SOUND:Round Midnight



1.文献学的見地から


		戦後の歴史学は、神話性を排除するため教科書から「古事記」や「日本書紀」の内容を一切排除してしまった。言及したと
		しても、文字通り「神話」であると断定しその内容に全く歴史性を認めなかった。この立場は、今日でも「津田史学」とし
		て有名であるが、東京大学の白鳥庫吉の弟子であった津田左右吉による処が大きい。
		津田は、『古事記及び日本書紀の研究』を始めとした一連の著作において「記紀」の歴史性を否定し、これらは大和朝廷が
		後世自己の正当化のために作り上げたものであるとした。当然、天皇家の神格化も否定し、記紀には全く歴史的な信憑性は
		無いと断言したのである。その為、津田自身は右翼や極端な保守主義者達から多くの迫害を受けることになる。極端な国粋
		主義者の「原理日本社」は、津田の研究に危機感を抱き、津田を告発した。
		『古事記及び日本書紀の研究』を手始めに、全4冊が発禁処分となり津田は追い込まれていくが、戦後体制になってからは
		一変する。津田は歴史学における進歩的史観の第一人者となり、多くの学者達が師事するようになる。やがては「津田学派」
		と呼ばれる一群の研究者集団が形成され、この流れは今日にも続いている。
		私自身は、天皇家支持でも右翼がかってもいないつもりであるが、津田の、一切の神話に歴史性を認めないという説には賛
		同できない。世界中の殆どの国には神話がある。建国神話もあるし、神々の活躍や人民の大移動や融合について語った部分、
		ほのぼのとした地名の由来など実に様々であるが、私はこれらの神話には何らかの歴史的な事象の存在があると考える。荒
		唐無稽なSFまがいのストーリーにも、何かその物語の核になった歴史的な事跡があって、人々はそれを神話にして語り伝
		えてきた、と考える。
		考古学的な遺物は、文献に残された数々の事象に裏打ちされてその値が重みを増していくのであって、ただ遺物だけでは、
		単なる骨董品である。荒唐無稽と思われる神話の中から史実の核を探し出す、この態度は、全く神話に歴史性を認めない立
		場よりはるかに論理的で科学的だと考える。

		我が国に現存する五つの風土記の内、「出雲国風土記」のみがほぼ完全形で伝えられている。成立年代や編作者もあいまい
		なものが多い中、「出雲国風土記」のみは、天平五年(733)、出雲国造出雲臣広嶋(いずものくにのみやっこ・いずものお
		みひろしま)編という事がわかっている。この風土記は、神社・寺院・山川・地名の由来、地方の物産などの他に、出雲の
		国が出来た由来を伝える「国引き物語」など、他の風土記にはない内容を多く伝えており、当時の様子を知ることが出来る
		第一級の史料である。
		「国引き神話」によると、古代の出雲は小さく領土が不足しているので四つの国から土地を引いてきて今の形にしたとある。
		現在の島根半島である。衛星からの写真で島根半島を見ると、大きく四つの山塊に別れている事が見てとれる。


		「三穂の埼」みほのさき・・・・・・・・・・美保関町北浦・稲積から松江市手角町にかけての東側の岬。美保神社がある。
		「闇見の国」くらみのくに・・・・・・・・・・・鹿島町多久川から美保関町北浦・稲積までを言う。闇見の神が鎮座する。
		「狭田の国」さだのくに・・・・・・・・・・・・平田市小津から鹿島町多久川の切れ目までを指す。佐太大神が鎮座する。
		「八穂米支豆支の御埼」やほしねきづきのみさき・大社町日御碕から平田市小津・平田までを指す。ここに出雲大社がある。


		地質学的には、島根半島は約7000年前には日本列島から離れた横に細長い独立した島であった。3000年から2500年ほど前に
		現宍道湖の東側・西側が地続きになり宍道湖が出来、弓ヶ浜半島も陸続きとなって中海も湖となった。1200年ほど前、弓ヶ
		浜半島の付け根が再び海となり中海は湾となり、現在に至っている。
		神話は例えば三穂の埼を、高志(越:北陸地方。)の国から弓ヶ浜半島を綱にして、大山を杭に引き寄せたという荒唐無稽
		なものであるが、その地形的な成り立ちと一致しているのには驚かされる。また西側の杵築(きづき)の御崎は、遠く新羅
		の国から引き寄せたとあるが、衛星も地図もない時代にただ想像力だけでこういう壮大なスケールの物語を作った古代人に
		は圧倒される。



