SOUND:Round Midnight




3.学者達の見解


	福岡市の「梓書房」という出版社から出ている「季刊 邪馬台国」という雑誌がある。季刊だから年4回の発行なのだが、こ
	の雑誌の昭和59年冬号に、昭和59年(1984)9月28日〜30日の間金沢市で行われた【環日本海金沢国際シンポジウム】の報告
	特集がある。その報告によると、
失われた古代「日本海文化」 −その復権をめざして− 

	と題して開催されたこのシンポジウムは、日本海地域が古代いかに先進地であったかを検証し、また、北方民族の影響が我
	が国にどの程度の影響を与えているかといった、文字通り環日本海の文化交流会であった。
	著名な学者・作家達(江上波夫、司馬遼太郎氏等)に加えて、ソビエト科学アカデミーや中国社会科学院考古研究所、韓国
	ソウル大學などから研究者を招き、文字通り国際的なシンポジウムとして開催された。
	その中から、私がこのコーナーで今まで述べてきた主旨と同一の報告が二三あったので紹介したいと思う。

	ちなみに、私はこのシンポジウムの事は全く知らなかったし、内心「環日本海文化」について強く関心を持っている学者は
	あまりいないだろう、もしかしたら「環日本海」に着目した私の考えは斬新なのでは、とか思っていた。しかし甘かった。
	私の考えなどとっくに多くの学者が注目し検証を重ねているのであった。ちょっとがっかりもしたが、しかしどちらかと言
	えば「やっぱり。そうなのだ、私の考えはおかしくないのだ。」とますます意を強くしたのも事実である。いやむしろ、そ
	ういう(古代日本海文化を重要視するという)考えにたどり着いた自分自身の論考の結果に大いに満足したのであった。


	(1).信仰・宗教的な観点から

	国立石川工専の浅香年木教授(古代・中世史)は、民族あるいは民衆の深層に根付く「信仰」に主眼をおいて、日本海沿岸
	地域の様相を以下のように述べた。

	@、海を越えて対岸諸地域から渡来した神々への信仰が濃厚だった。
	A、その主流は漢神(韓神)=からかみ=信仰であった。
	B、律令国家は漢神信仰を異端視し、厳しい弾圧を加えたが、歴史から抹殺する事はできなかった。

	浅香氏は、民族固有の信仰(神祇信仰)があるとすれば、渡来人達の信仰が何らかの形で我が国の信仰の上に残存している
	はずだと考えた。そしてこれらの論証として、10世紀の延喜式の中に記された官社リスト(一般に延喜式神名帳と言う。
	8−9世紀の律令国家によって成立。)に注目する。氏によれば、これらのリストに現れる渡来神への信仰には三つのタイ
	プがある。

	(1)、第一のタイプは渡来系の信仰を直接的に主張したもの。対岸地域の地名と人格神であることを示すヒコ・ヒメを下に付
	   与する。「能登國州三座鳳至(ふけし)郡九座」の中の「美麻奈比古(みまなひこの)神社・美麻奈比刀iみまなひめ
	   の)神社」などがそれにあたり、能登に7社、越前に1社あり、その他新羅系と思われるものが能登に2社ある。

	(2)、第二のタイプは出雲に集中する「カラクニイタテノ神社」群。古代出雲の中心である意宇(おう)郡、出雲郡に多い。
	   例として「出雲國一百八十七座意宇郡州八座」の中にある「揖夜(イフヤノ)神社 同社ニ座ス韓國伊大氏(カラキニ
	   イタテノ:テは氏の下に_が付いた字)神社」がある。「伊大氏(イタテ)」とは造船又は船魂を意味し、律令国家か
	   ら対岸交流を認められた神々、とする。

	(3)、第三は、渡来系の信仰であることが社号から消えているもの。越前の気比神社、能登の気多神社、越後の伊夜比古神社
	   などの有力地主神がこれにあたるが、各社の由来を記した「縁起」には実は、その神社がかって海の向こうから来た神
	   を信仰する為に建てられたと、伝承されているのである。例えば、「気多社嶋廻縁起」には「気多の神は三百余人の家
	   来とともに大船に乗って来た五、六才の王子であった」旨の記述があるし、「(王子の補佐役の)左右ノ大臣トモウス
	   ハ異國ヨリ御供ノ臣家也」とも記されている。

	渡来の証拠は歴然なのにその由来が社号から消されている。大社であるがゆえに時の律令国家から渡来神の神格を押さえら
	れた、と氏は言う。逆に言えば、8-9世紀の日本海沿岸には古来より渡来神信仰が基層にあったと言えるのでないか。



	(2).考古学者の目から

	同志社大学教授の森浩一教授は、環日本海地方は「潟」を中心として古代文化が栄えた、という説を講演した。
	日本海沿岸には、砂の堆積によって海と隔てられた「潟」が多く存在するが、この潟やかって潟であったところに遺跡が多
	く、その地方最大級の古墳があったりする。通常の農漁村としては考えられないような大遺跡があったり、後世「一の宮」
	として崇拝されることになる神社も潟のほとりに設けられた傾向があり、これらの考古学的成果から見て「潟が良好な港と
	して利用されたのだろう」と潟港の役割を強調した。潟港は海上交通の拠点で、交易の拠点でもあった。ほぼ一日の海路行
	程で点在する潟港は、日本海沿岸全体を大きな海上貿易圏として成立させていたのではないか。
	広範囲な交易圏は独特の商品をうみ、縄文から古墳にかけての玉の制作などその産物ではなかったか。日本海側の古墳にし
	ばしば見られる船の絵は、日本海側に古くから舟が発達していたことを示し、それは広く東アジアとも古代人が交流してい
	たことを物語るのではないだろうか。



	(3).中国人研究者の見た稲作伝播ルート

	中国社会科学院考古研究所の安志敏・副所長は大陸文化の日本への伝播ルートについて、日本海北方と朝鮮半島経由も重要
	だが中国の東海経路も重視して欲しいと述べた。中国の長江下流域の新石器文化の幾つかが、先史時代の日本に直接入って
	いる事実を指摘した。縄文時代のけつ状耳飾りをはじめ、漆器、稲作の萌芽、高床式建物などでいずれも長江下流域に起源
	を有するものである。中国、日本、朝鮮の先史時代の稲モミの出土状況などを考えあわせると、稲作農耕は陸づたいに華中、
	華北、そして朝鮮半島から日本へと考えるよりも、華中から海を渡って直接、日本と朝鮮に同時に伝わったと考えるほうが、
	いくつかの考古学的事実から見て合理性がある。華中から海流に乗って日本へというコースは、現代人が考える以上にいい
	経路だったようで、「歴史時代に入ると遣唐使などで証明されるが、私は漢代以前からこの海の経路が開けていたと思う。」
	安氏は、稲の最初の伝播時期を「紀元前9世紀頃と見る」と語っている。



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