三沢遺跡
小郡市の三沢地区、西鉄三国が丘駅すぐそば、また平成23年にリニューアルオープンした九州歴史資料館に隣接する「三沢遺跡」は、
今から約2200年前、弥生時代中期の集落があったとされる場所で、小郡市北部から筑紫野市に至る全国的にも有名な三国丘陵の中心
地。遺跡は4つの丘陵に分かれ、それぞれ竪穴住居や食物の貯蔵穴が十数基ほど集まっていたことが分かっている。周辺からは多数
の土器・磨製石器が出土するなど、当時の姿を色濃く残していることから現在は県の史跡に指定されているほか、緑豊かな一帯は、
地域のいこいの場としても親しまれている。
駅から来ると、この遺跡の中を通って九州歴史資料館へ行くようになっている。
桜の花がほぼ満開。遺跡内は通路やベンチが綺麗に整備されている。予算があれば復元竪穴式住居でも1つ2つ置きたい所だろう。
●三沢遺跡(みさわいせき)
県指定史跡。九州縦貫自動車道の建設のため、昭和46(1971)に県教育委員会が予備調査した。弥生時代の遺構は四つの尾根にま
たがっていた。全ての尾根から竪穴住居跡と袋状貯蔵穴が見つかり、主脈の丘の北端には、防御用と見られる溝があった。遺構の周
辺からは、弥生土器、磨製石器群が、貯蔵穴からはコメ・マメ・イチイガシの実なども検出された。三沢遺跡は、調査された範囲内
でも四つの高地性集落、古墳時代の集落、墓地が認められ、県の指定文化財となった。三沢はその名のとおり、大小の沢や丘が入り
組み、丘には弥生時代、古墳時代の集落、墓地が密集し、昔から人々の生活に適していたことがうかがえる。近接するレクセンター
(現在はなし)内の丘にも、当時の社会のしくみや生活を知るうえで大変貴重な弥生時代の集落や古墳時代の古墳が眠っている。
(「博物館めぐり」の「小郡市埋蔵文化財センター」より転載。
この丘陵に弥生人達の集落があった。水はすぐ側を宝満川が流れているし、水田もその近くにあったのだろう。
ここが「展望台」と呼ばれる場所である。ここから7基の竪穴住居跡が見つかっている。ここで弥生人達は、毎日いったいどんな会
話を交わしていたのだろう。稲の出来か他国の情勢か、はたまたセガレの非行かもしれない。
三沢遺跡(県指定史跡)
三沢遺跡は、弥生時代前期から中期を中心とする集落跡である。九州縦貫自動車道を造る際の確認調査によって発見された。小郡市
北部から筑紫野市に至る三国丘陵は、弥生時代前半から中頃の大集落として全国的にも有名で、中でもこの三沢遺跡はその中心とな
るものと考えられている。
遺跡が存在する丘陵地帯は三国丘陵と呼ばれ、標高30mから40mの小さく低い丘が続いている。弥生時代の前期から中期にかけて、
これらの丘に連なるようにムラが作られた。三沢遺跡はこの辺りで中心となるムラの一つで、丘陵の四つの尾根上で竪穴式住居や貯
蔵穴が見つかっている。この遺跡では、数軒の住居と貯蔵穴がセットとなって生活が営まれ、その「集団」がさらに集まって「共同
体」が営まれている様子が確認されており、弥生時代の社会の解明に欠かせない遺跡と言える。
この場所にはかって簡保レクセンターがあったため、これまで本格的な発掘調査が行われず昔の姿のまま残された遺跡である。地面
の下に今から約2100年前、弥生時代前期から中期の集落が眠っている。
近畿圏を巡っていると、こういう看板はたいてい「タケノコ伐採禁止」だが、北九州では「山芋」だ。
九州歴史資料館
九州歴史資料館は、昭和48年開館で、もともとは福岡県太宰府市石坂 4-7-1、太宰府天満宮の北東歩いて10分程の所にあった。
天満宮の脇道を抜け住宅街の中を通っていくひっそりとした場所にあったが、すぐ側の丘の上に「国立九州博物館」が出来たので、
