Music: Imagine








	下記単行本「古代出雲大社の復元」において、大林組のプロジェクトチームは、京都大学名誉教授福山敏男博士の監修の元、古代に
	果たしてこのカバー写真にあるような高度を持つ建造物が、果たして製作可能だったかの検証を行っている。結論から言ってしまえば
	その答えはYESである。高さ48m、15階建てのビルに匹敵する木造建築物だ。




	現存する文献上で出雲大社の造営に関する記事が見える最初のものは日本書紀である。659年斉明5是歳条に、出雲国造に命じて神宮を
	造らせる、とある(これは熊野大社とする説もある。)
	以後、出雲大社の大きさ高さについて記録した文献が幾つか残っている。天禄元年(970)と年号が記された「口遊」(くちずさみ)と
	いう書物がある。平安初期の源為憲(みなもとのためのり)という学者が書いたもので、当時の子供達の社会科の教科書のような性格
	を持っている。当時の著名なものを紹介したり、その大きさの順位を暗記しやすいようにゴロ合わせなどを用いて覚えやすく書き残し
	たものだ。
	ここに、当時の大建造物のおぼえ歌があり、、「大屋を誦して謂う。雲太、和二、京三」と書かれている。
	説明文も書かれておりそれによると、雲太とは出雲にある出雲大社のことで、これが一番大きく、次いで大和国東大寺の大仏殿であり、
	京三とは京都の大極殿八省(今の平安神宮)のことだと記されているのである。東大寺大仏殿は平安末期の源平争乱の中、治承4年
	(1180)に戦焼しているが、焼ける前の高さは十五丈(約45m)と伝えられており、出雲大社はそれ以上あったことになる。
	もうひとつ、鎌倉時代の初め、藤原長清が撰者となっている歌集で「夫木抄」(ふぼくしょう:36巻)という書物がある。その中に歌
	人として名高い寂蓮法師の「千木の片そぎ」の歌がある。「やわらぐる光や空に満ちぬらん/雲に分け入る 千木(ちぎ)の片そぎ」
	寂蓮法師は、平安末期の建久元年(1190)、諸国遍歴の長い旅に出て、出雲の地にも訪れている。この歌は、出雲を訪れ初めて見た出雲
	大社のあまりの高さに驚き、その感動を「雲に分け入る」と表現している。千木というのは、神社の屋根の両端で交差している二本の
	木である。伊勢神宮の千木はその先端が水平に切られているが、出雲大社は垂直である。その鋭い千木の先端が法師にはまさに雲を突
	き破って空に達するほどに感じられたのであろう。

	古代から、いかに高い建物として世間に知られていたかが窺えるのであるが、その高さは一方で高いが故の悲劇も生みだしている。
	「百錬抄」という書物には、長元4年(1031)8月、「出雲の国杵築社神殿転倒」と記録されている。以来、「百錬抄」「左経記」「千
	家家古文書」「中右記」「北島家文書」などに、「社殿転倒」「出雲大社鳴動」「社殿が傾き転倒せんとす。」などという記述が見ら
	れ、平安中期から鎌倉時代初めまでの200年間に7度も倒れているのである。「傾く」とか「鳴動す」を入れるとその危機は10回を越え
	ている。これは一体どうしたことなのか。






	
		そもそも出雲大社とは一体なにものなのだろう。元々は杵築(きずき)神社とも呼ばれ、これは「築く」という言葉から
		来ているという説が有力である。相当古い時代からの神社である事は間違いないし、事によるとほんとに「古事記」「日
		本書紀」に言う「出雲の国譲り」で、オオクニヌシの尊が「高天原」に建ててもらった住居かもしれない。オオクニヌシ
		の尊は、出雲を高天原の神々に譲り渡す条件として、高天原に建っているのと同じ様な豪壮な宮殿を建ててくれと要求し、
		高天原もこれを了承する。以下がその描写の部分である。

		「古事記」(上)
			(略)

		故、更にまた還り来て、其の大國主神に問ひたまひしく、「汝が子等、事代主神、建御名方神の二はしらの神は、天つ神
		の御子の命の随に違はじと白しぬ。故、汝が心は奈何に。」ととひたまひき。爾答へ白ししく、「僕が子等、二はしらの
		神の白す随に、僕は違はじ。此の葦原中國は、命の随に既に献らむ。唯僕が住所をば、天つ神の御子の天津日継知らし
		めす登陀流(此の三字は音を以ゐよ。下は此れに效へ。)天の御巣如して、底津石根に宮柱布斗斯理、(此の四字は音を以ゐよ。)
		高天の原に氷木多迦斯理(多迦斯理の四字は音を以ゐよ。)て治め賜はば、僕は百足らず八十くま手に隠りて侍ひらむ。
		亦僕が子等、百八十神は、即ち八重事代主神、神の御尾前と為りて仕へ奉らば、違う神は非じ。」とまをしき。
	
