消えた縄文人








学問上
日本列島にも
原人が住んでいた事は
今日、ほぼ確定的となっている。
この原人の子孫たちが縄文人であるかどうかについては
まだ多くの検証が必要であるが、その可能性は非常に低いと考えられている。
やがて縄文人たちも、紀元前後弥生時代の幕開けとともに忽然と日本列島から姿を消していく。
現在、
縄文時代に対する見方は刻々と変貌しつつある。三内丸山遺跡の発見に端を発した「縄文時代」に対する学問的な見解は、今やその大部分が
塗り替えられてしまったとも言える。紀元前12,000年位とされていた縄文時代の開始時期は、16,000年前と4,000年も遡ったし、
10、20ではなく100軒、200軒という単位で定住し、いわば小都市をも形成していた事実も明らかになった。
中期から後期にかけては、「狩り」ではなく「農耕」で生活を支えていた事も証明されている。
農耕と言っても稲作ではない。本格的な稲作はやはり弥生時代に
その発展を見るのであり、縄文の農耕は穀物(粟、稗等)
・木の実(クリ、ヤマモモ等)等の栽培と、家畜の
飼育である。ブタ、イヌ、地域に
よってはシカも飼育して
いたのではないか
とされる。










	宮城県の高森、上高森遺跡から出土した石器は、50〜60万年前の地層からのものと推定されている。地層の分析により
	その精度がほぼ信頼できるので、石器もその頃の人間が使用していたものと断定してよさそうである。ところが、平成11
	年になって更に古い地層から石器が出土したと報道された。一説によると100万年前という報道もあった。この真偽はま
	だ定かでないが(平成11年12月23日時点)、日本にも原人が居て、しかもこれまで東アジア最古と言われていた北京
	原人よりもはるかに古い時代の人間である事が証明されようとしている。残念な事に人骨はないが、上高森遺跡の石器は放
	射状にまとめて埋められており、又掘り出して使う為か、或いは同時に埋葬された
	血族か仲間に対する鎮魂の意味があるのではないかと推測できる。その痕跡に原人の精神性が窺えるのである。新たに発見
	された石器が、もし100万年前の石器だという事が確定すれば、これは20世紀最後の大発見という事になるのかもしれ
	ない。

	
	この見解は、藤村新一による「ねつ造事件」の発覚により、全くの反古になってしまった。
	日本の旧石器時代研究は、100万年前から一気に3万年前に逆戻りしてしまったのである。検証できなかった考古学会に
	も責任はあるが、何より藤村氏の責任は重大である。たった一人で100万年の歴史を作ろうとしたのだ。見方によっては
	おもしろい男であるが、学術的にその系統を歪めてしまった責任は極めて大きい。従って、前後段で述べたことは、今日、
	全くのデタラメという事になってしまった。【この部分は、平成13年11月5日挿入】


	いずれにしても、原人が日本列島に棲息していたのはほぼ確実となった。50万年という数字にしても、これは考えただけ
	で気が遠くなりそうな年月である。日本人がイネを知ってたかだか3000年、封建時代から民主制を取り入れて150年
	弱、コンピュータをBUSINESSに使いだしてから約40年。こう考えてくると50万年という数字の持つ重みがズシリと感じ
	られる。私の祖先は50万年前に日本列島のどこかに居たのだ。(勿論、渡来してきた人達の末裔という可能性もあるが、
	それにしても大陸か朝鮮半島に居たのである。突然人間が発生する訳はないのだから、人類という形でどこかに居たのであ
	る。(それは、これをご覧になっている貴方にとっても同じ事だ。)




	類人猿が誕生したのはおよそ6500万年前の第3紀暁新世、ヒトの誕生はそれから6000万年を経て今から約500万
	年前と言われている。人類の起源、および日本人の起源については今でも多くの研究が進行中であり、日々新しい発見が相
	次いでいる。又、DNA鑑定という新しい測定方法も出現し、「起源」を巡る研究環境は著しく科学的になりつつあるので、
	やがてその全容が解明される日も遠からず訪れる事だろう。縄文人についても、果たして、原人→ 旧人→ 新人→ とい
	う道をたどってきたのか現段階ではまだ不明である。DNA鑑定による最近の研究結果では現人類のすべては、原人達の直
	接の子孫ではなく20万年前にアフリカに生まれたたった一人の女性に行き着く、という結論がでている。研究者達はこの
	女性を「イブ」と名づけているが、この説は有力ではあるが異論もある。この辺りの研究については、「科学する邪馬台国」
	の中の「日本および日本人の起源」の中で紹介したいと思っているのでそちらを参照頂きたい。ここでテーマとして取りあ
	げたいのは「縄文人の消滅」である。冒頭記したように、「渡来人」達がどっと押し寄せる弥生時代になって、縄文人は日
	本列島から姿を消していく。当然の事ながら弥生時代の遺跡からはもう縄文土器は出土しない。(初期には混在して出土す
	る遺跡もある。)掻き消えたように日本列島から縄文人はいなくなってしまうのである。一体縄文人はどこへ行ってしまっ
	たのか?





