そんな中、1982年、一人の中国人学者が偶然「徐福村」(現在の中国江蘇州かん楡県徐阜村)を発見した。学者は信憑性 を自問しながらもその重要性に鑑み、研究室の中にプロジェクト・チームを結成して本格的な調査に乗り出した。そして 最終的に、まさしくここが「徐福」の居た村である、という結論を導き出すに至ったのである。この調査結果論文は、日 本外務省・国際交流基金の資金援助によって1985年11月北京で出版された、『中日関係史論文集(第一輯)』(中日関係 史研究会編)の冒頭に「説徐福到黄遵先」として報告された。 (この論文集には、他14名の現代中国を代表する学者・知識人が論文を執筆しており、その内容は「円仁入唐求法巡礼記 録」「阿倍仲麿」「吉備真備」「古事記」「日本書紀」「古今和歌集」「裴世清(はいせいせい)家系」「豊臣秀吉」 「日本中世文学」「刀安仁と宮崎滔天の友情」等々となっている。) この報告は中国内外で大きな反響を呼び、その真偽を巡って論争が巻き起こった。当然この報告に懐疑的な意見もあり、 著者自身もそれは認めている。しかしこの論文をきっかけに、1987年4月「第一回徐福学術討論会」が徐州で開催され、80 人以上の研究者や団体が参加し、50編以上の論文が発表された。その後も数次に渡る討論会が開催され、その結果、徐福の 実在、徐福村の発見、については今日ほぼ事実として認められたと言える。(勿論、反論も依然として存在する。)又、 徐福を先祖とする徐姓一門が名乗り出て、2000年の由緒正しい系図を持つ徐氏一門が、今日なお中国全土に健在である事も 判明した。 (中国における家系と家系図に対する扱いは日本のようにいいかげんなものではない。厳粛な、個人の全存在を賭けたに等 しい扱いなのである。捏造した事がわかれば家系からも社会からもはじきだされ、まともな扱いは受けられなくなる。中国 では大部分の家が、何代にも渡る家系図を保有している。 中国の歴史学者で、我が国にも著名な「汪向栄(おうこうえい)」氏は次のように述べている。 「もしわれわれが真剣に中日関係交流史を、とくに日本の古代における発展過程を縄文時代から弥生時代までたどり、慎重 な観察と検討を加えようとするならば、この徐福伝説を軽率に否定することはできない。徐福が東渡して日本にとどまり、 再び中国へ帰ることはなかったという『史記』の記述についても、そこにはなにか深い原因と理由が存在したのではなかろ うか。現在の徐阜(じょふ)村の人々が悠久の歴史の流れと人の世の激しい変動のなかで、二千有余年にわたって消すこと なく絶やすことなくその地名を残し、徐福という人物についての先祖からの伝承を今日まで伝えているという事実はなまや さしいものではなく、単なる偶然として片づけるべきものではない。」
1982年6月、「中華人民共和国地名辞典」の編纂作業を行っていた、徐州師範学院地理系教授の「羅其湘」氏は、江蘇 (こうそ)省・かん楡(ゆ)県「かん」いう字は日本の当用漢字にはない。従ってWordproでは表示出来ないので地図で参照されたし。 の地名の中に「徐阜(じょふ)村」という地名を発見した。「ふと注意と関心を誘」い調査したところ、この村がかっ ては「徐福村」と呼ばれ、現地にかの「徐福伝説」の伝承が残っている事をつきとめた。 調査班は実際に現地に入り、「徐阜村」が清朝乾隆(けんりゅう)帝以前には確かに「徐副村」と呼ばれていた事を確認し、 村に残る「徐副廟」を調査した。そして村の古老達の語る「徐副」伝承を採録するのである。教授の調査で明らかになった 事の中に、「徐阜村」に現在「徐」姓を名乗る者が一人も居ない、という驚くべき事実がある。そして古老の語る次の伝承 を紹介している。 『徐福は、まさに日本へ旅立とうとする時、親族を集めてこう言い聞かせた。「私は皇帝の命によって薬探しに旅立つが、 もし成功しなければ秦は必ず報復するだろう。必ずや「徐」姓は断絶の憂き目にあうだろう。われわれが旅だった後には、 もう「徐」姓は名乗ってはならない。」「それ以来、徐姓を名乗る者は全く絶えた。」』
