2005.9.12(月) 新井崎神社
京都府伊根町(丹後半島東端)
前夜、丹後半島西端の浜詰で「夕日が浦温泉」に宿泊した。相変わらず「もう食べきれない」というほどの海の幸を満喫して、
前回歴史倶楽部で来た時には回らなかった、丹後半島の北東部を一周して大阪へ帰ることにした。丹後半島最北端の経ケ岬灯
台を見たりして、前から行きたかった伊根の町を目指した。実はここには「舟屋」以外にも訪問したい場所があった。
「徐福上陸の地」である。前もって調べてこなかったので、はっきりした場所はわからなかったが、浦島神社のそばにあった
公民館で聞いたら、地図までくれて丁寧に教えてくれた。位置的には、佐賀や新宮などよりここのほうが、流れ着くには格好
の場所のようにも思えるが、行ってみたら上陸地点とされる場所は、断崖絶壁の海岸だった。
新井崎神社 (にいざきじんじゃ:旧村社)626-0421 京都府与謝郡伊根町字新井小字松川
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不老長寿の霊薬を求めて中国大陸を出た徐福が、最終的に漂着したのがここ新井崎(にいざき)で、この神社はその徐福を祀
っている。中国で秦の始皇帝が、春秋戦国の六ヶ国を統一し諸国を巡行しだしたのは、今から約2200年ほど前のことだ。
日本では弥生時代の初期(あるいは中期)頃にあたる。方士徐福が易筮によって新井崎のハコ岩に漂着し、仙薬を求めてやっ
てきたが少ないので帰れないとこの地に住みつき、医・薬・天文や占い、漁撈や農耕の技術を教え、住民に慕われ、死後産土
神として新井崎神社に祀られたと伝わる。仙薬とは九節の菖蒲と黒茎の蓬で、新井にはこの徐福にまつわる伝説がいくつか伝
えられている。
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徐福伝説は日本各地に伝えられているが、新井崎もその一つで、求めた仙薬とは九節の菖蒲と黒茎の蓬という。ここに伝わる
「新大明神口碑記」によれば、徐福の来意を不審に思う村長(むらおさ)に、徐福が渡来の目的や秦の都咸陽宮のことなどを
詳しく語ったと書き残されている。またその中には、「丹後奥郡澄之江の里は、龍宮城と同所にして異名なり」というくだり
や、史記は勿論、葛洪の抱朴子や列子の沖虚至徳真経などが登場しているそうだ。このあたりは、伝説の発生譚を知る手がか
りになるかもしれない。
神社へは、車道から5,6m下へ崖をくだっていく。
境内へ行く途中に、磯場へ降りていくような遊歩道がある。実際に磯場までは降りられないが、そこから下を眺めると、徐福
が着いたであろうとされている場所を望むことができる。しかし上から見たこの海岸の岩石は、景観としては非常に特異であ
る。まるで火山岩のようなボコボコした印象を受ける。わざわざこんな難儀そうな場所を選んで上陸しなくても、という気が
する。
新井の海岸と、「秦の始皇帝の侍臣 徐福着岸の趾」との碑が立つ、「ハコ岩」と呼ばれる場所。「伊根町観光案内」HPより
この地の伝承では、徐福はこの「ハコ岩」と呼ばれるところに漂着したという。降りては行けなかったが、「秦の始皇帝の侍
臣,徐福着岸の趾」碑が立つ場所は、上から見ても船を着けるには無理がある。ここに徐福船団が上陸したとはとても思えな
い。しかし船団の1,2隻が漂着したという可能性はあるだろう。徐福とは関係ない渡来人が、あるいはこの地の者ではない
人たちが漂着して、後生、徐福東渡譚と結びつけられて徐福の上陸地点となった可能性もある。
本来この神社の祭神は、「事代主神・宇迦之御魂神」とされているが、「元三宝荒神」を祭り、現在の住民は徐福を祀ってい
る。御神体は木像約30cm余りの男神・女神(童男・童女)像である。新井崎神社を童男童女宮(とうなんかじょぐう)と
呼ぶのはこれに起因する(らしい)。
