第U部 椿井大塚山古墳と三角縁神獣鏡の研究 椿井大塚山古墳の意義




	1 三世紀の東アジアと椿井大塚山古墳

	 『魏志』倭人伝には中国の魏と日本列島に所在した邪馬台国との密接な交渉が記録され、三角縁神獣鏡のなかには魏の年号や地名がみえることから、
	邪馬台国の女王卑弥呼が魏の皇帝から賜わった銅鏡百枚をこの三角縁神獣鏡にあてる説がある。
	椿井大塚山古墳には、日本列島の古墳から出土した総面数の約1割にあたる30数面の三角縁神獣鏡のほかに、後漢鏡や画文帯神獣鏡など4面の中国鏡
	が出土し、素環頭大刀や甲冑など鉄製品にも中国製と推測できるものがある。

	卑弥呼の鏡
	 前章までにおいて、三角縁神獣鏡の神獣像表現と文様構成の分析からその製作状況の検討をおこない、それが特別な体制で製作された規格品である
	こと、時間の経過をうかがわせる型式変化が認められること、日本列島での製作が確実な製三角縁神獣鏡とは明瞭に区別できることを明らかにした。
	このことから、三角縁神獣鏡は倭に贈るために魏が特別に鋳造したものと考える特鋳説(小林1982)を支持するが、さらに画文帯神獣鏡の図像を忠実
	にとりこんだ景初三年鏡や正始元年鏡が三角縁神獣鏡のなかで初現的な型式と認められることは、三角縁神獣鏡の製作の契機が景初3年の卑弥呼の朝
	貢にあったとする想定(近藤喬一1983)を裏づけるものであろう。

	 邪馬台国と魏との間には、景初3年以後も正始4年(243)、正始6年、正始8年と頻繁な交渉が続き、20年近くの空白をおいて泰始2年(266)、卑弥
	呼をついで邪馬台国の女王となった台与が西晋に遣使したことを史書は記している。三角縁神獣鏡の型式変化からみて、このような一連の交渉にとも
	なってそれは継続的に輸入されたと考えられる。一方、景初3年の卑弥呼への下賜品には、銅鏡百枚のほかに五尺刀2口が含まれている。五尺刀は当
	時の尺度で1mあまりの大刀であったと推測されるから、椿井大塚山古墳から出土した全長93cmの素環頭太刀もあるいはこのような魏からの下賜品で
	あったかもしれない。

	後漢鏡と画文帯神獣鏡
	 後漢時代前期に作られた内行花文鏡の2面と方格規矩四神鏡とは、弥生時代のうちにもたらされ、宝器として長く伝世したものである。これに対し
	て画文帯神獣鏡は3世紀始めに中国の華南地方で作られ、三角縁神獣鏡の直前に輸入されたものである。椿井大塚山古墳の鏡は対置式神獣鏡に分類さ
	れるが、画文帯神獣鏡にはこのほかに環状乳神獣鏡、同向式神獣鏡などがあり、いずれも三角縁神獣鏡に先行する年代が与えられる。これらの鏡は、
	楽浪・帯方郡の所在した朝鮮半島の西北部にも出土し、画文帯神獣鏡の輸入にあたってその地を支配した公孫氏が関与した可能性がある。


	2 椿井大塚山古墳と初期ヤマト政権

	 椿井大塚山古墳の年代は、古墳時代初頭に位置づけられる。それは副葬品の中に製鏡や碧玉製品など日本で製作した新しい遺物を含まないことから
	であり、小林行雄は「中国からあたえられた器物にある種の権威を認めて、それを特殊な用途に利用した段階」とし、「そのような権威の象徴となり
	うる器物を製作する機構をもつにいたった段階」に先行すると評価している(小林1961)。最近の研究でも椿井大塚山古墳の年代観についてはほぼ一致
	し、古墳時代初頭の基準資料として重視されている。

	鏡の配布
	 三角縁神獣鏡が畿内中枢から一元的に配布されたことは、同笵鏡の分有関係によって確実視できる。そのような政治的関係の成立を考えるとき、画
	文帯神獣鏡の分布は示唆的である。中・後期古墳出土の踏み返し鏡を含む鏡は除外して、椿井大塚山古墳をはじめ前期古墳から出土した50面近い画文
	帯神獣鏡をみると、瀬戸内東部から畿内に分布が集中しているのがわかる。これに先行する後漢鏡が九州以東に均等に分布している状況とは対照的で
	あり、畿内に中枢を置いた配布が読みとれよう。魏の冊封体制を内包した三角縁神獣鏡ほどの政治的意義はないにしても、年代のうえでは3世紀のは
	じめ、ちょうど卑弥呼が共立された邪馬台国(やまと)の初期の段階にあたり、三角縁神獣鏡が配布される直前の様相を示すものと評価できる。

	 これに近い分布を示すのが小林行雄のいう中央型鏡群である。小林によれば、三角縁神獣鏡のなかではそれはもっとも早く配布された鏡群であり
	(小林1957・1961)、本書でおこなった神獣像表現の分類からみれば、表現@にほぼ対応し、四神四獣鏡群のなかの初現的な型式と考えられる。ちなみ
	にA・Bは西方型に、陳氏作鏡群のE・G・Hは東方型に対応するが、もとより分類の基準が異なるため、完全には一致しない。東方型、西方型の分
	布の偏差は、同范鏡の数が倍増した今日、これに符合しない資料が存在するが、大勢としてはなお承認できる。しかし本書でおこなった表現の分析か
	らいえば、東方型、西方型の間に製作の顕著な前後関係は認められず、中央型の評価を含めて今後の課題としたい。