第二回目の始皇帝の巡行は紀元前210年である。徐副は、この時再び琅邪を訪れた始皇帝と会見し再度「仙薬」を求めて 渡海すべしとの命を受ける。史記の「淮南衡山(わいなんこうざん)列伝」によれば、「・・・。始皇帝大いに喜び、良 家の男女三千人を使わし、五穀の種と百工をたずさえて渡海させた。徐副は平原と沼のある島にたどり着き、そこにとど まって王となり、帰ってこなかった。人々は嘆き悲しんだ。」となっている。 天下統一後の始皇帝は、神仙の道に心を奪われ、特に「不老不死」の薬探しに躍起になっていた。徐副はその白羽の矢が 自分に立った事を知って遠大な計画を立てた。秦の始皇帝は咸陽城や阿房宮や万里の長城の建設など多くの土木事業を興 したが、なかでも驪山(りざん)の麓に造営した巨大な陵墓のためには70余万人に登る刑徒を徴発して送り出し、建設が 終わると大量に生き埋めの刑にした。他にも始皇帝の残虐ぶりはつとに有名で、この不老不死の仙薬探しにしても失敗し て死罪になったという話も聞こえてくる。 自分も死罪になるかもしれないという事は容易に想像できたはずである。徐副自身が「不老不死」の薬などをほんとに信 じていたのかは疑わしい。しかし断れば首をはねられる。1回目は何とか騙しおおせたが2度目はもう言い訳はできない。 つまり帰っては来れないと悟ったのだ。そこで「王国」を建設するのに必要な人材、技術を一族から集め、始皇帝をだま して「秦」を脱出した。 「羅」教授は、秦の始皇帝がなぜ多くの神仙方士のなかから、特に徐副に「不老不死」妙薬探しの白羽の矢を立てたのか について、始皇帝の本来の目的は、えん楡地方、「斉」の故地を、隅々まで一掃して「秦」への反乱を押さえ、将来の禍 根を絶とうとしたのだろうと言う。 「徐」家はかっての徐王国の末裔だった。その為に始皇帝から無理難題を押しつけられたが、又そういう名家の出身だか らこそ、3000人の大集団を任せられる程の信頼が備わっていたのだとする。教授達は「徐福」の家系についても調査し、 彼の先祖は夏王朝の初期に「徐」に封じられた王で、子孫は代々長江(揚子江)、准河(わいが)、泗水(しすい)、済 水(せいすい)の流域一帯に栄えたと言う。つまり「徐福」は中国屈指の名門徐王の末裔という事になる。 暴虐な始皇帝の統治下から逃避しようとした民衆の集団脱出事件の例は他にもある。「後漢書」の「東夷列伝」に「辰韓 のある耆老は、自分は秦からの亡命者で、苦役を避けてはるばる韓の地に逃れてきたと言った。」とあり、「三国志」に も、「陳勝らが蜂起して国じゅうが秦に背き、燕・斉・趙の民衆で朝鮮に逃亡した者は数万人におよぶ。」とあるように、 秦の暴虐から生き延びようとすれば民衆は浄土を求めて海外へ脱出するしか道がなかったのである。当時いかに秦の圧政 が凄惨なものであったかを物語る。
今日我が国に残る「徐福伝説」は、以下の表に見られるように全国各地におよんでいる。ここには載ってないが大阪や 長野にも伝説がある。おそらく、記録は無いが伝承だけが残る地域はもっと多いと思われる。この内最も可能性が高そ うな候補地は、和歌山県新宮市と佐賀県佐賀市である。両地とも相当古くからこの伝説が存在する。新宮市の徐福祠堂 は江戸時代以前に建立されたもので、毎年8月8日に挙行される新宮市主催の徐福祭りには花火大会が開かれ、9月1日に は供養のための盆踊り大会が徐福遺跡保存会によって行われている。佐賀市の金立神社では徐福が金立山に登って薬草 を探したという故事にちなんで、1980年4月「徐福2200年祭」が行われた。
青森県 | 小泊村 | |||
秋田県 | 男鹿市 | |||
山梨県 | 富士吉田市 | 孝霊帝の時、秦の徐福結伴して薬を東海の神山に求む。ここに到るに及び、 以為らく、福壌の地なりと。ついにとどまりて去らず。 |
福源寺山門鶴塚碑 | |
山中湖村 | 秦の徐副が不老不死の薬を求めてこの地に来て、子孫が住み着いた。 | 長池地区伝承 | ||
河口・吉田 | 現在、徐副の子孫は秦氏と称し、秦又は波多、羽田を名乗る家が数軒ある。 | 「甲斐国誌」 | ||
河口湖村 | 始皇帝の命で徐副は海を渡り、紀州那智が浦に上陸、熊野三山を通って富士山 に登った。(略)供のおきなの娘を娶って帰化し、土民に養蚕などを教えながら ついに湖畔で果ててしまった。 |
町誌 | 徐副社(浅間神社末社) | |
東京都 | 八丈島 | |||
青ヶ島 | ||||
静岡県 | 清水市 | |||
愛知県 | 名古屋市熱田 | |||
小坂井町 | ||||
和歌山県 | 新宮市 | 孝霊天皇6年丙子(紀元前285年)秦の徐福来朝す。 | 民俗資料館古文書 | 徳川頼宣が墓碑を建立 |
三重県 | 熊野市 | |||
京都府 | 伊根町 | 徐副は若狭湾の伊根に上陸した。 | 新井崎神社覚書 | 浦島太郎伝承地 |
広島県 | 宮島町 | |||
高知県 | 佐川町 | |||
