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戦後まもなく、江上波夫博士が唱えた有名な説である。一言で言えば、古代(弥生・古墳時代)日本に渡来した、遙か東アジア北方の騎馬民族が日本列島を支配・征服し現在に至っている、と言うものだ。


江上氏のこの説はおそろしく雄大で非常に魅力的である。古墳めぐりをしてそこから出土した夥しい馬具や武器を見てきた私にとって、この「騎馬民族征服説」は、一体どうやってこれらの器具は日本中にしかも均一的に拡散したのだろうという疑問に答えてくれる明快な論理のように思える。騎馬民族! それなら馬や馬具などに通じていてあたりまえだ。古墳の形態や馬具・武具の急速な伝播も、彼らが馬に乗って日本中を駆けめぐっていったと思えば納得できる。しかし、その過程で日本人はほんとに彼らに征服されていったのだろうか? 我々は征服者の、あるいは被征服者の子孫なのか? 天皇は騎馬民族の末裔なのか?
江上波夫氏は昭和23年(1948)年に、岡正雄、八幡一郎、石田英一郎三氏との座談会で、「日本国家の起源が東北アジアの騎馬民族の日本征服にある」という説を提起して以来、現在まで一貫してこの説を展開している。この説はやがて「騎馬民族説」とか「騎馬民族征服説」とか呼ばれるようになり、賛否両論の渦を巻き起こしながら今日に至っている。氏は幾つかの論文・著書でこの説を発展・拡充させており、ごく最近も初期の論文を収録し新たに書き下ろしたものも加えて、森浩一氏編による単行本が刊行された。しかし、氏の説の集大成とも言うべき本は、昭和42年に中公新書から出た「騎馬民族国家 −日本古代史へのアプローチ−」である。これは普通の新書の倍以上ある分量で、氏の「騎馬民族説」のほぼ全容が織り込まれていると言っていいだろう。騎馬民族とは一体どんな民族なのか?その生い立ちは、生活範囲は? ユーラシアにおける騎馬民族はどのようにして発生したのか、その種類は? そして、日本にどうやってやってきたのか? 日本民族の形成に騎馬民族がどうかかわっているのか? これらを順序立てて説く氏の構想は、読んでいてすっかりその気になってしまう程雄大で夢想的である。


	【騎馬民族征服説】

	3世紀末にツングース系騎馬民族(夫余族)の高句麗が、朝鮮半島を南下して南朝鮮を支配する。百済王はこの騎馬
	民族の首長ではないかと江上氏は示唆している。この騎馬民族はやがて4世紀になって北九州に上陸しこの地を征服
	する。その時朝鮮からやってきて、後100年ほど続く「九州王朝」の開祖となった者が、後に「崇神天皇」と呼ば
	れるようになったと言うのである。現天皇家の始祖はここにあるとする。江上氏によればこれが「第一回の建国」と
	いうことになる。
	「九州王朝」はやがて「応神天皇」を戴いて近畿征服を果たす。この北九州から近畿への遠征が「神武東征」として
	日本神話に反映している。「第二回目の建国」である。ちなみに、崇神の渡来はニニギノミコトによる高千穂峰への
	降臨として説話に残っている、と言う。前述の「騎馬民族国家」のなかで江上氏は、こういう考えに至った理由を8
	つ挙げている。そのまま抜き出してみよう。

	(1).前期古墳文化と後期古墳文化とは、互いに根本的に異質なこと。

	(2).その変化がかなり急激で、その間に自然な推移を認めがたいこと。

	(3).一般的に農耕民族は、自己の伝統的な文化に固執する性向が強く、急激に、他国あるいは他民族の文化を受
		け入れて自己の伝統的な文化の性格を変容させるような傾向は極めて少なく、農耕民であった倭人の場合で
		も同様であったと思われること。

	(4).我が国の、後期古墳文化における大陸北方系騎馬民族文化複合体は、大陸及び半島におけるそれと、全く共
		通し、その複合体の、あろものが部分的に、あるいは選択的に日本に受け入れられたとは認められないこと。
		言い換えれば、大陸北方系騎馬民族文化複合体が、一体として、そっくりそのまま、何人かによって、日本
		に持ち込これたものであろうと解されること。

	(5).弥生式文化ないし前期古墳文化の時代に、馬牛の少なかった日本が、後期古墳文化の時代になって、急に多
		数の馬匹を飼育するようになったが、これは馬だけが大陸から渡来して、人が来なかったとは解しがたく、
		どうしても騎馬を常習とした民族が馬を伴って、かなり多数の人間が、大陸から日本に渡来したと考えなけ
		れば不自然なこと。