そのテーマに迫る前にまず、縄文時代とは一体どんな社会だったのだろう。我々団塊の世代が学校で習った縄文時代の知識は忘れた方がよさそうである。めざましい発掘成果と、科学的な研究方法は、3,40年前の「縄文時代」観を吹き飛ばしてしまったと言える。それでは、現時点での最新の研究に基づく縄文時代を見てみよう。(敬称略、研究者達の肩書き・所属は平成11年1月時点でのもの。)




鈴木隆雄(都立老人総合研究所疫学部門長)
・ 縄文人の平均寿命は14〜15歳。正確には零歳の時点での平均寿命(余命)が男子では14歳、女子では14.6歳にすぎなかった。ただし15歳まで生き延びられた者は、だいたい34〜35歳まで生き延びる可能性が高かったと見て良い。
・ 縄文人の平均寿命も弥生人の平均寿命も、稲作などによる生産形態・食糧事情の変化がかなりあったとしても、殆ど変わらなかったと考えられている。縄文時代レベルの平均寿命は、時代が下っても緩漫にしか延びず、階級間では差が現れてくるものの、室町時代の時点でも15.2歳でしかない。その後日本人の平均寿命が男女ともに50歳を越えるのは、何と戦後の昭和23,4年になってからの事である。
・ 結核という病気が相当古くから人類の歴史とともに存在した事は間違いない。では日本にはいつからあったのか? 結核によって特有な壊れ方をした骨は、日本の古代を遡っても、これまでに確実なものは5,6例しか発見されていない。それも、全て古墳時代以後のものである。私が研究した限りでは縄文時代には結核は存在していない。結核が流行するには幾つか条件があるが、一つには人口密度が高い、ということがあげられる。それからすると縄文時代の人口密度は相当低かったと言える。







	小山修三(国立民族学博物館教授)

	・ 私は1978年の論文の中で、現在確認されている遺跡数から縄文5期の人口をコンピュータを使用して推算した。縄文時代
	  を5つに区切って算出すると、前期から中期にかけて急に増加してピークに達するが、後期から晩期にかけて激減する。
	  そして弥生時代になって再び立ち上がるという波が出てきた。直線的ではなく、非常にダイナミックな動きがある事が明
	  らかになった。
	・ 地域による人口格差も発見の一つだった。時期が上がるに従って東西の差はひらく一方で、縄文中期にいたっては、東日
	  本が過密で西日本がガラ空きという状態になっている。
	・ 北海道をいれれば、約30万が縄文時代最盛期の人口と考えられる。30万人の人口は、晩期には75,800人にまで
	  落ち込んでいる。そして時代は弥生へと移行するのだが、驚くべきことに、10万人以下だった人口が、弥生時代になる
	  と60万人近くに増加する。

	<縄 文 時 代 推 定 人 口>参考資料

	   ・縄文草早期 1万2千年〜6千年前  人口不明     ・縄文時代の基礎時代 
       ・縄文前期  6千年〜5千年前    約10万5千人 ・文化の中心は東日本 
       ・縄文中期  5千年〜4千年前    約26万1千人 ・人口が最高となる・縄文文化の最盛期 
       ・縄文後期  4千年〜3千年前    約16万人   ・気候の寒冷化・人口激減 
       ・縄文晩期  3千年〜2千5百年前  約7万6千人  ・出生率の低下・弥生人の渡来始まる





馬場悠男(国立化学博物館人類研究部部長)
・ 骨格から見た縄文人は、南方アジア人の特徴を持ち、弥生人は北方アジア人の特徴を持っている。
・ アイヌは、DNAを含むさまざまな点で、縄文人の直系の子孫と考えてまず間違いはないと思われる。現代のアイヌはすでに和人と半々ぐらい混血しているとされ、本来の”縄文の血”はかなり薄まってしまっている。それでも現代のアイヌの顔には、立体的な「濃い顔」が多い。という事は、本来のアイヌの顔がいかに「濃い顔」だったかが想像されるのである。つまり、「縄文顔」とは、ほとんどアイヌの人たちの顔だと言っても間違いないだろう。
・ 私のみるところ、吉永小百合は「縄文顔」そして岩下志摩は「弥生顔」である。
では山口百恵はどうでしょう? そう、多分「弥生顔」でしょうね。

