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柳川藩
江戸時代、筑後国三潴(みづま)郡柳川(現、福岡県柳川市)に藩庁をおいた外様藩。藩校は伝習館。1587年(天正(てんしょう)15)、
豊臣秀吉による九州征伐後、その戦功により立花宗茂が筑後国四郡を与えられて13万2000石を領したが、1600年(慶長5)の
関ヶ原の戦いで西軍に属し除封。代わって、田中吉政(よしまさ)が石田三成を捕えた功績により筑後1国32万5000石を与えられて入
封した。しかし田中氏は2代で無嗣のため断絶となり、20年(元和6)に立花宗茂が10万9000石で再入封、筑後南部を領した。
翌21年には、宗茂の甥の種次(たねつぐ)が1万石を与えられて三池藩を立藩。立花氏は以後明治維新まで11代にわたって支配し、
最後の藩主鑑寛(あきとも)は家老立花壱岐を登用して財政再建に取り組んだ。幕末には長州征伐で幕府軍側について参戦、戊辰戦争
では新政府の要請に応じて会津若松に出兵した。1871年(明治4)の廃藩置県で柳川県となり、その後、三潴県を経て76年福岡県に
編入された。◇柳河藩とも書く。


















<御花について>
旧柳川藩主・立花家の別邸だった「御花」。江戸時代中期、この辺りは「御花畠」といわれていたことから、柳川の人々は親しみを
込めて「御花」と呼ぶようになった。
現在「御花」は料亭旅館であり、文化財でもある御花にはいくつもの顔がある。柳川名物「うなぎのセイロ蒸し」をはじめとする有
明海の珍味を本格会席料理として賞味できる。
立花家に、柳川藩 藩祖立花宗茂以来、400年にわたって連綿と受け継がれた収蔵品は、旧藩主の生活を彷彿とさせ、江戸時代の武家
文化を今に再現する貴重な文化遺産であり、立花家史料館で保管・展示されている。また「伝習館文庫」とも呼ばれる、柳河藩政を
中心とする「立花家文書」は、国の重要文化財に指定され「柳川古文書館」に保管されている。




上はwifeとその妹
柳河藩 出典:ウィキペディア
柳河藩(柳川藩、やながわはん)は、筑後国に存在した藩。藩庁は柳川城(現:福岡県柳川市)。当初は筑後一国を支配する大藩で
あったが、のちに久留米藩の成立により筑後南部のみを領有する中藩となった。
柳河(柳川)地域を中心とする下筑後(筑後南西)地方は、鎌倉時代から戦国時代末期まで蒲池氏の領地であり、次いで蒲池氏を滅
ぼした龍造寺氏が一時期支配する。
豊臣時代は立花宗茂が柳川城主として13万2千石を領していたが、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで西軍に与したため改易除封とな
った。同年、三河国岡崎城主田中吉政が、石田三成を捕らえた功により筑後一国32万5千石を与えられ柳川城に入った。吉政は筑後
川などの河川改修、新田開発の奨励、有明海沿岸に「慶長本土居」と呼ばれる32kmにも及ぶ堤防を築くなど、領内の整備を精力的に
行った。元和6年(1620年)2代忠政が病没すると、無嗣断絶により改易となった。
同年、旧田中領は分割され、西軍荷担の罪を赦され陸奥国棚倉藩3万石を領していた立花宗茂が8万石弱の加増を受け、10万9千石にて
柳川城に返り咲いた。また、久留米城に有馬豊氏が21万石にて入封し久留米藩が成立した。同じく、宗茂の甥に当たる種次が元和7年
(1621年)三池郡に1万石を得て、三池藩が成立している。
渡辺村男の「旧柳川藩志」では2代忠茂は万治元年(1658年)家臣の禄を地方知行制から蔵米知行制に変更したとされるが、知行制の
改変について、具体的な推移は解明されていない[1]。これにより藩士は、分限帳上において地方知行制を前提とした石高で表記され
る給人(知行取)と蔵米支給を前提として禄高として与えられる扶持米により「○○人扶持」と表記されたり、切米の容量で石高表
記される無足に大別され、家中の役負担や格付に差がでるようになる。
4代鑑任は元禄10年(1697年)城の西方に藩主別邸「集景亭」を造営した。鑑任死後は会所となったが、元文3年(1738年)に柳川城
二の丸にあった奥(江戸幕府大奥に相当)が同所に移転され、以降は御花畠と呼称されるようになる。旧藩主立花家が経営する料亭
旅館「御花」として現在に残っている。
8代鑑寿の、文化3年(1806年)下手渡藩に左遷転封となった旧三池藩領1万4千石を西国筋郡代が支配していたが文化13年(1816年)
柳河藩預かり支配に変更された。その後、嘉永4年(1851年)預かり地のうち5千石が下手渡藩領に復し、明治元年(1868年)三池藩
が再び立藩したため柳河藩預かりは解消された。
最後の藩主である12代鑑寛は安政年間(1854年 - 1859年)、家老の立花壱岐を登用し安政の改革を断行した。明治2年(1869年)戊
辰戦争での軍功により明治政府より賞典禄5千石を与えられた。
明治4年(1871年)廃藩置県により柳川県となった。のち、三潴県を経て福岡県に編入された。1884年(明治17年)、立花家は伯爵と
なり華族に列した。
