	(6).後期古墳文化が王侯貴族的・騎馬民族的な文化で、その弘布が、武力による日本の征服・支配を暗示させる
		こと。

	(7).後期古墳の濃厚な分布地域が軍事的要地と認められる所に多いこと。

	(8).一般に騎馬民族は陸上の征服活動だけでなく、海上を渡っても征服欲を満足せしめようとする例が少なくな
		いこと。(たとえばアラブ・ノルマン・蒙古など)。したがって南朝鮮まで騎馬民族の征服活動がおよんだ
		場合には、日本への侵入もあり得ないことではないこと。

	と述べて、次のように結論づける。

	「私は、前期古墳文化人なる倭人が、自主的な立場で、騎馬民族的大陸北方文化を受け入れて、その農耕民族的文化を変
	質させたのではなく、大陸から朝鮮半島を経由し直接日本に侵入し、倭人を征服・支配したある有力な騎馬民族があり、
	その征服民族が、以上のような大陸北方系文化複合体をみずから帯同してきて、日本に普及させたと解釈する方が、より
	自然であろうと考えるのである。」

	さぁどうだろう。この江上博士の発想はロマンに満ちている。この後氏は上記の理由について一つ一つ詳細に検討してい
	くのであるが、当然「記紀」についても言及し、どうして「崇神」(すじん)天皇、「応神」(おうじん)天皇なのかに
	ついても検証を進めている。崇神天皇の別名「御間城入彦」「御間城天皇」のミマキに注目し、「ミマキ天皇」とは、
	「ミマ」の宮殿に居住した天皇であるとしている。そしてミマこそ南鮮にあった「任那」だというのである。即ち日本の
	天皇家の始祖は任那から来たということになる。また応神天皇は九州の出身ということが「記紀」に載っており、河内に
	ある現「応神天皇陵」はそのまま応神天皇の墓と見なして良く、応神こそ北九州から畿内に進出しそこに大和朝廷を創始
	した立て役者であろうという、水野祐、井上光貞の説を紹介している。そして「記紀」神話や伝承に関する考察の結果と
	して、「天神(あまつかみ)なる外来民族による国神(くにつかみ)なる原住民族の征服−日本国家の実現が、だいたい
	二段の過程で行われ、第一段は南鮮の任那(伽羅)方面から北九州(筑紫)への進入、第二段は北九州から畿内への進出
	で、前者は崇神天皇を代表者とした天孫族と、たぶん大伴・中臣らの天神系諸氏の連合により、4世紀前半におこなわれ、
	後者は応神天皇を中心とした、やはり大伴・久米らの天神系諸氏連合により、4世紀末から5世紀初めのあいだに実行さ
	れたように解されるのである」と言う。

 この「騎馬民族日本列島征服説」にたいして当然反論もある。たとえば、崇神天皇の諡号「ミマキイリヒコ」のミマキを任那とみなすには根拠が乏しいとする意見。黛弘道氏は、「ミマキ=御真木=三輪山の神木」であり、任那のことではないと言う。
また4世紀末から5世紀のはじめに応神が近畿を征服したため、そのころ急激な変化が古墳の内容に起こったという(1).(2).についても従来多くの考古学者は否定的で、前期古墳・後期古墳の変化は自然推移的な変化であり「急激」ではないという意見や、何ら変化は認められないというものもある。従来の考古学上の成果では、未だこの変化を証明できる決め手はないように思える。
しかしながら、最近の発掘結果による成果では5世紀前半に日本古代における産業革命とでも呼ぶべき大変化が起こったのではないかという見方も芽生えつつある。金属器の自主製造や稲作技術の日本適合など。古墳発生時期の見直しも今盛んであるが、これはどうもキナ臭いにおいがしてしようがない。つまり「古代文化」と「大和朝廷」の起源をどうしても畿内に置きたい学者達によって、畿内の古墳の築造年月がどんどん遡っているような気がするのである。江上説によれば「大和王朝」がまだ「九州王朝」であった頃、奈良盆地には既に前方後円墳が発生していた。したがって応神が近畿に来てから始まったという古墳の発生と矛盾するではないか、と言う類である。
しかしその古墳の発生にしても、ほんとに奈良盆地の人々が自力でこれを発生させ作り上げたのかという点については、畿内シンパの学者達の中でも疑問視する声もある。即ち、どこかよそから来た人々がこれを行ったのではないかというのである。




