けて國を治む。王と爲りしより以来、見るある者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ。 
	ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す。宮室、楼観、城柵、嚴かに設け、常に人あり、兵を持して守衛
	す。 

	女王國の東、海を渡る千余里、また國あり、皆倭種なり、また侏儒國その南にあり。人の長三、四尺、女王を去る四千余
	里。また裸國、黒齒國あり、またその東南にあり。船行一年にして至るべし。倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在
	し、あるいは絶えあるいは連なり、周施五千余里ばかりなり。 

	景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし郡に詣り、天子に詣りて朝獻せんことを求む。
	太守劉夏、使を遣わし、将って送りて京都に詣らしむ。 
	その年十二月、詔書して倭の女王に報じていわく、「親魏倭王卑彌呼に制詔す。帯方の太守劉夏、使を遣わし汝の大夫難
	升米、次使都市牛利を送り、汝献ずる所の男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈を奉り以て到る。 
	汝がある所遥かに遠きも、乃ち使を遣わし貢獻す。これ汝の忠孝、我れ甚だ汝を哀れむ。今汝を以て親魏倭王と爲し、
	金印紫綬を仮し、装封して帶方の太守に付し假授せしむ。汝、それ種人を綏撫し、勉めて孝順をなせ。 
	汝が來使難升米、牛利、遠きを渉り、道路勤労す。今、難升米を以て率善中郎将と爲し、牛利を率善校尉と爲し、
	銀印青綬を仮し、引見労賜し遣わし還す。 
	今、絳地交竜錦五匹(臣松之、地はと爲すべきであろう。漢の文帝は衣を着、これを戈といい、これなり。
	この字はのっとらず、魏朝の過失ではなく、伝写者の誤りなり)、絳地スウ粟ケイ十張、絳絳五十匹、
	紺青五十匹を以て汝が献ずる所の貢直に答う。 
	また、特に汝に紺地句文錦三匹・細班華ケイ五張、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百牧、眞珠、鉛丹各五十斤を
	賜い、皆装封して難升米、牛利に付す。還り到らば録受し、悉く以て汝が國中の人に示し、國家汝を哀れむを知らしむべ
	し。 故に鄭重に汝に好物を賜うなり」と。 

	正始元年、太守弓遵、建中校尉梯儁等を遣わし、詣書・印綬を奉じて、倭國に詣り、倭王に拜假し、ならびに詔を齎し、
	金帛、錦ケイ、刀、鏡、采物を賜う。倭王、使に因って上表し、詣恩を答謝す。 
	その四年、倭王、また使大夫伊聲耆・掖邪狗等八人を遣わし、生口、倭錦、絳青ケン、緜衣、帛布、丹、木 、短弓矢を
	上献す。掖邪狗等、率善中郎将の印綬を壹拜す。 その六年、詔して倭の難升米に黄幢を賜い、 郡に付して假授せしむ。 
	その八年、太守王斤頁官に到る。倭の女王卑彌呼、狗奴國の男王卑彌弓呼と素より和せず。
	倭の載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。 
	塞曹掾史張政等を遣わし、因って詔書、黄幢をもたらし、難升米に拜假せしめ、檄をつくりてこれを告喩す。 

	卑弥呼以て死す。大いに冢を作る。徑百余歩、徇葬する者、奴婢百余人。更に男王を立てしも、
	國中服せず。更相誅殺し、当時千余人を殺す。 また卑彌呼の宗女壹與、年十三爲るを立てて王となし、國中遂に定まる。
	政等、檄を以て壹與を告喩す。 壹與、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等の還るを送らしむ。
	因って臺に詣り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔、青大勾珠二牧、異文雑錦二十匹を貢す。 




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