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柳河藩 出典:ウィキペディア
歴代藩主 歴代藩主の〈 〉内の年号は藩主在任期間
田中家 外様 32万5千石 (1600年 〜 1620年)
1.吉政(よしまさ)〔従四位下、筑後守・侍従〕〈慶長5〜14(1600年〜1609年)〉
2.忠政(ただまさ)〔従四位下、筑後守・侍従〕〈慶長14〜元和6(1609年〜1620年)〉
立花家 外様 10万9千石 (1620年 〜 1871年)
なお、1902年(明治35年)まで立花鑑広と立花鑑備が別人であることが極秘とされていたために、それまでは鑑広改め鑑備が10代目、
鑑寛が11代目ということになっていた。
1.宗茂(むねしげ)〔従四位下、左近将監・侍従〕〈元和6〜寛永15(1620年〜1638年)〉
2.忠茂(ただしげ)〔従四位下、左近将監・侍従〕〈寛永15〜寛文4(1638年〜1664年)〉
3.鑑虎(あきとら)〔従四位下、左近将監・侍従〕〈寛文4〜元禄9(1664年〜1696年)〉
4.鑑任(あきたか)〔従四位下、飛騨守〕〈元禄9〜享保6(1696年〜1721年)〉
5.貞俶(さだよし)〔従四位下、飛騨守〕〈享保6〜延享1(1721年〜1744年)〉
6.貞則(さだのり)〔従四位下、飛騨守〕〈延享1〜3(1744年〜1746年)〉
7.鑑通(あきなお)〔従四位下、左近将監・侍従〕〈延享3〜寛政9(1746年〜1797年)〉
8.鑑寿(あきひさ)〔従四位下、左近将監・侍従〕〈寛政9〜文政3(1797年〜1820年)〉
9.鑑賢(あきかた)〔従四位下、左近将監〕〈文政3〜天保1(1820年〜1830年)〉
10.鑑広(あきひろ)〔夭折のため官位官職なし〕〈天保1〜4(1830年〜1833年)〉
11.鑑備(あきのぶ)〔従四位下、左近将監〕〈天保4〜弘化3(1833年〜1846年)〉
12.鑑寛(あきとも)〔従二位、左近将監・少将・侍従〕〈弘化3〜明治4(1846年〜1871年)〉


































柳河藩 出典:ウィキペディア
エピソード
オノ・ヨーコの生家は小野家であり、祖父は小野英二郎である。同家は「柳川藩の家老で、立花四天王の1人小野鎮幸の子孫」といわれ
ることがあるが、実際のところは誤説で、オノ・ヨーコの生家は家老家の小野家でないことは「文久・慶応、明治家中変遷」で確認で
きる。ちなみに同史料によると1896年(明治29年)当時の家老家戸主は小野隆基(旧名・小野若狭)である。
松田聖子(蒲池法子)の生家は柳川藩の家老格で、藩祖立花宗茂の正室のァ千代の菩提寺である良清寺を初代住職の応誉上人(蒲池統
安の子)以来、預かる。家老でないのは、蒲池家は立花家譜代の家臣ではなく、蒲池鑑盛の子孫で元は柳川城主で領主の一族だったか
らとされる。
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