現時点で学問的には、この「騎馬民族征服説」はすんなり学会に認められているとは言い難いが、人物の特定はひとまず置くとして、大まかな民族や権力構造の成立過程については大いに示唆に富んだ説であろう。しかも、戦後まもなくまだ人々が敗戦の痛手からも立ち直っておらず、天皇家神聖視の気風も完全には消え去っていない昭和23年という時点で、こういう説を公にしたという勇気には驚かざるを得ない。天皇家の始祖は朝鮮にあるという事を堂々と唱えたのである。旧日本軍が支配し、虐げ、搾取した朝鮮民族。自らは崇め奉っていた天皇がその被支配者層の出自だと言うのである。昭和25年頃になっても、朝鮮戦争で日本に来るアメリカ人をねらっていた旧軍人がいたという時代によくぞまぁと思う。
森浩一氏も近編著の「騎馬民族説」のあとがきに次のような意味の事を書いていた。(書店で読んだだけなので一言一句はよく覚えていないが、こういう趣旨だったと思う。)
「江上博士の騎馬民族征服説については多くの反論がある。微に入り細に入り反論が展開されているが、私はそういう事は乱暴に言えばどうでもいいと思う。それよりも、江上氏の雄大な構想力、その発想の大胆さには大いに敬服せざるを得ない。その勇気にも。今の学者達が学ばねばならぬのは、ちまちました知識の積み重ねよりも、むしろ江上博士のこういう点にあるのではないか」。

先日この部分に関して、読者の方から以下のような主旨のメイルを頂いた。
「・天皇家の始祖は朝鮮にあるという説は江上氏の発案ではなく、既に戦前にもあった。・江上博士だけが勇気があったような表現は誤解を招く。・騎馬民族征服説は間違いである。こんな説を尊ぶのは日本人としておかしい。」
勿論私も、戦前にそういう説を唱えた人たちがいたことも知っているし、「騎馬民族征服説」に対する反論も述べたとおりである。国立民族学博物館の館長であった佐原真がこの説に対して加えた反論は、学問的な反論というよりも江上博士に対する個人的な誹謗に近かった。「我々のように今日歴史を学ぶ者のつとめは、この(騎馬民族征服説の)ような説を撲滅することだと言って良い。」とまで書いていた。佐原はあらゆる機会を捉えて同様の言い方で江上氏を糾弾していたが、これに対して江上博士は、学問上の反論以外は一言の弁明もしなかった。口から泡をとばして他人を糾弾する者と、「これはあくまでも学問上の一説です。」とばかりに沈黙して語らなかった者と、いずれが歴史を学ぶ者として好感がもてるか瞭然である。(2003.12.31)







		「騎馬民族日本征服説」の考古学者、江上波夫さん逝く  2002年11月16日 -Mainichi.co.jp-
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96歳で亡くなった江上波夫さん

		「騎馬民族日本征服説」で知られる考古学者で文化勲章受章者の江上波夫(えがみ・なみお)さんが11日午後7時20分、
		肺炎のため横浜市の病院で死去した。96歳。
		北方ユーラシアなどの現地調査に基づき、48年に騎馬民族国家説を発表、考古学界に大論争を巻き起こした。同説は、北
		東アジア系の騎馬民族の一団が朝鮮半島に移動し、そこから北九州、さらに近畿地方に侵入して大和を中心とする国家を建
		てたとするもの。東大退官翌年の68年に自説を著作「騎馬民族国家」にまとめ、毎日出版文化賞を受賞した。 
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		騎馬民族征服説を唱えた考古学者の江上波夫さん死去 2002年11月16日 -Asahi.com-

		大陸からやって来た騎馬民族が征服王朝を築き、日本の支配層になったという説を唱えて、戦後の歴史学界に大きな論議を
		呼び起こした、考古学者で文化勲章受章者の古代オリエント博物館長・江上波夫(えがみ・なみお)さんが11日午後7時
		20分、肺炎のため死去した。96歳だった。葬儀は近親者だけで済ませた。告別式は20日午後2時から東京都品川区北
		品川4の7の40のキリスト品川教会で。喪主は妻幸子さん。自宅は公表していない。 
		山口県生まれ。1930年東京大文学部東洋史学科卒。東亜考古学北支留学生として北京に留学。その後、外務省の東方文
		化学院東京研究所研究員としてモンゴルの遊牧地帯を調査した。 
		戦後は東大や札幌大、上智大の教授などを歴任。日本でのオリエント学の基礎を築き、国際文化交流に尽くした。 
		考古学のほか、歴史学、人類学、民族学と多彩な分野で活躍。日本の国家形成を東アジア史の枠組みでとらえた「騎馬民族
		征服王朝説」を48年に発表した。4、5世紀の東アジアで北方系の騎馬民族が次々に南下して新王朝を建設したことを踏
		まえ、日本もその例外でないとし、神話に始まる天皇家の伝統を教え込まれてきた日本人に衝撃を与えた。 
		(19:35) 













