Music: Magical mystery Tour
歴史倶楽部の有志(服部さん、河原さん、井上)で和歌山に行った。河原さんの友人が南部川村清川でペンションを経営して
いるので、毎年河原さんを中心に何人かで訪れているのである。その催しはもう5回目くらいだが、私は3回目の参加になる。
今回の旅は、新宮市である。ここはなんと言っても、熊野三山の一つ「熊野速玉大社」と「徐福」の墓だ。訪れてみて驚いた。
まるで、「徐福」がほんとに来て、名誉市民にでもなっているような有様である。同志社大学の名誉教授森浩一氏は、「考古
学は地域興しの学問だ」と言っているが、ここなどはまさしくそれである。
まるで、徐福の生まれ故郷とされている中国の龍口市からも、ここが「徐福上陸の地」と認定されたかのような印象を与える。
これが「徐福」の墓だ!
下左の碑には、上の文章が刻まれている。下右は、徐福に従ってきた「七臣」の墓。ほんまかいな。
私も、「徐福」に象徴される大船団の一軍が日本を訪れた可能性はきわめて高いと考えている。そしてそれはほんとに「徐福」
と名のる人物で、『秦』を逃れてきた一族だった可能性も高い。「不老不死」の話は別にして、「秦」の勢力下では生きられ
ない一族の「中国脱出行」の行き先が、東の「桃源郷・日本」だった可能性も高い。しかし「徐福」がどこに上陸したのかは、
今までの知見では確定しがたい。つまりわからないと思う。3,000人に近い群団を率いて東を目指したとすれば、現代ならとも
かく、紀元前後の航海環境のなかでは、全軍が1箇所に上陸する事などありえないと思われる。途中で流されて朝鮮半島へ流
れた船もあっただろうし、対馬海流に乗って遠くアムール川あたりまで流されたり、あるいは転覆して東シナ海・日本海の藻
くずと消えた船もあったはずだ。現在日本の各地に「徐福」伝説が残っている事を考えると、「徐福」を団長とした渡航団が
ほんとにいて日本を目指し、航海の果てに船団はバラバラになって、その一艘、一艘が、現在伝承の残る地域に上陸したので
は無いだろうか。そして「我々は『徐福』船団だ」と名乗る。そこで人々は「秦」から来た「徐福」一行だという伝承を今に
残している。
こう考えると、日本の各地にこまで「徐福」伝説の伝承を残す地方が多いのもうなずける。しかし、実際「徐福」がどこに上
陸したのかは、今のところ永遠の「謎」である。
邪馬台国大研究ホームページ / 徐福の謎 / 和歌山県新宮市