 左の写真は百恵ちゃんが高校生の頃理科室で撮ったもののようですが、残念ながら著作権者がわかりません。多分何かの雑誌からSCANしたものと思われますが、ご存じの方はお知らせ下さい。ちなみに私はINTERNETの中で偶然見つけました。



	佐藤洋一郎(静岡大学農学部助教授)

	・ 三内丸山遺跡からは栽培された「稲」の痕跡はまだ見つかっていませんが、三内丸山遺跡の東にある風張遺跡からは
	  3000年前の「米粒」が見つかっています。3000年前と言えば、稲作社会と言われる弥生時代のはるか昔、縄文時代の
	  後期から晩期にかけての時代にあたります。
	  この「米」は「熱帯ジャポニカ」と思われます。「温帯ジャポニカ」は水田がないと栽培できませんが、この3000年
	  前の「稲」が見つかった遺跡には、水田の跡はありません。「熱帯ジャポニカ」である可能性は非常に高いのです。
	・ 日本には「温帯ジャポニカ」に先行してまず「熱帯ジャポニカ」が雑穀などとともに南西諸島づたいに伝播し、それ
	  が日本列島を徐々に北上していったと考えられます。少なくとも3000年前には東北北端にまで達していたわけですか
	  ら、南西諸島や九州、そして西日本にはそれよりはるか以前に「熱帯ジャポニカ」が持ち込まれていたのではないで
	  しょうか。




	今年の(99年)クリスマス・イブに、鹿児島指宿の「水迫(みずさこ)遺跡」の発掘成果が新聞に報道された。指宿市教
	育委員会が発表したものだがそれによると、後期旧石器時代終末期(約15,000年前:人によっては縄文時代早期という意
	見もある。)の、竪穴式住居跡、道路状遺構、石器製作場跡、杭列などがまとまって出土したというのである。日本国内
	で旧石器時代の生活遺構がこれほどまとまって出土したのははじめてであり、明らかに旧石器時代に南九州では既に「定
	住化」に向かっていたことが窺える集落跡なのである。


	現地を視察した岡村道雄・文化庁主任文化財調査官の話。(平成11年12月24日朝日新聞朝刊)
	今回の旧石器時代といわれる住居跡は年代が明確だ。出土状況から竪穴住居と道などはセットとみてよく、これまで日本
	で類例がない。世界的にみても大変貴重な遺跡。日本の集落の起源と考えられる。  (下は同日朝日新聞より)

 





	見てきたように、「イネ」の伝来および「定住化」という特徴は、ほんの10数年ほど前までは「弥生時代」の特徴であった。
	地域によってバラつきは考えられるが少なくとも南九州においては、これらは早くも縄文時代或いは旧石器時代にすでに生活
	として定着していたものと考えられる。紀元前9000〜10,000年前の同じ鹿児島の上野原遺跡では、弥生式土器とそ
	っくりな土器を出土しているし、これまで弥生時代のものと考えられていた「壺」も出土した。我々が考える以上に、縄文時
	代は進んだ社会を構成していた可能性が大である。
	ではその縄文人達はその後どうしたのか。小山教授の研究に見られるように、圧倒的な「渡来人」たちの集団に対してどう対
	処したのであろうか。本ページのテーマである「縄文人はどこへ消えた」のだ。




	前出の鈴木隆雄氏は、渡来人達が日本列島に、それまで日本には無かった疫病を持ち込み、それによって免疫の無かった縄文
	人達の相当数が消えていった、と言う。「伝染病に対して無防備だった縄文人達は、中国大陸で起こっていたヒトの大移動や
	戦乱や疫病流行のなかで揉まれ、免疫力をつけていた弥生人達の持ち込んだ結核などの病気に、ひとたまりも無く感染し、急
	激に死に絶えていった可能性が大きい。」「縄文晩期の人口の激変を見ると、これはどう見ても渡来系弥生人と先住系縄文人
	との間に入れ換えに等しい急激な変化があったとしか思えない。考古学的にも大量の殺害を示す証拠はない。おそらく何らか
	の感染症が入ってきた可能性が高い。私は古病理学の立場から、その直接の原因を結核をはじめとする新顔の感染症だと想定
	している。」

	
	馬場悠男氏は、形態人類学の立場から顔や骨格の研究に長年携わってきた。そして縄文人の消滅を北と南、具体的に言えば北
	海道(アイヌ)と沖縄(古琉球人)へ、渡来人によって押し戻されたのだと言う。「人骨の分布から見ると、北方アジア人達
	は5,6000年前ごろ中国北部の広い地域から、東や南へ急速に分布を広げたのだろう。この動きは3万〜3万5千年前の海岸部
	から内陸部への大移動の逆を行くもので、それまで東や南の地域にいた南方アジア人を、元いた東や南へと押し返す形で大規
	模に進行したと思われる。
	最終的に日本列島へ北方アジア人達が入ったのは、約2000年前で、これが弥生人なのである。興味深いのは、この進入ルート
	がカムチャツカ、サハリンという北方ルートでは無く、北部九州、山口地方からだったので北海道には影響が及ばなかったと
	考えられる点である。例えば、サハリンのアイヌには北方アジア人との混血が見られるが、北海道のアイヌにはそのような形
	跡が殆ど見られない。これは何を示すのか?」
	つまり北海道のアイヌ(および沖縄の琉球人)たちこそ、弥生人が渡来してくる前日本列島にいた縄文人だと言うのだ。