		しかし実は、古代出雲人が単なる想像力だけで新羅の国を持ち出したのではない事は明白だ。環日本海ル−トとでも呼ぶべ
		き、大陸・半島との交流が相当昔から存在していたと見るべきだろう。
		地図を見れば一目瞭然だが、朝鮮半島東側の新羅からは、実は北九州に行くよりも出雲や伯耆・若狭あたりの山陰・北陸へ
		行く方が自然である。対馬海流の流れを見ても、逆らってわざわざ松浦に行く事はない。
		こぎ出せば海流に乗って自然に出雲あたりへ流れ着くのだ。北九州に負けず劣らず、山陰地方にも古くから大陸・半島から
		の渡来が行われていたと推測できる。とりわけ出雲では他の地域に先駆けて朝鮮半島と交易を行い、最新ハイテク技術であ
		る金属加工法を獲得していたのではないか? 
		技術とともにその技術を伝える人々も渡来してきたはずだ。人的交流も盛んだったはずである。その成果が冒頭の358本
		の銅剣につながるのだろう。



 




		スサノオ、オオナムチを中心とする出雲神話は、我が国神話(記紀)の約3分の1を占めている。8世紀初頭に成立した古
		事記・日本書紀がここまで出雲を取りあげた、或いは取りあげねばならなかった理由は一体何であろうか。出雲は、記紀が
		成立した時代にそれほど重要な、又は重要な記憶を秘めた場所であったのか。

		出雲の最高神、大国主(オオナムチ:大国主の命)は、遠く高志(越)のクニまで進出し糸魚川の翡翠製産をもその勢力下
		に納めようとするほどの権勢を誇っていたが、この出雲王朝に悲劇は突然訪れる。高天原の天照大御神(アマテラス)と高
		御産巣日神(タカミムスビ)は孫の火瓊瓊杵(ホノニニギ)を下界へ降ろし、大国主以下の神々に出雲の統治権を高天原に
		譲るよう交渉させようと試みるのである。しかし第一陣、第二陣の使者達は出雲側の懐柔に会い使命を放棄してしまう。三
		度目の使者、建御雷(タケミカヅチ)と天鳥船(アメノトリフネ)は出雲の稲佐の浜(出雲大社東岸)に降り立ち、建御雷
		は、波頭に突き立てた刀の刃先にあぐらをかくという奇怪な格好で大国主と「国譲り」の交渉を開始する。
		大国主は即答せず、長男の事代主(コトシロヌシ)と相談したいと返事する。事代主は大国主に国譲りを勧め、自らは沈む
		船の中に隠れてしまう。そこで大国主は国譲りを決意するが、末子建御名方(タケミナカタ)は腕力による決着を望み、建
		御雷に信濃の諏訪まで追いかけられ、結局諏訪の地に封じ込められてしまう。建御雷は出雲に戻って大国主に決断を迫り、
		ここに「出雲の国譲り」が成立する。
		大国主は国譲りにあたって、高天原の神々の子らと同様の壮大な宮殿造営の条件を出す。高天原はこれを了承し、大国主の
		為に多芸志の浜に宮殿を造る。

		この宮殿について日本書紀は、

		(1).宮殿の柱は高く太く、板は広く厚くする。
		(2).田を作る。
		(3).海で遊ぶ時のために、高橋、浮橋、天鳥船を造る。
		(4).天の安川に打橋を造る。

		....などと厚遇し、天穂日命(アメノホヒ:国譲り交渉の第一陣使者)を大国主の祭祀者として任命する。
		(この天穂日命が出雲国造の祖神という事になっており、現在の宮司はその83代目にあたるとされている。)

		以上がいわゆる「出雲の国譲り」と称される神話の概要である。古事記と日本書紀で細部は異なるが、話の大筋は同じであ
		る。この神話を巡っての解釈も諸説あり、神話の中に何らかの史実性を見いだそうとするもの、全くの創作だとするもの、
		殆ど史実ではないかと唱えるものなど様々だ。私見では、かなりの確率でこの話は史実に基づいているのではないかと考え
		る。そう仮定すると、出雲の重要度、弥生以後の我が国の展開が矛盾なく説明できると思う。

		皇学館大学の田中卓教授は、「田中卓著作集2」所収「古代出雲攷:日本国家の成立と諸氏族」で、出雲族の根拠地はかっ
		て大和であり、出雲は、出雲族が追われた場所である、とする説を述べている。又、梅原猛氏は集英社刊「神々の流竄(る
		ざん)」において、出雲族の根拠地は大和であり、出雲は8世紀の大和朝廷が神々を追放しようとした土地である、と考え
		ている。これは現在のところ、学会では一般的な意見のようである。即ち、出雲にある程度の文化的な先進性を認めたとし
		ても、それは元々大和にあったのだという発想である。特に近畿圏で活動する学者達は殆どそういう意見のように見える。
		しかしながら私には、大和に文化が独自に発展したと考える方がはるかに非論理的なように思える。どうしてあんな辺鄙な
		盆地に突然文化的な萌芽が湧いて出るのか?渡来によらず、縄文からどうしていきなり青銅器や稲作を始められるのか?
		渡来文化しかありえないではないか。

		しかも大陸・半島からいきなり大和を目指してくる訳もない。北九州か、山陰か、瀬戸内海を経由してくるしか無いのだ。
		渡来人達は、征服しやすい土地を求めて奈良盆地にたどり着いたと考えるのが一番自然であろう。山陰地方から内陸へ南下
		した渡来人達は、丹波で負け、摂津で負け、河内で負け、或いはこれらの土豪達とは戦わず迂回して、最も弱かった奈良盆
		地を征服したのだ。そのおかげで、奈良は渡来文化をあまさず享受できたと考えられる。大国主の神々の本拠地が元々出雲
		にあり、大和地方もその傘下に治めていたのだ。

