Music: Magical mystery Tour



徐福の里
2001.5.26(土) 佐賀市金立町・金立神社(下宮)・徐福館


		法事で福岡に帰った時、実家に行く前に佐賀を訪れた。先月和歌山の新宮で徐福公園を見たので、ここの徐福公園も見ておかないと
		片手落ちだろうと思ったのだ。有明海から上陸した徐福一行は、ここ「金立町」(きんりゅうまち)で不老不死の薬を探す内、そん
		なものは無いのだと悟ってここに落ち着く事を決め、地元の娘と一緒になりここに桃源郷を実現した、と徐福館のビデオは説明して
		いた。







		佐賀駅前からタクシーに乗ったのだが、上右の「金立神社上宮」までは相当距離があって(山の上)、徒歩でもだいぶ行かなければ
		ならないというので、そこまで行くのは断念した。又、中宮も「今はもう荒れ果ててなにもないよ」 と言う。しかたがないので、下
		宮と徐福館を見ることにした。徐福館のある金立公園の近くに「葉隠れ発祥の碑」が立っていた。






 

 



 













佐賀市周辺の遺跡から出土した土器が並べられ、韓国の「松菊里遺跡」との関連が解説してあった。





 

 


		中国の江蘇省連雲港市(除福村のある市)製作の徐福像(大理石2.5t)が、木製ドームの真ん中に鎮座(上左)しており、その連雲
		港市との友好都市協定書(下左)も展示されている。訪中団が現地で締結してきたらしい。上右のお姉ちゃんのマネキンは何の意味
		かよくわからなかった。察するところ、徐福と恋仲になったという地元の「お辰」を表しているのかな。







上右の草花が「クロフキ」である。この地では、徐福が金立山へ登り不老不死の霊薬を探し、
山中で発見したのがこのクロフキだとされている。「クロフキ」は不老不死のなまりと言われる。





 







   

 



 



徐福が探しに来たという「不老不死」の薬草にちなんで、ここには色んな薬草も展示されている。何種類かは外でも栽培されていた。



 



		和歌山県新宮市の徐福公園に比べると、ここでは遺跡の比較や文献・発掘品を並べたりして、色々と実証をあげて「徐福上陸」の
		証明を試みており、より科学的・実証的という印象を受けた。私はHPやその他あちこちで「除福」について書いているが、私は
		「徐福伝説」はほんものだろうと思っている。

		紀元前後、大船団が中国から秦の迫害を逃れて日本へ来たと思う。そのリーダーが「徐福」と呼ばれる男だった。船団はやがて日本
		に上陸するが、航海の間に日本中の北から南まで散り散りになる。そして各地で「我われは徐福船団の者だ」と名乗る。その為日本
		中のあちこちに徐福伝説が残っているのだと考えている。肝心の徐福その人がどこに上陸したのかは解らないが、新宮と金立町の二
		つは有力なその候補地であるような気がしている。「きんりゅう」という名前と地の利からして、ここの方が少し分がいいかもしれ
		ない。

		以下のような資料もたくさん無料で常備してあり、見ると「徐福シンポジウム」なる会合も不定期に開催されているようである。
		地元では訪中団を結成して、市長自ら中国の「徐福村」を訪ねたりしている。











 



		山麓全体が公園として整備されていて、「九州横断高速道路」のSA(サービスエリア)からも降りてこれるようになっている。
		公園の隅には、日本で最初に移転された古墳である「丸山遺跡」がある。縄文時代晩期〜弥生時代前期(紀元前2〜3世紀)の支石墓
		と、5〜6世紀の古墳群からなり、現在のものは長崎自動車道建設のため、現在地の南東500mのところから昭和58年に移築されたもの
		である。もしここにほんとに徐福が来ていたら、この支石墓に葬られているのは徐福かもしれない。











「葉隠れ」発祥の地

		二代佐賀藩主鍋島光茂の御祐筆役をつとめた山本常朝は、主君光茂が没した元禄13年(1700)に、
		この金立町黒土原の朝陽軒(のち宗寿庵)に隠棲した。同藩士であった田代陣基が、7年間に
		わたって常朝のもとを訪ね、武士の心構えや生き方などを聞き筆録したのが有名な「葉隠」である。
		今、宗寿庵を忍ぶ遺構は何も残っていない。わずかに石碑が建つのみである。
		徐福の里から歩いて5分のところにある。



 

 



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