		このHPを製作・掲載したのは今から数年前だが、文中にも記したように、この間読者から多くのメールを頂いた。その多
		くが「騎馬民族征服説」には批判的な内容で、「騎馬民族は来ていない。」とか「古墳文化は日本国内で発生したもので渡
		来人が持ってきたものではない。」とか「あんなに大量の馬を、当時の船でいったいどうやって日本まで運んできたんだ。」
		というような内容である。メールを読むと、現在、古代史関係の研究に携わっている人ではないかと思わせるようなものも
		あって、「別に私はあなたの論客ではないんだがなぁ。」と思いつつも返事を返している。
		騎馬民族征服説については、遺跡巡りや博物館めぐりなど、「邪馬台国大研究」HPの随所に渡って話題が出現するので、
		その箇所箇所では説明を書いているのだが、未だにメールを頂くので、この際もう一度この学説の持つ意味合いを考え直し
		てみたいと思う。

		第二次大戦の敗北が、社会的に大きな価値観の変革をもたらしたことは当然であるが、とりわけ歴史学・考古学の分野にお
		いてはまさに180度の転換であった。それはこのHPの随所に書いてきたが、皇国史観が全否定され、それまで権力によ
		って抑圧されてきたマルクス主義が一気に地表へ噴き出し、その思想はあらゆる人文系の学問分野に浸透し、歴史・考古学
		の分野においても例外ではなかった。マルクス主義に基づく史観は唯物史観史学とよばれ、そのあたりの経緯は「邪馬台国
		研究史」の中で述べたが、もう一度その部分をここに書き出してみる。

		唯物史観史学そのものの成立は、昭和2年野呂栄太郎(1900〜1934)の『日本資本主義発達史』に始まる。その後、古代史
		の分野でもこの史観に基づく論文が続々と発表される。早川次郎(1906〜1937)の『大化改新の研究』は邪馬台国問題をこの
		立場から取り上げた最初の研究として知られる。禰津正志、渡部義通、伊豆公夫らが後に続き、これらの唯物史観史学者た
		ちの邪馬台国位置論は大和説に大きく傾いていた。末松保和の後を受けた研究は、橋本増吉、伊藤徳男、田村専之助らが引
		き継いだ。こちらは、邪馬台国九州説が専らであった。しかしこれらの史観と関係なしに、邪馬台国大和説もどんどん発表
		された。稲葉岩吉、肥後和男、梅原末治、志田不動麿、大森志郎、笠井新也、藤田元治らが論文を著し、邪馬台国問題と大
		和朝廷の研究を行った。だが、時代は、もはやこれらの研究を大っぴらに行えないような環境に突入していた。昭和9年、
		10年ごろの日本史研究論文にはXXXXXXXXXXで伏せられた部分が実に多い。渡部義通は、自身の著書の検閲についてこう語
		っている。
		「それにしても、いま漸(ようや)くにして世の光に浴し得たものは、見る如く、惨然たる傷痍(しょうい)に損(そこ)
		なわれ、殊(こと)に後半は、校了の後(みぎり)に至り、文章の数行乃至(ないし)数十行を削除して片影を止めず、文
		脈の全く巡り難きところさへ数カ所に亘(わた)っている。本書の生みの親として、この不幸なカタワ児を見るの苦痛は然
		ることながら、かかるものを真摯(しんし)な研究者や読者に提供せねばならぬ苦痛には一層忍び難いものがある。・・・・・」

		こういう状況の中から、敗戦は、学者達がこぞって皇国史観を批判・非難し、マルクス主義による歴史観を吐露するという
		状況を生み出した。そして、抑圧されていた戦前から、若い研究者達はマルクス主義に大きな影響を受け、前述の渡部義通、
		和島誠一、伊東信雄などは、日本列島社会の形成については、大陸から稲作や金属器の移入はあったものの、大規模な民族
		の渡来や集団移住は無く、日本民族は、縄文−弥生−古墳文化と、日本列島の中で進化をとげ、生産力の向上にともなって
		段階的に社会も発展してきたという、いわゆる「社会進化説」を提唱していた。勿論、皇国史観の元ではこれらはおおっぴ
		らに叫ぶことは出来ず、その噴出は戦後を待たねばならなかったのであるが。