山口県 | 上関市祝島 | |||
福岡県 | 筑紫野市 | |||
八女市 | ||||
佐賀県 | 佐賀市金立町 | 孝霊天皇の72年、徐副は男女数千人を率いて日本に来てとどまった。 立山雲上寺は徐副の跡を留めた霊地である。 |
「鎮西雲略」 | 「街道諸国記」 |
諸富町 | 徐福は現在の佐賀県諸富町新北の搦、寺井の地にとどまり、金立の北山に入った。 | 伝承 | 毎年1月20日に徐副祭 | |
武雄市 | (徐副一行は)伊万里湾より上陸して黒髪山から蓬莱山へと進み、 今日の武雄にとどまる。 |
金立山物語 | ||
山内町 | 徐副一行は大船20隻に分乗して伊万里津に来航、黒髪山(山内町) 蓬莱山(武雄市)、金立山(金立町)に不老不死の仙薬を求む。 |
「山内町誌」 | 郷土資料「牛窪記」 | |
伊万里市 | ||||
富士町 | ||||
有明町 | ||||
熊本県 | 金峯山 | |||
宮崎県 | 延岡市 | |||
宮崎市 | ||||
鹿児島県 | 串木野市冠岳 | 一説に孝霊之帝の御宇、秦の徐副来たりて王冠をとどめしゆえに冠岳と称す。 | 郷土史「頂峯院文書」 | |
坊津町 | ||||
屋久島町 |
そもそも、この伝説そのものは一体いつ頃日本に伝わったのだろうか? 当然「史記」を読める人達が出現してからで ある。おそらくは、「遣唐使」制度が定着し、盛んに学僧達が中国の文化吸収に努めた頃からだろうと思われる。 「史記」を持ち帰った僧達はこの話を広めやがて日本中の人が「徐福」を知る。そして自らの故郷にある「渡来人去来」 の言い伝えはこれに違いないと思う。そうか「徐福」だったのだ、という訳である。やがて「徐福」を祀(まつ)った 祠(ほこら)が建ち寺が建つ。 実際本当に、その地を渡来人が訪れたのかもしれない。しかしそれが「徐福」一行だったのかどうかは謎である。3000 人もの集団がもしほんとに日本に上陸したとすれば100人づつ乗ったとしても30隻、50人で60隻の船が要る。おそらく大 半の船が航海中に離ればなれになるだろうから、日本のあちこちの海岸線に漂着した可能性もある。 今日「秦」(ハタ)さんと呼ばれる人達は渡来人の末裔である、という事になっており、京都や大阪に残る太秦(うず まさ)という地名も秦から来ているという。また、畑、羽田というような姓も「秦」から変化したものと言われている。 秦(ハタ)は秦(シン)でもある。秦の時代に来た渡来人という事で、十把ひとからげに「秦」(ハタ)と呼ばれたのか も知れない。 徐福が本当に一族郎党 3,000人を引き連れて日本に来たのかどうかは今となってはもう確認するすべもない。しかし実在 はほぼ確認できたわけだから、「秦」を出ていずこかへ旅だったのもおそらく事実であろう。「徐福」に象徴される中国 人達の集団が、大挙して或いは散発的に日本列島に渡来したのはほぼ間違いない。「渡来人」と言うと我々はすぐ朝鮮半 島からのルートを頭に浮かべがちだが、中国大陸から済州島経由で日本列島へ渡来した中国人達も結構な数に上るのかも 知れない。私には、「イネ」のルートはどうも朝鮮半島経由よりこれらの中国系渡来人たちがもたらしたもののような気 がしてしようがない。 半年ほど前、家族でTVを見ていて現代中国の若者が写っているシーンがあった。若者だけではなく多くの中国人もまた出 演していたのであるが、音楽を志す若者を特集している番組だったように思う。その時私の娘がふと呟いた一言は、今も 私の脳裏から離れず大きな音響となって脳内をこだましている。「この人達の顔、私たちとそっくりね。」 そうなのだ。日本人にそっくりなのである。顔は生活レベルや環境により大きく変わると言われるが、好き嫌いや余分な 先入観などを抜きにして言わせて貰えば、私には韓国人より中国人の顔のほうがより日本人に近いような気がするのであ る。NHKの特集でDNAの謎に迫る番組があった。4,5回のシリーズだったが見た方も多いと思う。あの中で現代日本人のDNA がどこの国のDNAに一番近いかという話があった。その時は、現代日本人の20%は中国人、20%は韓国人、日本古来のDNAが 10%以下、残りその他(東南アジア等)という構成だった。 「徐福」はやっぱり来ていたのかもしれない。 いずれにしても、渡来人達のもたらした灌漑稲作技術や神仙思想などは、縄文時代から弥生時代へ移ろうとしていた当時 の日本に大きな影響を与え、以後の日本社会の方向も大きく定める事になるのである。