今月2度目の熊本出張だ。前回は、空いた時間で熊本城を30年ぶりくらいに訪ねたが、今回は雨の中を、前回見 逃した「熊本博物館」を訪れた。荒れ模様だったからか、時間があまったからか、飛行機はなんと海側へ出てから 熊本空港へ入っていった。
細川刑部家は、細川家3代(肥後藩初代)・忠利公の弟、刑部少輔興孝が正保3年(1646)に2万5千石を与えら れて興したものである。興孝は、延宝6年(1678)に子飼(現在の熊本市東子飼町)にお茶屋をつくり、後に下屋 敷とした。その後元禄年間や宝永年間にも造作がおこなわれ、刑部家は代々「刑部」(ぎょうぶ)か「図書」(ず しょ)を名乗り、家禄1万石で活躍した。
<細川刑部邸> 平成2年から4年をかけて熊本城の三の丸に移築復元された、全国有数の上級武士の屋敷である。大玄関から母屋、 表客間、書院へと続き、当時の武家屋敷としては珍しい木造二階建の「春松閣」と呼ばれる間、広々とした庭園等 を備え、上級式武家屋敷としての高い格式をもっている。邸内を巡回しながら貴重な品物を観覧することができる。 今日は時間なく中には入れなかったが、広大な庭を見ただけでも当時の上級武士の瀟洒な生活が目に浮かぶようだ。 昭和60年に熊本県重要文化財に指定されている。
熊本市立熊本博物館は、自然・人文の郷土博物館として昭和27年(1952)に設立された。私より2つ若い。その 後幾多の変遷を経て昭和53年(1978)に現在の本館も新築された。ここは歴史博物館ではなく、自然、人文の両 部門、さらに理工学部門とプラネタリウムを併設した総合博物館である。ちなみに熊本城天守閣はここの分館とし て設置されている。西南戦争関連資料や、東洋象の実物大復元模型をはじめ、熊本の考古、歴史、民族についての 展示があるが、総合博物館であるためか、1階には自然科学やエネルギー関連の展示物も多い。動力機関や飛行機、 ヘリコプター、日本初のロータリーエンジン搭載車、コスモスポーツも展示されていた。
1階の地学系の部屋から中庭へでる。ワットの蒸気機関を使った機関車と飛行機が並んでいる。子供達の人気の的 だろうが、男にとっては大人になっても楽しい。それにしても女という生き物は、どうしてああまで機械や宇宙な どに興味を示さないのだろう。
<荘園と武士の発生> 律令制度がくずれて、有力者の私有地の一種である荘園が全国にひろがり、肥後熊本でも11世紀以後におおくの 荘園ができている。そのおもなものには、後宇多院領の山本郡西荘、白河院領の山鹿郡山鹿荘、蓮華王院領の人吉 荘などがあり、その所有者は、中央の貴族や社寺に自分の荘園を寄進して免税などの特権を手に入れた。このよう な荘園を守る人々のなかから武士がうまれた。肥後の武士では、阿蘇氏と菊池氏が有名である。阿蘇氏は古代から の豪族で、阿蘇神社を背景に勢力をもち、菊池氏は大宰府の府官からでて、菊池地方の荘園に土着して大きな力を もつようになった。
<東陵永與倚像(重要文化財)> ヒノキの寄木造り、玉眼で全面に彩色がある。東陵永與は熊本市松尾町の雲巌禅寺を開いた曹洞宗の僧、元の人で ある。観応2年(1351)来朝、京都・鎌倉の大寺院に歴任し、貞治4年(1365)81歳で没。この像は没後まもな くつくられたものと思われ、熊本の肖像彫刻のなかでも代表的なものである。 <浜の館の大甕> (ケース内木像手前) 浜の館は阿蘇・益城両郡を中心に勢力をふるった阿蘇大宮司家の邸宅で、14世紀中頃に建設され、16世紀中頃、 戦火で焼失した。かつて伝承だけだった館の跡から、最近の発掘調査でおおくの遺構、遺物が発見され、伝承が正 しかったことが証明された。これは備前焼の大甕で、館の水甕に使われていたものと思われる。
<熊本城と治世> 肥後の領主になった加藤清正は、慶長6年(1601)から6年をかけて名城熊本城を築いた。城下町をつくり土木開 発には特に力をいれ、治水工事、新田開発、干拓事業にも着手している。その恩恵により、いまでも「清正公様」 としてしたわれている。加藤氏2代の後、細川忠利が肥後54万石の領主になり、11代230余年の細川氏時代 がはじまる。細川氏は郡と村のあいだに手永という制度をつくり領内を治めた。藩校「時習館」をつくり、風土、 気質、技術など現在の伝統的な肥後文化のもとを育てた。また、大規模な干拓事業もおこなった。この時代、天草 は天領、人吉・球磨地方は相良氏が領有して、それぞれ独立していた。
<伝加藤清正愛用の酒樽> (上右、右奥) 加藤清正が熊本城築城にあたって、工事現場を監督した時、いつもこの酒樽をそばに置いていたと伝えられるもの で、清正から家臣遠阪氏にあたえられたものといわれている。蓋のおもてには「二斗二升三合五勺」と刻まれてい る。
<新しい時代の波> 明治維新のころ、肥後藩には学校党、勤王党、実学党の三つの勢力があった。主力は藩校時習館を中心とする学校 党で、旧体制を維持しようとするもの。勤王党は宮部鼎蔵を中心に、幕府を倒すために藩内外で同志とともに活躍 した。実学党は「横井小楠」を指導者とする学政一致の進歩主義者たちだった。 維新後の明治3年(1870)、実学党が藩の政権をにぎり、急進的な藩政改革がおこなわれた。翌4年4月、古城医 学校が開校、同年9月、熊本洋学校が開校された。いずれも外国人教師をまねいて、最新の知識・技術の導入につ とめた。
<西南戦争の兵器類> 西南戦争では、両軍ともに大砲、小銃など各種の火器が使用された。国産の兵器がたりなかったので、新旧各種の 輸入兵器が混用された。政府軍は補給が充分でしだいに新式に交換したが、薩軍はそれができず、戦いの開始から 不利な立場だった。 <神風連血染めの羽織>(上写真の、一番手前にある着物) 明治9年(1876)年10月24日夜に起こった神風連の変は、熊本では旧士族の反政府活動とされるが、一般には 「不平士族の反乱」として有名である。かれらは熊本鎮台の反撃にあって敗退した後、一日のうちに多くが自決し た。この羽織はそのひとり、大石虎猛が25日朝自決したとき着ていたもので、右側の頚動脈を切断したので、お びただしい血痕が付着している。大石虎猛は23歳だった。「神風連の変」については「歴史倶楽部」の中の「日 本の城と城下町」コーナーの「熊本城」に詳説。
幕末の先覚者横井小楠は沼山津に「四時軒」を建て、私塾を開いて実学の思想を教えた。沼山津は現在の熊本市秋 津町で、小楠が非常に気にいっていた場所だという。かれはここに安政2年(1855)から、あしかけ10年生活し ている。
「ころさず」というのはあまりにも直接的で驚く。それだけになまなましい。
滑走路にも、まるで映画のように飛行機の両側に誘導灯がともっていた。上右は離陸の瞬間。上下に流れていた窓 の雨が、いきなり横へ流れ出す。
ここでの解説、および画像の一部は、本館発行の「熊本博物館 総合案内」から転載しました。記して謝意を表します。