		大和の勢力が出雲に大国主の神々を派遣して王国を築いたという見方は、私には本居宣長の考えとそう違わないような気が
		する。天皇家とその発祥を大和におき、あくまでも日の本は大和を中心に栄えたとし、よその地方から移ってきたなどとん
		でもないという考えは、渡来人及びその源地を蛮族視しているようにしか思えない。いわゆる「進歩的な」歴史学者達の中
		にも、結果的にはこういう立場に立っている人達もいるのである。
		「記紀」によれば、大国主の命は高天原勢力に「国譲り」をする。そして高天原から出雲の国へ天穂日命(アメノホヒノミ
		コト)が天下る。
		天穂日命は出雲の国造(くにのみやっこ)の祖先となる。大国主の命の領地であった(可能性が高い)大和には、邇芸速日
		の命(ニギハヤヒノミコト)が天下る。天照大神の孫が2人も出雲と大和に天下っている。邇芸速日の命の降臨は神武東征
		の前であり、出雲の国譲りの後のように思われる。







		「杵築(きづき)を見たということは、これはただ珍しい社殿を見たにとどまらず、それ以上のものを見たことになるので
		ある。杵築を見るという事は、とりもなおさず今日なお生きている神道の中心を見るということ、・・・・・ 悠久な古代信仰の
		脈拍にふれることなのである。」
		明治 23年(1890)9月13日夜半、出雲大社に初詣したラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、翌14日、唯一昇殿を許された外
		国人として、この感動・衝撃的体験をその著書「杵築」で語っている。(昭和50年、恒文社刊 小泉八雲著「杵築」平井呈
		一訳)

		出雲大社十六丈復元図(「日本のやしろ出雲」美術出版社)によれば、古代の出雲大社は、実に巨大で異常な高さを持つ。
		往古三十二丈、中古十六丈の社伝が残っていて、現在が八丈(24m)であるから、大昔(創建時)には96mの高さを誇ってい
		た事になる。現在の伊勢神宮が9mである事を考えると出雲大社がいかに高さを主張していたかが理解できる。96mがほんと
		に建っていたのか、48mにしても、古代にそんな建造物製作が可能であったかについては、大林組プロジェクトチームによる
		「出雲大社の復元」に詳しい。
		復元図を見ていると、この建物は何かに似ている。初めは何かわからなかったが、左右に建っている柱でようやくわかった。
		これは縄文・弥生の遺跡から発見される「高床式建物」である。柱がぐーんと伸び、階段も広く長くなっているが、これは
		まさしく高床式建物ではないか。
		高床式建物が渡来文化の賜(たまもの)だとすれば、これは見事にその文化の行き着いた先を表わす「象徴」である。むし
		ろその為にこそ、大国主は高天原にこの宮殿を建てさせたのかもしれない。また、その条件を呑みこの宮を建てた高天原に
		とっても、出雲はそれほどの強大な権力と見なされていたのであろう。階段の端は遠く稲佐の浜まで続いていたとされてい
		る。大国主の命が、宮殿から海に遊びに行く時のために、高橋と浮き橋と天の鳥船が造られたと「日本書紀」は伝えるが、
		この絵を見ていると宮殿から遙か日本海の彼方を眺めては、自らの父祖の地を想っている大国主の姿が目に浮かぶようであ
		る。
		1665(寛文5)年10月10日、出雲大社の東方200mの摂社(せっしゃ:本社の付属社で、本社に祀られている神以外を祀る。
		勿論本社の神と関わりが深い神々を祀るのが普通である。)「命主神社」裏において、石の切り出し作業中、硬玉(ヒスイ)
		製勾玉と銅戈が発見された。後世この鑑定が行われているが、硬玉は、京都大学原子炉実験室による成分解析の結果、新潟
		県糸魚川地方の産とほぼ認定され(近似値を得た)、銅戈は、中細形と言われる形式であり、弥生時代中期に北部九州で濃
		密な分布があり、鋳型も春日市を中心に多く発見されている。糸魚川は越(高志)の国とも呼ばれ、大国主がここを訪れ奴
		奈河比売(ぬなかわひめ)に求婚した話も残っているし、また銅戈とともに出土した土器片は、北部九州に多く見られる木
		葉文がくっきりと残されており、出雲が北部九州から越の国まで広く交流していたことはほぼ間違いない。北九州と糸魚川
		を結ぶ環日本海ルートのちょうど中間の位置に出雲はある。
		「古事記」によると奴奈河比売訪問の後、大国主は倭国行脚を想起し「出雲国造神賀詞」には大国主の和魂(にぎたま)を
		大和の三輪山に祀るとある。大和は、出雲の支配下にあった事をうかがわせる。



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