		上記太字の部分を訳すと以下のようになる。
	
		私の住むところを、高天原に住む天津神(あまつかみ)達のそれと同じように、頑丈な基礎と太い柱で建て、高天原に届
		くほど高く千木をかざして建ててもらうならば、(私は引きこもって神妙にいたします。)
	
		ここでは建物そのものの描写は少ないが、日本書紀はもっと具体的にこの部分について言及している。即ち、この宮殿に
		ついて日本書紀は、
	
		(1).宮殿の柱は高く太く、板は広く厚くする。
		(2).オオクニヌシの為に田を作る。
		(3).オオクニヌシが海で遊ぶ時のために、高橋、浮橋、天鳥船を造る。
		(4).天の安川にも打橋を造る。
	
		などと厚遇し、天穂日命(アメノホヒ:国譲り交渉の第一陣使者)をオオクニヌシの祭祀者として任命する。(この天穂
		日命が出雲国造の祖神という事になっており、現在の千家(せんげ)宮司はその83代目にあたるとされている。)興味深
		いのは、古事記ではオオクニヌシから要求し、日本書紀では高天原からこれを呈示している事である。

		この「記紀」の描写を以て、出雲大社を神話時代の「オオクニヌシの尊」の館(宮殿)であったとする向きは多い。実は
		私もその一派である。この「記紀」の故事は、筑紫(北九州)の先住渡来民族と、出雲に渡来した民族との戦いを伝承し
		たもので、出雲族が筑紫族に負けた事を記録していると考える。実際そのような史実があって、それが「記紀」にいう出
		雲神話として残ったものだろう。勿論、実際にオオクニヌシと呼ばれる人物が存在したのかどうかなどは分からない。し
		かし、戦いに負け、宮殿を要求した人物が確かにいたのだろう。そして、勝ったとはいえ有力な部族であった出雲族のた
		めに筑紫族も敬意を払い、この宮殿を建てたのだと考える。「筑紫族」は「高天原」であり、「出雲族」は「葦原の中津
		國」である。
		一方、この神話はあくまでも神話に過ぎないとして、「出雲の国譲り」などは存在していないとする見方も当然ある。し
		かしながら、いずれにしても、出雲大社が現在存在している事は間違いない事実であるし、その起源が相当に古いもので
		あるのも確かである。





	
		先述した「千家」家には古代の出雲大社のことを書いた古文書がいくつか残っている。又、伝承として出雲大社の高さに
		ついて、往古(大昔)には三十二丈、中古(中世)には十六丈、今は八丈であるとの言い伝えが残っている。八丈は現代
		の高さで言えば24mである。現存する神社仏閣の木造建築としては日本で一番高い。伊勢神宮が9mである事を考えると、
		出雲大社の24mは相当に高いと言えるが、中古の48mはもうビルディングだ。実際、15階建てのビルに匹敵する。
		中古と言うのがいつ頃の事をさすのかについては異論もあるが、大体平安の中期から鎌倉時代あたりを言うらしい。それ
		以降が今で、以前が往古である。
		大林組の検証によれば、この往古の時代の、96mという高さの木造建築は構築不可能らしい。現代でも、純粋に木造だけ
		でこの高さの出雲大社が建てられるかどうかははなはだ疑問だという。材料となる木材も、もう世界中探しても無いかも
		知れないのだ。大林組が検証したのはここにいう中古の出雲大社、即ち48mの出雲大社についてである。
		千家家に残る古代の出雲大社を描いた、「金輪造営図」(かなわのぞうえいず)という絵図面がある(下左)。これは出
		雲大社の柱を中心に上部から見た平面図である。江戸時代寛政期の国学者、本居宣長が「玉勝間」(たまかつま)で紹介
		してから広く世間に知れ渡った。大林組によれば、この絵図面は以下3つの特異点がある。



(1).まずそれぞれの部材の大きさが異常に大きいこと。一番細い柱口が一丈と書かれている。即ち側柱の直径が3mもあるのだ。梁にしても幅1.12m、高さ1.35m、長さ18.18mという巨大さだ。

(2).柱が1本ではなく3本の柱を束ねて1本にし、それを金輪(と思われる)でまとめて1本の柱にしてある。この図面の名前もここから来ていると思われる。

(3).3番目の異様な点は、建物の前に張り出している階段の長さが、「引橋一町」と記入されている事である。図はディフォルメされているため階段は実際より短めに描かれているが、一町と言えば109mになる。100mを越す階段が到達する床は、一体どんな高さに浮かんでいるのか。その上の建物は想像を絶する高みに聳えていたと考えざるを得ない。

大林プロジェクト・チームは、この絵図面と中古十六丈という言い伝えを組み合わせて、これが「48mの出雲大社」であると想定し、その建築の可能性を検証していくのである。
この本は1989年11月が初版である。当然、今年(2000年)発見されたこの柱遺構の存在など知る由もない。絵図面と伝承から古代出雲大社の復元に挑むのである。
大林組プロジェクトチームが検証した項目は以下のようになる。