		戦後の邪馬台国研究
 
		今日から見ても、戦前の史学研究には多くの障害が存在していた事は想像に難くない。ずいぶんと不自由な学問分野であっ
		た事だろう。下手に論文を発表すると、検閲や不敬罪どころか非国民と呼ばれた時代である。あのまま、もし日本が太平洋
		戦争に勝っていたら、一体今ごろどんな世の中になっているのだろうか。
		戦前までの邪馬台国研究がどちらかと言えば、邪馬台国はどこか・卑弥呼は誰かという問題を中心に研究されてきたのに対
		し、戦後は様々な方法論による邪馬台国論が発表された。民族学、考古学、博物学、社会学等の自由な研究方法の進展と相
		まって、歴史学も又自由を取り戻したと言えよう。
		昭和25年藤間生大は『埋もれた金印』で、邪馬台国における王権構造、身分階級制度、社会生産力、共同体国家構造等の
		問題に触れ、邪馬台国研究をより深く掘り下げた。藤間の説は、邪馬台国は王達による卑弥呼の共立で成立した国家であり、
		はっきりした国家間の隷属関係などはまだ無かったというものであった。この説に、上田正昭や井上光貞、北山茂雄、直木
		孝次郎らが加わり活発な論戦が行われた。この時期、邪馬台国問題は多角的に研究の光があたったと言ってよい。
		榎一雄、牧健二、橋本増吉、原島礼二、武田幸男といった研究者達による魏志倭人伝の研究も、又新たな解釈や方法論を生
		み出していたし、世界史、特に東洋史の中に日本古代を置いて考える方向も、戦前と比べると著しく自由になった。
		日本民族は大陸の騎馬民族の末裔であるとか、天皇家は韓国王朝の流れを汲むとか、戦前の皇国史観から見ると銃殺ものと
		思えるような説も自由に発表され世に出た。

		このような状況の中で、前述した「社会進化説」は多くの学者・研究者達によって支持され、現在でも日本考古学・古代史
		学界の主流思想となっている。江上博士の「騎馬民族征服説」はいわばこの「社会進化説」に対抗する学説であり、多くの
		研究者達から批判の矢面に立たされたのである。中でも痛烈に「騎馬民族征服説」を批判したのは小林行雄、佐原真であっ
		た。その批判の内容は前述したし他でも書いたので繰り返さないが、私自身はこの説の信奉者というわけではない。私は大
		陸からの渡来はあったと考えているし、その数は結構な数に上ったと思う。又、古墳時代と弥生時代の変化は、とても自然
		に列島内で「進化」してきた文化だとは到底考えられない。騎馬民族は渡ってきて、日本本列島の社会に大きな影響を与え
		たと思うが、日本民族が征服されたわけではない。しかし与えた影響は大きいし、その後渡来人達が日本列島の支配層に納
		まっていった可能性は極めて大である。つまり今の皇室は渡来人の末裔である可能性が極めて高い。それを江上博士は騎馬
		王朝としたが、それは今のところ確実な証拠が有るわけではないし、誰にも、肯定も否定も出来ないと思う。

		私がここで問題にしたいのは「社会進化説」である。このような説が成り立たないことは、このHPの中の遺跡巡りや博物
		館巡りをじっくり見て頂いた人たちには自明の事では無いかと思う。湿地帯でイネを栽培していた弥生人たちが、半島や大
		陸にあるものと全く同じ形態の馬具や武具を、どうして自分たちで作り出すことが出来るのか。どうして金海や慶州にある
		古墳の出土物と日本の古墳からのそれが同一なのか。日本にある15万とも20万とも言われる古墳が、どうしてああまで
		画一性を保ち、しかも半島の古墳と同じようなものを副葬しているのか。大量の古墳時代人たちが日本に渡ってきたと考え
		る以外にその答えはない。それは騎馬民族ではなかったかもしれないが、少なくとも騎馬の風習は持っていた。

		列島内で自然に日本社会は進化・発展をとげ今日まで来たという発想は、私に言わせれば「国粋主義」である。当時文化的
		に優れた民族がすぐ隣にいて、その地で政変が繰り返される度に敗北者達は皆殺しにされるという状況があるとき、その敗
		北者達が隣の未開の地へ渡って行かない理由は何もない。むしろ積極的に渡って行ったと考えるほうが自然である。
		我々日本の社会は、これら渡来人達と、縄文−弥生と形成されてきた民族との「混合民族」なのだ。日本民族は、多少の渡
		来は別にして、その主流はどこからの影響も受けておらず、純粋に日本列島の中で進化してきたのだという「社会進化説」
		は、皮肉にも形を変えた「皇国史観」になっているのである。



邪馬台国大研究HP /日本史の謎/ 騎馬民族征服説