創建年代は一条天皇の関白藤原道兼の次代にあたる長徳4年(998)7月7日とされているが、記録としては文禄年間(1592
〜1595)に建立された社を、寛文11年(1671)4月再建に着手し、同年9月16日に完成している。(棟礼に、祢宜(ねぎ)
野村仁兵衛、別当(べっとう)玉林寺、大工手間235人とある。)その後石段をはじめ境内が整備され、現在の建物は昭和
36年(1961)4月、本殿の修理と上屋が再建された。
小狛犬 天保7年(1836)8月 若連中奉納
大石灯籠 天保11年(1840)5月 大阪橘屋清三郎寄進
石灯籠・狛犬 明治43年(1910) 嵯峨根孫兵衛寄進
大狛犬 明治45年(1912) 大阪市大平安、嵯峨根孫兵衛、広島県佐々木市郎寄進
新井崎神社碑 明治45年(1912) 建立
神社の別当としては、代々玉林寺の住職が管掌していたが、明治以降神社法施行後は宇良神社(浦嶋神社)の神官が兼掌して
いるそうである。
こっち側が神社の正面である。wifeとセガレと娘は、夫・父親の道楽に、最近はもうアキラめたのか、何も言わずついてくる。
wife がのぞき込んでいる崖の下が、下写真の光景である。
神社は崖の上に建っており、その上に車道がある。神社へ来るには車道から下へ降りてくる格好になる。そこから下を眺めると、
今にも落ちそうな切り立ったがけの下に、溶岩の固まりのような大岩が転がっている。
新井一帯は、海岸段丘が発達し、独特の景観を呈している。岬の周囲は、海蝕崖に富み、その先端に新井崎神社がある。神社
の東には冠島と沓島があり、冠島は常世島(とこよしま)とも呼ばれ、冠と沓を残して仙人となるという、道教の尸解仙を表し
ていると言われている。地元では、ここに生息する「黒茎の蓬(くろくきのよもぎ)」こそが、徐福の求めていた不老不死の薬
草だと伝えられている。
神社から見て北東に浮かんでいるように見える冠島は、常世島(とこよしま)とも呼ばれており、ここに生える黒茎の蓬(くろ
くきのよもぎ)や、九節の菖蒲(しょうぶ)が徐福の求めた不老不死の仙薬と言われる。冠島は「天火明命」(あめのほあか
りのみこと)の降臨地ともいわれており「天火明命」は宮津市にあり伊勢神宮の元になったとされている元伊勢籠(もといせ
この)神社の祭神である。
新井崎神社から北西約5kmには浦嶋(宇良)神社がある。浦嶋子(うらしまこ)を筒川大明神として祀ったもので、浦嶋子
が浦島太郎伝説になったと思われ、この地の伝承が最古の浦島伝説ではないかとされている。浦島伝説は中国の神仙思想と結
びついて、日本独自の説話となって各地に伝わっているが、地理的に見ても、伝承歴史から見ても、古代この地に渡来人が上
陸して、これらの伝承となっていった可能性は高いと思われる。
「左,沓島、と、右,冠島」。上写真右は冠島のズームイン。
徐福は、中国でその実在性が高まったとはいえ、まだまだ文献上の伝説の域をでない。物証がなければ証明されない今の考古
学からは、とうてい徐福伝説の真贋は判明しそうもないが、しかし物証がないから虚構だとは断定できない。伝説や伝承に故
事の反映が潜んでいる事実は過去にいくつも例があるし、実際、伝承に基づいて歴史的な証明がなされた例も多い。しかしこ
の徐福伝説は、郷土振興(ムラ興し)と、富士文書や宮下古文書のような、いわゆる「トンデモ本」などの数奇な取り上げら
れ方によって、学問として研究する事の価値が極めて低いのもまた事実である。
正直なところ、徐福が日本にほんとに来たかどうかは、今となっては全くの謎であり、これからも謎であり続けるのだろう。
円周率を計算し続けている世界中のコンピュータと同様に、我々歴史マニアとしては、謎であり、永久にその「解」を見つけ
ることは不可能だとわかっていても、その探求する課程や行為を楽しめばいいのである。
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