平成22年に小郡市三沢へ移ってきた。小郡市には多くの古代遺跡が所在し、特に弥生時代の遺跡の多さはなかなかのものである。
新館の建物も県指定史跡「三沢遺跡」に隣接しており、駅から来るとこの遺跡の中を通って資料館へ出るようになっている。
「九州の歴史とその特質を明らかにするため」に設立されているが、福岡県立の歴史系博物館であるため、太宰府史跡の発掘調査
をはじめ、主として福岡県内の史跡調査や研究を進めていて、豊前市の「求菩提資料館」、私の生まれ故郷である朝倉市の「甘木
歴史資料館」、柳川市の「柳川古文書館」は、この九州歴史資料館の分館となっている。
この部分は写真撮影禁止だった。糸島の前原にある博物館など、某氏が館長になるとどこもが撮影禁止になる。某氏は京大出で、
この大学系の人達はホントに頭が固い。近畿でも関西大や同志社、天理大などの私立大の博物館は「どうぞ、どうぞ、写して下さ
い。」という態度なのに、京大の博物館は「撮影禁止」である。国民の税金で大学や大学院を出たくせに、その恩を国民に返して
いない。館員の反対を押し切ってでも「撮影解放」をすべき立場なのに、なげかわしい。
或いは、福岡という地域が文化的に未熟なのかもしれない。封建時代の「お上意識」をまだ引きずっているのだろう。成熟した民
主社会・地域の博物館・美術館は全てがオープンである。アメリカやヨーロッパの博物館・美術館で「写真撮影禁止」を唱ってい
る処にはまだお目に掛かった事が無い。それは全ての文化的財産は国民のものであるという意識が広く浸透しているからだ。
イタリアなどは、納税者であるサラリーマンが見に来れるようにと、閉館を午後7時や8時に伸ばしているというのに、日本はま
だまだそういう意識に欠けている。
これではいつまでたっても、国民に支持される博物館にはなるまいと思われる。もう嫌と言うほどアチコチに書いてきたが、博物
館の職員達がそれを始めなければ、状況はいつまでたっても変わらないのである。電車を止めることが出来るのは運転士であって、
乗客がいくら叫んでも、ホームの駅員がいくら旗を振っても電車は止まらない。
おもしろそうなものが一杯並んでいるが、これくらいしかご紹介できない。
田中幸夫(1902〜1982)は、昭和後期から戦後にかけて、福岡県内各地の高校で教員として教壇に立ちながら、九州考古学会の創
設や調査研究に携わり、九州における考古学研究草創期を語る上では鏡山猛氏、中山平次郎らと共に、欠かせない研究者である。
その研究フィールドは、北九州、宗像から筑後地域に至るまで幅広く、その活動の中では多くの遺跡の調査を行い、採集された遺
物は膨大な蔵書と共に「田中幸夫コレクション」として、昭和56(1981)年に九州歴史資料館に寄贈された。氏が亡くなっておよ
そ30年が過ぎてなお、コレクションの資料的価値は高く評価されている。
また、装飾古墳の発見・保存・啓蒙活動に大きな貢献があった人物としても知られ、特にうきは市の珍敷塚古墳、鳥船塚古墳は、
氏の尽力で保存されたものである。田中氏は、遺跡や遺物を現地に保存することの重要性を訴えて、自分の収集した膨大な考古資
料を一括して九州歴史資料館に寄贈した。高校の教師を続けながら郷土の遺跡や歴史に関して幅広い調査研究活動を展開し、九州
考古学会の結成や興隆に深い功績を残した。
今回の展示では、氏が最も深くかかわった筑後地域の出土資料を中心に、筑後考古学研究の黎明を飾った資料の数々が展示されて
いる。
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三沢遺跡 写真パネル展示
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邪馬台国大研究・ホームページ/ INOUES.NET/新・九州歴史資料館