	 三角縁神獣鏡の配布について小林行雄は、椿井大塚山古墳を中心とした同笵鏡の分有関係から、その保管と配布において椿井大塚山古墳の首長が直
	接的な役割をはたしたと考えた(小林1961)。木津川から淀川に通じる水路を利用して大和から瀬戸内にでる交通の要衝にこの古墳が位置していること
	も、そこで重視されている。32面以上という突出した出土量から、椿井大塚山古墳が同笵鏡分有関係の中心に位置するのは当然であるが、しかしその
	後に同笵鏡の資料が倍増したことによって、新しい波文帯三神三獣鏡は別にしても、椿井大塚山古墳と分有関係をもたない古墳は少なくなく、椿井大
	塚山古墳の首長が配布に直接かかわったことを証明することは難しい。もっとも九州や各地の首長が別々の経路で同笵鏡を入手したと考えることは、
	偶然がたび重ならない限りまず不可能であり、その配布の中枢が畿内に存在したというのは考えうるもっとも合理的な解釈である。そして比類ない多
	数の三角縁神獣鏡をもつ椿井大塚山古墳の首長は、政権の中できわめて重要な位置を占めたことも間違いなかろう。 

	鉄器生産の発展
	 椿井大塚山古墳の出土品をみると、中国からの輸入品は別にして、銅鏃、鉄鏃、刀剣などの武器には弥生時代の型式と比べて著しい発達がみられる。
	また鉄製農工具には弥生時代からの型式変化と同時に、弥生時代に見られた地域差が失われて斉一化したことが確かめられ、この時期における鉄器生
	産の場での変革、再編成が推測できる。とりわけ刀剣20点以上、鉄鏃200本以上のほか、農工具・漁具のセットが大量に納められたことは、鉄器の生産
	力が飛躍的に上昇したことを物語っている。しかもこの時期では朝鮮半島南部に鉄資源のほとんどを依存していたと考えられることからすれば、九州、
	瀬戸内を経由しての鉄資源の安定的な供給が政権によって保証されたことがうかがわれよう。

	墳丘の企画と規模
	 椿井大塚山古墳の墳丘は、撥形に前方部が開く古い特徴をもち、全長169mの前方後円墳に復原されることがわかった。また自然丘陵を削りだして墳
	丘を築造するに際し、奈良県の三輪山麓にある箸墓古墳と相似形になり、その3分の2規模になるよう企画されていた可能性を指摘した。箸墓古墳の
	相似墳にはほかに京都府五塚原古墳、同元稲荷古墳、岡山県湯迫車塚古墳、同浦間茶臼山古墳などがあげられ、それぞれ箸墓古墳の3分の1、3分の
	1、6分の1、2分の1の規模になるという(和田1981、北條1986)。基準となる箸墓古墳をはじめ、発掘によって墳丘が確認されている古墳が少なく、
	不確定な要素があるけれども、前方後円墳の出現当初からすでに一定の築造企画が存在し、その一群の古墳は埴輪や土器、長大な竪穴式石室、副葬品
	など部分的に判明している要素から椿井大塚山古墳と同時期の古墳時代初頭に位置づけられることは認めたい。そして少なくとも畿内から瀬戸内東部
	の地域は、より定式的な古墳祭祀を共有していたと考えられる。

	 このような古墳を含め、古墳時代初頭に位置づけられる前方後円(方)墳をみると、畿内から瀬戸内、北部九州に帯状に分布しているのがわかる。
	その墳丘規模は、奈良県の箸墓古墳や西殿塚古墳といった三輪山麓に位置する古墳の突出が目をひくが、そのほかの地域では椿井大塚山古墳がやはり
	群を抜いている。また三角縁神獣鏡の出土は、32面以上の椿井大塚山古墳を筆頭に、岡山県湯迫車塚古墳11面、福岡県石塚山古墳7面以上、大分県赤
	塚古墳5面、兵庫県吉島古墳4面、山口県竹島古墳2面、福岡県那珂八幡古墳1面の順になり、すべて椿井大塚山古墳と同笵鏡を分有している点も見
	逃せない。墳丘規模と三角縁神獣鏡の出土数とは必ずしも比例しないが、三輪山麓の古墳が巨大な墳丘規模を誇っていることをのぞけば、あらゆる点
	で椿井大塚山古墳は卓越しており、その首長は政権を支える重要な位置にあったことは疑いえない。

	 ここにあげた各地の古墳のなかで墳丘、石室、副葬品などの諸要素が調査されている古墳はほとんどないのに対し、椿井大塚山古墳は、墳丘が早く
	から削られ、副葬品が部分的に失われているものの、基準となるべき情報がほぼ整っている点でも重要である。しかしその現状をなおとどめる墳丘も、
	近年少しずつ破壊されているのはまことに残念なことである。以上に指摘したような重要な意義をもつこの文化遺産を将来に保存していく対策を早急
	に考えていく必要があろう。  (岡村) 
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	京都大学考古学研究室編 『椿井大塚山古墳と三角縁神獣鏡』 『京都大学文学部博物館図録』 京都大学文学部 1989
	

邪馬台国大研究・ホームページ / 古代史の謎 /chikuzen@inoues.net