長崎県平戸市根獅子(ねしこ)町。平戸島の中央部に位置する小さな町で、1950年、弥生中期と見られる40−60歳の女の遺骨が発見された。
約2000年前、この付近で何者かが放った弓矢が女の頭の頂きに命中した。鏃(やじり)は青銅製で、刺さった先端部はポッキリ折れ、頭蓋骨内に長さ約6mmの切っ先が残っていた。負傷した骨の周囲に病変の跡がみられ、脳の炎症などが原因で1月以内に死亡したと見られる。
人類学者の
松下孝幸氏(土井ケ浜遺跡人類学ミュージアム館長)によれば、強い「低・広顔」の縄文人的特徴を持つという。この遺跡からは92年まで調査され計17体の人骨が発見されているが、6体に縄文の風習である抜歯の跡があった。松下氏は「根獅子の弥生人は縄文系で、北部九州の渡来系とは明らかに文化的内容が違う。女の頭骨の銅の鏃からは、縄文系と渡来系の間の戦いの可能性が考えられる。」という。


私の縄文人消滅についての考えはこうである。

上記御三方の意見はいずれも正しいのだろうと思う。疫病で死んでいった者たちもいたであろうし、渡来人達の勢力が及ばない北海道や沖縄へ逃れ去った者たちもいただろう。又、突然海岸に姿を現した今まで見たこともない人間の集団に立ち向かい滅ぼされたムラもあったかもしれない。しかし最後の例は、これまでの発掘結果からはごくわずかな事例しか報告されていない。縄文人と思われる人骨で戦いの痕跡を残しているものは全国でも4,5体なのだ。弥生時代の150体と比較すると殆ど争っていないと言って良い。根獅子遺跡の例は極めてまれなケースなのである。
縄文・弥生の人口に関する
小山教授の研究成果については勿論敬意を払うものであるが、数字的には縄文人の数はもっと多かったのではないかと思っている。教授自身も、「これは一つのシミュレーションであって、この数字が正しいと私が保証している訳ではない。」と述べているが、古代の人口について、現時点では教授の取った方法論以上のものは無いので、多くの学者が教授の推算した数字を用いている。しかしデータとなる縄文遺跡は未発見のものも含めてもっと多かったのではないか。定住化へ向かっていたとはいえ、竪穴式住居に住めた縄文人はそう多くなかったのではないか。少なくとも半数はまだ洞穴や自然の構造物を利用した住居に住んでいたのではないかと思う。計量できるデータが手元にある訳ではないので、あくまでも推論であるが、そう考えなければ今我々が日本語を話している理由がわからない。

北や南へ移動した者、疫病や戦いで死んだ者、これらは消え去った縄文人の一部で、大多数の縄文人は渡来してきた弥生人と融合していったと考えたい。ある土地で、10:1の割合で違う民族が並存する場合、10が1の民族の言葉に合わせるだろうか? 結果的に10:1になったかも知れないが、ある時点、ある場所においては、渡来系:縄文系の比率は5:5或いは6:4くらいだったのではないだろうか。渡来人達も、無理矢理自国語を話すより現地人の日本語を話したほうが容易に生活にとけ込めると判断したのではないだろうか?

「神々の降臨」でも述べたが、渡来の神々も、日本に以前からいる神々と積極的に融合していった節がある。権力者もそうでない者も、戦いを避け相互に融合することで、急速に「弥生人」になっていったと考える。
その点では教授の意見も私と同じである。
小山教授はこう述べている。教授の言葉を引用して、このHPを閉じる事にしたいと思う。



	「縄文時代は決して停滞した社会ではなく、非常に動きがあり、活力にあふれた社会だった。換言すれば、縄文人たちは日々、
	異質なものや異なる地域の人々に接していた。縄文社会は異質な人、モノを融合させることで成立していたのである。縄文時
	代のこの伝統は、弥生期になっても生きていた。だからこそ異質な弥生人との間に大きな闘争は起こらなかった。」「見方を
	変えれば、縄文時代が弥生時代を取り込んだともいえよう。」






邪馬台国大研究・ホームページ / 古代史の謎 / 消えた縄文人