・全体のバランスの検討について
・柱について
・屋根について
・壁について
・大床高欄について
・梁と桁について
・本殿内部について
・階段(引橋)について



	
		これらを逐一、図面を引きながらその構造的可能性を推定していくのである。そして現代科学を用いてこの建造物の構造
		解析を試みる。その内容は、

			・出雲大社周辺の地盤をみる
			・復元出雲大社「本殿」の構造
			・復元出雲大社「階段」の構造
			・本殿の倒壊について
			・出雲地方における地震をみる

		となっている。数式や様々なデータを用いて、倒壊の記事の信憑性を確認したりしていて、なかなか読み応えのある本で
		ある。例によって、現代にこの出雲大社を建造するときの工期と費用もシュミレートしている。それによれば、総工期は
		6年。総延べ人員は126,700人。総工費は121億8,600万円だそうである。全く現代における大型ビル工事と変わりない。
		さすがはゼネコン建設のプロじゃわいと思わせる。このプロジェクトのシミュレーション作業には延べ1年を要している。

		この本が出版されてから10年後、出雲大社は、拝殿準備室を地下に造ろうとしていた。拝殿準備室とは、拝殿に昇る前に
		神主達が衣服を整えたり、その他様々な準備を行うための部屋である。新たな建物を建てるスペースがなく、おそれ多く
		も地下にその部屋を作ろうとしたのだ。
		それまでも出雲大社からは、防災工事等により、縄文時代後期・弥生時代・古墳時代を経て、古代・中世と各時代に渡る
		遺物・遺構を出土しており、考古学の分野では「出雲大社境内遺跡」として知られていた。「地下祭礼準備室」の工事は、
		平成11年9月1日から開始され、室町時代の石積みの跡などが出土した。平成12年(2000)になって、夥しい石が埋まった
		一角が発見され、続いてその中に柱が3本組で発見されたことから大騒動になった。結局これが「金輪御造営絵図」に出
		てくる中古の柱跡に違いないという事になって、一般に公表されたのは4月の終わりになってからの事である。各界から
		の要請もあり、出雲大社はこの地に地下室を作るのは断念し、この遺構は永久保存される事に決定した。しかし残りの柱
		跡の発掘は、既に地表に拝殿が建ちこめており、当分の間実施される予定はない。
		(と聞いていたが、末尾に添付したように10月8日、「心柱発見!」の記事が出た。とするとこの情報は誤りだったの
		だ。お詫びして訂正。)
	
		この柱の出土を何よりも喜んだのは、「大林組」でこの紙上復元プロジェクトに参加した連中だったかもしれない。





巨大柱跡発掘現場




発掘現場の一般公開時、現場に置いてあった出土した柱のレプリカ。
発砲スチロールで忠実に柱の形状を型取り、黒く着色してあった。(2000.5.14出雲大社にて。)



 

	
	類例がない掘り方と、巨大な柱を固定するための膨大な量の礫石の集積が検出されて、ついに巨大な木柱の一部が顔をのぞかせた。
	木柱は地下約1.5メ−トルのところから長さ120センチほど残存して、先ず1本が検出された。さらに続けて先の1本に接した1本が
	検出され、「金輪御造営差図」の通り、3本を1本の柱とした状況が明らかになったのである。その径は約3メ−トルである。
	全く古絵図面の通りであった。
	発掘場所は八足門前、拝殿裏の処で、発掘区の西端にあたる。視察に訪れた神道史・歴史学・考古学・建築史学・地質学などの様々
	な専門研究者も、目前の、常識外の未だ見たことのない作事構造に、「さすが出雲大社、何が出てくるか判らない」と一様に驚きの
	声を上げていたという。

	見てきたように、「金輪御造営絵図」にかかれた古代出雲大社の実在はほぼ確認されたと言ってもいいだろう。しかしまだまだ「謎」
	は残っている。「記紀」と出雲大社との関係。往古の出雲大社の問題。度重なる倒壊と再建の意味。その他エトセトラ、エトセトラ。
	誰かの本ではないが、まさに「謎」が「謎」を呼ぶ古代史である。おもしろいったらありやしない、と言ったところか。



	
	2000年7月22日、大阪市立図書館において、「古代史を解く」と題する講演会が開催された。講師は京都大学名誉教授で歴史学者の
	上田正昭氏であった。前出新聞記事を見てお分かりのごとく、当然演題はこの出雲大社である。「空中神殿の謎にせまる」。

 

	
	古事記・日本書紀に始まる「オオクニヌシの尊」の人物像から、「出雲の国風土記」による出雲国の成立、今回の心柱の発掘と、一
	通りの解説をしていた。明確に古代48mの建物が建っていたとは言明しなかったようだが、概ね文意としてはその成立に肯定的であっ
	たように思う。7度も倒壊してその都度再建するというエネルギーは、「出雲信仰」とでも呼ぶべき信仰が無ければあり得ない、と
	の意見だった。

 

	
	上田氏と言えば我が国を代表する歴史学者であり著書も数多い。今回の柱の出土によって、歴史学者も十六丈(48m)の出雲大社の
	存在を確信したと言う所だろうか。




















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