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2006.10.3 東京都杉並区








	東京都杉並区

	城西地区と呼ばれる東京23区の西側に位置する。面積は34.02平方キロメートルで、東京23区の中では8番目。かつては水田などが
	あり、自然が豊富な近郊住宅地域として発展してきた。大宮一丁目にある大宮八幡近辺が東京都全体の人口重心となっている。

	河川 ・・・	神田川、善福寺川、妙正寺川 

	東 - 渋谷区、中野区 、北 - 練馬区 、西 - 三鷹市、武蔵野市 、南 - 世田谷区 に隣接している。

	歴史
	1889年5月1日 - 町村制施行により、東多摩郡杉並村・和田堀内村・井荻村・高井戸村が発足。 
	1896年4月1日 - 南豊島郡・東多摩郡が合併し豊多摩郡となる。 
	1924年6月1日 - 杉並村が町制施行し杉並町となる。 
	1926年7月1日 - 和田堀内村が町制施行し和田堀町、井荻村が町制施行し井荻町、高井戸村が町制施行し高井戸町となる。 
	1932年10月1日 - 杉並町・和田堀町・井荻町・高井戸町が東京市に編入、4町の区域をもって東京市杉並区が発足。 
	1943年7月1日 - 東京都制施行により東京都杉並区となる。 
	1947年5月3日 - 地方自治法施行により杉並区は特別区となる。 






















	杉並の歴史を知る
	−常設展示室− 常設展示室をひとめぐりしてみると杉並の歴史の流れがわかるようになっている。

	<杉並区の歴史原始から古代>

	杉並では、約3万年前から人々が生活していた跡が至るところで発見されている。杉並区内には北から妙正寺川、善福寺川、神田
	川と3本の川が流れており、その周囲にも武蔵野台地の地下水が涌き出る、人間の生活の根源である“水”の豊かな地域だったか
	らである。展示室では、一時は日本最古(約35,000年前)のものといわれた「局部磨製石斧」(高井戸東遺跡より出土)や、ダニ
	を押し付けた痕のある縄文時代の土器片(松ノ木遺跡から出土)などを見ることができる。












	区内には北部に井草川・妙正寺川、中部に善福寺川、南部には神田川がそれぞれ蛇行しながら東流し、これらの河川の流域には200
	ヶ所近い遺跡が点在している。神田川流域では、武蔵野台地最古の局部磨製石斧(約2万7千年から3万年前)を出土した高井戸
	東遺跡や下高井戸塚山遺跡、妙正寺川の谷頭には関東地方縄文時代早期の標式遺跡となっている井草遺跡が著名な遺跡として知ら
	れている。また、近年の調査では神田川中流域において、向ノ原・向ノ原B地点・東原・前山・蛇場美遺跡などの縄文時代早創期
	(約1万千年前)の遺跡が集中的に発見されており、区内における最初の縄文人はこの辺りにたどり着き、その後各地に拡散して
	行った可能性がある。区内で遺跡数の増加する傾向の見られる中期になると、環状集落で知られる神田川流域の下高井戸塚山遺跡
	や中袋遺跡、善福寺川流域では丸山・光明院・松ノ木遺跡があり、後期になると神田川流域の山中・向方南遺跡などがある。














	<高井戸東遺跡(高井戸小学校内)から最古・最大級の炭化材が出土。>
	高井戸小学校の校舎改築に伴って平成17年7月より発掘調査が行われている高井戸東遺跡において、現在のところ日本最古・最大
	級の「炭化材」が出土し、同じく日本最古級の磨製石斧の刃部破片も一緒に発見された。この炭化材は放射性炭素年代測定による
	分析から、約3万2千年前のものであるという結果が得られ、さらにマツ科トウヒ属の針葉樹であることが確認された。炭化材は長
	さ20p、幅16p、高さ 5.5pの大きさで、大きく湾曲して検出されていたことから、20cm以上の太さを持つ樹木であったことが推
	測される。このような大きさと古さを持つ炭化材が検出されることは非常に珍しく、さらに、この炭化材が発見された武蔵野台地
	第]層中からは、磨製石斧の刃部破片やナイフ形石器を含む石器群が検出されていることから、この炭化材の年代によってこれら
	の石器群の正確な年代も明らかとなった。また、この樹木は現在よりも5〜6度気温の低い寒冷地にある木であることから、当時
	の自然環境の復元においても重要な資料となるものといえる。
	今回、これらの石器や炭化材が発見された武蔵野台地第]層は、いわゆる前期旧石器の捏造発覚により現時点で最も確実な日本最
	古の石器文化が発見された地層ということができる。このことから、今回のように大形の炭化材と石器群が同じ地層から発見され、
	その年代が確定できたことは非常に大きな成果ということができる。なお、現地調査は平成18年2月上旬に終了しており、現地見
	学等はできない。また、保存された炭化材は現在調査中だが、今後の展示等の公開については検討中だそうだ。
























	区内の弥生時代は4世紀頃の後期になってから大規模な集落を構成するようである。善福寺川中流域から下流にかけて、松ノ木・
	済美台・本陣山・方南峰遺跡、神田川流域には鎌倉橋上遺跡で集落跡が発見されているが、いずれも直径 100mを越す環濠に囲ま
	れた環濠集落を形成していたと思われる。古墳時代になるとさらに集落は統合され、遺跡はほぼ弥生時代の集落と重なるように形
	成されている。善福寺川中流域にある大宮台地上には、6世紀前半に構築され、外周直径が約20mの円形周溝墓が発見されている。
	この地を治めていた権力者の墓と思われる。また、近年これまで区内で考古学的には空白の時期と云われていた、平将門や菅原道
	真の時代(10世紀前半)の住居跡が、善福寺川上流域の丸山遺跡で発見されている。










	<中世>

	中世の杉並は、武蔵国の国府があった府中の影響下にあり、この頃から現在の地名にその名を残す集落があちらこちらに誕生した。
	和歌山県那智神社所蔵『那智米良(めら)文書』は、熊野那智神社の御師(おし)の関東行脚の記録で、応永27年(1420年)のもの
	のなかに「中野殿、あさかやとの」と記され、阿佐谷の地名を名乗る武将が存在したことを示している。一方、上杉文書を見ると
	宝徳 3年(1451年)の室町幕府下知状の写しがある。これは鎌倉の円覚寺宝亀庵と受勝軒の寺領である越後国中治田保を、道悦の知
	行している堀内・下荻窪・泉村(和泉)と交換することを幕府が認証したもので、道悦とは、関東管領上杉憲実の弟重方の法号で
	ある。この文書によって、当時の堀内・下荻窪・泉村などにある程度の田畑・農家・農民がいたことが確認できる。
	1590年、秀吉の家臣の名で大宮八幡に「制札」が下げ渡されている。これは、殺生などのを禁止事項を記した札のことで、これに
	よって大宮八幡宮がいち早く秀吉の傘下にはいったことがうかがえる。また、天正11年(1951年)に行われた「和田村の検地帳」
	(写)は、全国的に行われた、いわゆる太閤検地の一環として行われたものである。










	<近世>

	江戸時代の杉並は、江戸の近郊農村としての性格が強く、生産の中心は雑穀だった。当時農民には厳しい統制が加えられていた。
	そのうえ杉並区周辺は徳川家の鷹場に属していたため、展示されている「御鷹場法度手形之事」という古文書には、木々の伐採や
	鳥や小動物の捕獲の禁止などの規制が加えられていたことがわかる。
	徳川幕府が江戸に開かれるとともに、区内の村々にそれぞれ支配機構が確立され、また新田開発による開村などもあって、中期初
	頭には20の村が成立した。これら20の村は、幕府直轄領(天領)・今川氏領・内田氏領・岡部氏領(元禄以後なし)・山王社領な
	どに分かれていた。これと同時に、杉並は江戸近郊の農村地帯として、江戸市民への野菜の供給のほか、その清掃面をも担当して
	いた。杉並は江戸時代 300年間を通じ、純然たる農村地帯で、住民もほとんどが農業に従事していた。彼等は、収穫物の中から一
	定の年貢を領主や代官所に納めるほか、臨時の課役や道路・橋梁の普請の助役および助郷(すけごう)などを勤めなければならな
	かった。その他、将軍に対する諸納物の調達などにも追われていた。
	また、甲州街道の高井戸宿は、時代劇に出てくるような宿場のイメージとはずいぶん異なり、街道沿いの農村といった雰囲気であ
	ったことを復元模型によって見ることができる。区内に現存する妙法寺は、当時から「やくよけ祖師」として知られ、落語や川柳、
	洒落本にも取り上げられた、江戸の庶民の観光地でもあったことが、浮世絵などから知ることができる。









 

 

 




































	<近代:明治維新から現代>

	明治維新によって徳川幕府が倒れるとともに、大部分が旧幕府直轄領であった本区内は、武蔵知県事の支配化に入ったが、次いで
	品川県に編入された。明治 4年、戸籍法(5年実施、壬申戸籍といわれる)の施行に伴い、本区は、東京府第8大区5小区と6小区に
	属していた。同時に江戸時代から続いた名主制度が廃止されて、戸長・副戸長の制度となった。明治5年の学制実施によって、8年
	4月に小学校が区内に設立された。明治11年、郡区町村編成法によって東京府は15区(市街地)と6郡(郷村地)に分けられ、本区
	は 6郡中の東多摩郡に属した(東多摩郡は、明治29年に南豊島郡と合併し豊多摩郡と変更)。ついで、区町村会法が公布され、区
	内20ヵ村は六つの連合村を組織し、その各々に戸長が置かれ戸長役場(村役場の前身)が設けられ、連合村会も持たれた。さらに、
	明治21年には市制及び町村制が発布されて、区内20ヵ村も4ヵ村あるいは6ヵ村が合併し、翌22年には杉並・和田堀内・井荻・高井
	戸の新4ヵ村となった。
	画期的な変化をもたらしたのは、大正12年9月の関東大震災後の東京市人口の郊外流出だった。区内では杉並村の発展が最も早く、
	同13年6月には町制をしいたが、ついで同15年7月には和田堀内(後に和田堀と改めた)・井荻・高井戸・の 3村が相ついで町にな
	った。関東大震災以降、甲武鉄道(現中央線)が敷かれ、井荻村で国内でも有数の区画整理事業が行われた結果、杉並区は東京の
	近郊住宅地として今日まで発展してきた。
	昭和 7年10月1日、新市域に新しく20の区が置かれたとき区内には杉並・和田堀・井荻・高井戸の4ヵ町があった。その後、昭和18
	年 7月、新たに都制施行とともに東京府東京市は東京都となり、本区はこの時から東京都杉並区になった。戦後、地方自治法の公
	布により、都の区は市に特別区とされ、市に近い性格を与えられた。その後、昭和40年の大幅な事務事業移管を経て昭和 50年4月
	からは、地方自治法改正に基づき区長公選制が施行された。さらに平成12年4月から、特別区制度改革と地方分権改革が行なわれ、
	清掃事業など区民に身近な仕事を区が行うことになったのをはじめ、財政面でも自主性は強化されることになり、杉並区は「基礎
	的な地方公共団体」として新しい時代を迎えた。 
	戦前から軍人や学者、作家やジャーナリストが移り住み、「文化のまち杉並」のイメージはここから生まれてきたといっても過言
	ではない。その一つの現われが、杉並から全世界に広がった「水爆禁止署名運動」である。常設展示では、当時のポスターや署名
	簿、議事録などで当時のことを知ることができる。この他、杉並の近現代の様子は、昭和初期から杉並に住んだ井伏鱒二の『荻窪
	風土記』を通して展示されている。










	<井伏鱒二と『荻窪風土記』>

	井伏鱒二は『荻窪風土記』の中で、下宿屋の主人の言葉として、「風あらき荻窪の秋暮れにけり」と詠んでいる。その風荒き荻窪
	の地に、井伏が住居を構えたのが、昭和二年。それから五十年余りの出来事を自叙伝風に綴った『荻窪風土記』には文学のこと、
	太宰治や三好達治等のこと、そして荻窪のまちの変遷がユーモアとペーソスあふれる文体で綴られている。『荻窪風土記』の自筆
	原稿を中心に、書画、陶芸、釣道具などで井伏鱒二とその文学が紹介されている。































研究紀要なども玄関口に置いてあって、誰でも無料で持って帰れるようになっている。



	
	ここでの解説はその殆どを、杉並区教育委員会のHP、杉並区立郷土博物館のHP、internmet百科事典ウィキペディア、および、
	館内の解説・説明文から転載・加筆した。記して感謝の意を表したい。またデジカメ写真以外の資料は、博物館発行のパンフレッ
	ト、「復元遺跡のしおり」から転載した。重ねて謝意を表明する。


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